「待って、敬ちゃん」

数歩行った先で呼び止められた。
振り返ると、大粒の涙を流しながらこちらを切なく見つめる瞳があった。





























取引き(後)




























芹沢!

いつもなら泣き顔を見た瞬間そう叫んで急いで駆け寄っていただろう。
でも、この時は違った。
彼女の涙に自分の中の何かがもろくも崩れ去るような感覚を覚えた。
足を、一歩、また一歩と彼女のほうへ踏みしめるようにして近づく。
崩れていくものを確かめるように、ゆっくりと。
崩れたものは友達の絆か。
これからの二人の未来か。
違う。
そんな高尚なものではなく、もっと幼稚で簡単なもの。

「・・・・・・・・・・」

彼女の目の前で止まる。
右手を彼女へ伸ばし、そっとその頬に触れた。
指先から濡れた感触が伝わる。
いとおしい。
そう思ったら、自然に身体が動く。
掬い取った涙をすいっと自らの口元へ持っていき、ペロリと舐めた。
ふと視線だけ彼女へ向けると、その目は大きく見開かれていた。
ニヤリと笑ってやると、その細い肩をびくりと震わせる。
ああ、そんな反応をするから。

(俺の我慢がきかなくなるんだろ)

「芹沢」
「・・・ぇ、え!?」
「どうして泣いてるんだ」
「え、あ、の、・・・それは」

驚いた様子で両の頬を拭うけれど、涙は一向に止まる気配を見せないようだった。
それでも辛抱強く待っていると、彼女は諦めたように、泣き顔のままこちらに視線を戻した。
その視線を一度外し、もう一度戻して、堅い口を開いた。

「け、敬ちゃんは、どうしてあれ以来私に触らないの」

触ってほしいのかよ。

そう冗談めかして返せたら。

「と、取引って、言ってたのに」
「触れなかったんだよ」
「え・・・?」
「お前があんまり泣きそうな顔してたから、怖くなって触れなかったんだ」
「・・・・・・・」






「お前があんまり泣きそうな顔してたから、怖くなって触れなかったんだ」

そう言って彼は苦く笑った。

「でも、触ればよかったかもな、無理やりにでも。そうすれば」

彼の瞳が揺れる。
泣きそうなのは、どっち。

「そうすれば、俺がシリクスじゃないってことが、嫌でも分かっただろうから」

突然、思いがけない名前が出てきて戸惑った。
シリクス?

「・・・え?」
「シリクスはあんな理不尽なこと絶対にしないよな」

そう言って、彼はくるりと背を向けた。

「先に下駄箱のところで待ってる。落ち着いたら来いよ」

片手を挙げて去っていく後姿。
あの日と同じ。
いやだ。
待って。
今度こそ逃がさない。

「待って敬ちゃん!」
「うわ」

追いかけて、背中に抱きついた。

「・・・芹沢」

困ったようにため息をつく気配。
覚悟を決める。

「悪いけど察してくれ。今のお前は目に毒だよ。またお前に無理やり嫌な思いをさせたくないんだ」
「私が好きなのはシリクスじゃない!!」

大きな声を出した。
それは思いのほか気持ちよかった。
塞き止められていたものが一気にあふれ出した。

「ずっと、敬ちゃんを見てた。誰よりも傍で、敬ちゃんだけ。私を見てないって知ってたけど、ずっとずっと見てくれることはないって思ってたけど、それでも止められなかった。敬ちゃんが、ずっとセレナを、もう手の届かない人をそれでも諦めずに想ってるのを見てて」
「芹沢・・・」
「私も、同じだった」

その思いの純粋さに惹かれた。
誠実で、一生懸命で、思いやりがあって。
腰に回した手をゆっくりと離した。
振り返った彼の顔をまっすぐに見つめて言った。

「シリクスがどんな人だったのか、私は覚えてない。私が知っているのは敬ちゃんだよ」

彼はずっとシリクスとして生きてきた。
シリクスの思いを抱いて、シリクスの記憶とともに。
でも。

――セレナを守りたいのなら応えろ!!シリクス!!!

渾身の力を持ってそう叫んだのは。
叫ぶことが出来たのは。
もはや、シリクスではない「冴木敬大」がいたから。
いつから別れ別れになってしまったんだろう。
ずっとシリクスとともに生きてきたのに。

「・・・裕真が」
「裕真君?」
「裕真が教えてくれた。いつまでも他人の記憶(モノ)にしがみつくなって」
「え・・・」

彼が現れてから、シリクスと敬大は少しずつずれていったのかもしれない。
ただセレナを盲目的に想っていればいいだけではなくなってしまったから。
シリクスとして生きていくことが成り立たなくなっていった。
そしてそれと同時に、少しずつ、少しずつ、冴木敬大だけが見る景色が増えていった。
けれどその景色の美しさをすべて受け入れてしまうのは怖かった。
シリクスが見せてくれた景色があまりにも暖かで、優しくて、せつなくて、冴木敬大にとっても無くてはならないものだったから。

「シリクスじゃなく、冴木敬大を大事に思う人がいてくれるってことを知った。お陰で気付けた。俺自身が大事にしたいものもあったんだってことに」
「・・・・・・」
「シリクスじゃ大事には出来ないものだった。けど、シリクスの大事なものを俺が捨ててしまったら、それを大事にする人がいなくなってしまうんじゃないかと思っていた。・・・馬鹿だった。シリクスの大事なものは、シリクスにしか大事に出来ない。そんな当たり前のことに、よーやく気付いた。そしてそれと同時に、俺の大事なものは俺にしか大事には出来ないということも分かった」

彼の告白は、あの屋上で聞いた話しと重なった。
大事なことなんだと思った。
彼の唇の動きひとつ見逃さないように、言葉ひとつ聞き逃さないように、息をつめて聞いていた。

