放課後の教室。
二人きり。
外へ出ようとした瞬間捕まった。

「逃げるなよ」

耳元で低い声が囁いた。

























取引き(前)























「逃げるって・・・別に、ただ外に・・・」

出ようとしただけ。
言い訳は続かなかった。
聞くのを嫌がるように、彼が腕の力を強めたからだった。
表情は見えない。
ただ彼の心音が背中に伝わってくる。
早くて、強い。
当てられてこちらまで鼓動がおかしくなってくるような気がする。
・・・いや、彼のせいではない。
二人きりと、気づいた時点ですでにこちらも。

(どうしよう・・・)

確かに不自然だったかもしれない。
いつものように一緒に帰る約束をしていて、少し遅くなってしまったから、教室にいるのは彼だけになっていた。
ただ、それだけのことなのに。
扉を開けた瞬間、そこにいるのが彼だけだった。
それだけの事実が、直視できないほど恥ずかしかった。
まるで自分の内心を見せ付けられたような錯覚を感じた。
黄昏時。
ただ一人そこに佇んで笑うその人。
その笑顔も、優しい声も、伸ばされた腕も全部自分に向けられている。
夢のようにきれいな景色。
足が、すくんだ。

「芹沢?」

逃げるのが遅れた。
背を向けた瞬間捕まった。

「何で逃げるんだよ」

そう、逃げた。
私は逃げた。

「け、い・・・ちゃ・・・」

痛い。
何が。

「い、痛いよ。敬ちゃん、離して」

腕の力が緩んだ。
でも離れない。
こういうところが優しい。
そしてずるい。

「なあ、芹沢」

絞り出すような声。
耳元に吐息がかかる。
身が竦む。

「俺と二人っきりになるのは嫌?」
「そんな、ことは・・・」
「じゃあ何で逃げるんだよ」
「・・・・・・・・・」

彼の声は掠れていた。
その弱々しい様は哀れだった。
不用意にとった自分の行動が彼を傷つけたのだと気付いた。
また腕の力が強まってきた。
でもそれは無意識なのかもしれなかった。
彼はそのままぽつりと洩らした。

「友達の、ほうが、良かったか」

その言葉を言うと同時に、息を呑んだのは彼本人だった。

「敬ちゃ・・・」
「待って芹沢。やっぱ今のナシ。言わないでくれ、何も」
「あの・・・」
「ごめん、芹沢。今更友達のほうが良かったって言われても、俺には無理だ。戻れない。今のは聞かなかったことにしてくれ、ごめんな」

否定してあげたかった。
怯える姿が哀れで、泣きたいくらい愛しかった。
けれど。
どうしてもその先に踏み出すことは出来なかった。
否定して、友達じゃない関係に自分から踏み出すことはあまりにも恐ろしくて、もし無くしたら二度と前を向けなくなりそうで。
結局何も言えないまま、身体を彼に預けた。
彼は無言のまま受け止めた。

そして彼女は、息を呑んだ。

「け、敬ちゃん!?」
「芹沢、触らせて」
「でも」
「触るだけ。それ以上は何もしない」

彼女には何が起こったのかよく分からなかった。
彼の大きな手が、ブラウスの上から彼女の胸に触れていた。

「やっ・・・敬ちゃん、何で・・・」
「頼むよ、芹沢。こうしてたまに触らせてくれたら、それ以上は望まないから。みんなの前でも、昔の『友達』のころみたいに振舞うよ。無理に二人きりになろうともしない。約束する」
「え・・・」
「少しだけ」

そう言って、今度は片手が太ももの内側に伸びてきた。

(うそ、うそ・・・)

胸と違って、直に伝わってくる掌の感触。
足の付け根間近を掠める。
全身が震えた。
でも。
確かにそれだけだった。

「・・・っ・・・っ」

熱い吐息が耳元に降りかかる。
荒い息。
嘘をつく人ではないと知っていても、恐ろしさに身が竦む。
彼は柔らかさを楽しむように胸を揉み、太ももに手を這わせ、たまに笑うような気配も感じさせる。
それでも、確かに触れるだけだった。
それ以上先にはいこうとしない。
お陰で、彼女も罪悪感があった分、どうにも彼を拒めなかった。
奇妙な時間が流れる。
彼の一方的な行為であるはずなのに、時が経つごとに罪悪感が増していくのは彼女のほうだった。

(もう・・・もう、だめ。だめだよ、敬ちゃん・・・)

ふと、そこで唐突に彼の行為は終わった。

(え?)

放り出された彼女は、目を丸くして彼を振り返った。

「もう暗くなってきたな。そろそろ帰らないと。先に降りて下駄箱のところで待ってるよ」

見慣れた笑顔。
いつの間にかカバンを持ってた。
帰る準備は整っているらしい。

「じゃあな、早く来いよ」

そう言ってそのまま出ていってしまった。
扉がガラガラと閉まる音。
続いてゆっくりと遠ざかる足音を、唖然としながら聞いていた。

(私・・・)

何かを間違ったのかもしれなかった。
急いで準備を整えて下駄箱へ向かった。
どうしてそんなに焦ったのか自分でも分からなかった。
ただ確かめたかったのだ。
何かを。
息を切らせて下駄箱に着くと、彼は笑って「帰るか」と言った。
何の変哲も無いその様は、彼女の不安を確信に変えた。
けれど彼女はその場ではどうすることも出来なかった。












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