「俺は、芹沢を大事にしたい。恋人として」
「・・・っ」
「けど、お前は?」
「え、私・・・?」
「ロレイウスと友なのはシリクスだ。友達のころのほうが良かったのなら、もしかして、と、思った。お前が見ているのは、俺じゃなくて、シリクスなのかなって」
「そんなこと、考えてたんだ」
「俺は裕真に背中を押してもらえたけど、お前の背中を押す人はいたのかなって思ったら、不安になったよ。昔は思ってもみなかった。まさか俺がシリクスに嫉妬する日がくるなんてな」

おかしかった。
はじめから、恋をしている相手はひとりしかいなかったのに。
誰でもない、あなただったのに。

「で」
「え?」
「結局お前はどうなんだよ」
「な、何が?」
「とぼけるのか」
「・・・え、その」
「友達がいいのか、それとも恋人がいいのか」
「も、もう言ったじゃない」
「いつ?何て?」
「私が好きなのはシリクスじゃないって」
「じゃあ、誰」

あの屋上でのことが頭をよぎった。
明らかに同じような展開になっている気がした。
まずいと思った。
だって。

「・・・なんでそんな顔して笑ってるのよ」
「そんな顔ってどんな顔だよ」
「凄く嬉しそうに、でも意地悪そうに笑ってる」
「気のせいだろ。意地悪なのはお前のほうだ。お前は俺とのどんな関係を望んでんのか、はっきり言えよ」
「う・・・」

恋人、とか、好き、という言葉は、思いの外重かった。
ずっと固く封じてきた言葉だけに、唇がその形を紡ぐのを拒んでいるようにすら感じた。
彼はふう、とため息をついた。

「分かった。じゃあ別の質問にするよ。これだけは答えてもらうからな」
「え、な、何」
「簡単なことさ。イエスかノーで答えればいい」

嫌な予感がした。
彼の声がいちだんと低くなった。

「お前、俺に触ってほしかったのか」
「なっ」

あまりの問いに身体が固まる。

「な、な、何言ってんの」
「だってさっき言ってただろう。『敬ちゃんは、どうしてあれ以来私に触らないの』って。触られることを期待してたんじゃないのかよ」
「ち、違っ」
「素直に言ったら触ってやるよ」
「だ、誰が」
「嫌なのかよ」
「・・・っ」

ずるい。
嫌なわけがない。
けど、はっきり言わないと前回の二の舞になるのは明らかだった。
意を決して睨みつけた。

「だって、敬ちゃんが悪いのよ。あんな取引き持ち掛けるから、だから私、だから」
「だから?」
「だから、毎日緊張して、でも敬ちゃんあれ以来何もしてこないし、いつになるのかも分からなくて、もう私も緊張しすぎてわけが分からなくなって、しまいには下着まで選びだすようになっちゃって」
「は?下着?」

・・・・・・・・・。
今。
私、何て言ったの。

「おっ!・・・と」
「は、離して敬ちゃん、離してよ!」
「離すよ。ちょっと確認したらな」
「か、確認って、何を」
「お前の下着」
「は、離して!離して!」
「暴れるなよ。いいだろ、見せてくれても。俺のために選んだ下着なんだろ」
「やだ!ダメ!敬ちゃん・・・!」
「痛て、痛て、・・・とと、じゃあ、失礼します」

よりいっそう激しく暴れたが、彼の行動をとどめるにはいたらなかった。
彼の手が無残にもスカートをめくってしまった。

「あ、ホントだ。かわいい」
「いやぁ!見ちゃダメ!敬ちゃん!」

白くて柔らかそうな太もも。
その先を覆う布は、白地を基調に、薄いピンクのレースが両サイドを彩り、中央に小さく紺のリボンが着いている。
実に可愛らしいデザインだ。

「・・・へぇ」

満足そうな声が響く。
スカートが再び下ろされた。
でも掴まれていた腰の腕は一向に緩む気配がない。
恥ずかしさでもう死にそうだ。
せめて足でも踏みつけてやろうかと思ったそのタイミングで、耳元に低い声が響いた。

「芹沢、今はまだ見るだけで我慢しとくけどさ。いつか見せてね、全部」
「え・・・そ、それは」
「大好きだよ、芹沢」
「・・・・・・っ」

彼は最後に力をこめてぐっと抱きしめると、名残惜しげに離れていった。

「帰ろう芹沢。もうすぐ日が暮れる」

一点の曇りも無い笑顔。
誰よりも気を許している人に見せる純粋で無垢な笑顔。
それを見せられると、もう何も言えなくなる。
これを自分にだけ向けてくれる日が来るなんて夢にも思っていなかった。
どうか願わくは、これが本当に幸せなだけの夢ではありませんように。










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こんなあっけない終わりでスミマセン。
ホントはもっと敬大の「シリクスとして生きてきた過去への敬大としての思い」とか芹沢の「敬大の語りを通して思い描いていたセレナの存在と意味」とか、もっともっと掘り下げたいろいろな葛藤やら苦悩やらを書きたい気持ちがありますが、今回はこれが限界でした。
書き様によってはホントにかなり長くなりそうですが、いつか手をつけてみたいお題です。
私がNG創作をするにあたって越えたいと思っている壁かもしれません。
とりあえず、お粗末さまでした。

あ、最後の下着ネタのところで、敬大の台詞でひとつだけ入れようと思ってて止めたものがあります。
敬大があまりにもサイテー野郎になるので踏みとどまりました。
その台詞というのは「確かに可愛いけど、俺が用があるのはその中身なんだよな
敬ちゃんサイテー!!ホントサイテー!!!
っていうかスミマセンでした・・・!




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