「鈴!どこだ!鈴!」 月光に照らされた林の中を駆ける。 目を放した隙に妻がいなくなっていた。 「くそ!どこに行ったんだ、鈴」 と、目の端に遠くで小さく翻る薄紅の衣を捉えたと思ったその時。 ―――! 己の名を呼ぶ声に向かって全力で地を蹴った。 宴の陰 「ねぇ阿高、祭りに誘う、とはどういう意味なの?」 きょとん、とした表情で、妻が夫に問うた。 既に外は暗く、燭の火がゆらゆらと揺れながら柔らかく二人を照らしている。 「美郷姉さまに訊かれたの。『阿高から祭りに誘われている?』って」 それを聞いた夫が一瞬苦い顔になったのを、妻は見逃さなかった。 この表情をした時の夫は、なかなか妻の欲しい答えをくれない。 「それで、鈴はなんて答えたんだ?」 直接問いに答えずにはぐらかしている。 やはり、と鈴は内心思った。 (聞いてはいけないことだったのかしら・・・) 「そのまま答えたわ。『当日は朝早くから氷川の社でお清めの儀があるから遅れないようにといわれた』と」 しかし美郷はそちらのことではない、と言って他には誘われなかったのかと熱心に聞いてきたのだ。 鈴には他に祭りのことで阿高から聞いた覚えはなく、混乱してしまった。 「わたくしには何のことだか分からなかったの。でも美郷姉さまに聞いても『阿高にお聞きなさい』と笑って言われるばかりだったから」 夫の顔はそれを聞いてますます険しくなる。 鈴は少し不安になったが、それでも好奇心の方が勝った。 自分の知らない何か特別な行事があるのだ、と思うとわくわくした。 何度かの押し問答の末、阿高は漸くぽつりぽつりと説明してくれた。 それによると、祭りには通常の昼の催しとは別に、夜の場が存在するとのことだ。 夜の場とは男女の出会いの場で古曰く「歌垣(かがい)」と名づけられている。 主に春や秋に神聖な山や海辺、市などに老若男女が集まり、歌舞飲食に興じながら恋の歌を掛け合って、想い合う相手を探すのだという。 豊穣を予祝(よしゅく)し、感謝するために多くの人が集まる晴れの場は、まさにそういった意味での相手を見つけるにはうってつけで、年に数度しかない貴重な場なのだ。 ひととおりの説明を終えた後、夫は最後にこう付け加えた。 「・・・だからな、鈴。既に相手がいる者は、そういう場には行かなくてもいいんだ。そこはあくまでも相手を『探す場』だから」 なるほど、と納得しかけた鈴だったが、阿高の説明は辻褄が合わないことに気付いた。 「阿高の説明は良く分かったけれど、それならどうして美郷姉さまはわたくしに阿高に誘われたかどうか確認したのかしら」 「・・・・・・・」 「それに藤太は千種さんを誘ったと言っていたわ。どうして?」 「・・・・・・・」 「阿高?」 「・・・藤太と千種は、めおとになる前から約束していたんだ。・・・いや、それがめおとの約束だったというか」 「・・・・阿高」 「だめだ」 妻の台詞の続きを予測して、阿高は遮った。 それまでの歯切れの悪さとは打って変わって素早い応(いら)えになった。 鈴は呆れて言った。 「まだなにも言っていないわ」 「おまえの言いたいことくらいすぐ分かる。だめだ」 夫の頑なな態度に、鈴は肩を落としていった。 「・・・わたくしも行ってみたいわ」 「だからだめだと言っている」 「輪の中に入るとはいわないわ」 「だめだ」 「遠くから見ているだけでもいいの」 「・・・・・・・」 「ねぇ阿高」 「・・・・・・鈴」 言って、夫は妻へ手を伸ばした。 妻は自然な動作でその手を取ると、そのまま夫の懐に納まった。 夫は一度妻の肩口に顔を埋めてから、そっと耳元で問うた。 「そんなに行きたいのか?」 妻は夫の腕の中でこくんと一つ頷いた。 その応えに、阿高はため息をひとつ吐く。 どうしてかいつもこの妻には弱い。 頼まれると断れない。 残念そうな顔をされると多少の無理も聞いてしまう。 阿高は妻を軽く抱きなおすと、しぶしぶ告げた。 「おれのそばから少しも離れないと約束できるなら、連れていってやるよ」 これに、腕の中の娘は大層喜んだ。 「ありがとう!嬉しいわ。阿高大好きよ」 そう言って夫にしがみつく妻に、どうして悪い気がしようか。 この「大好きよ」は阿高にとって大変厄介だった。 お陰で何度無茶をしたことか。 半分は自業自得かもしれないが、もう半分は絶対にこの台詞のせいだと阿高は思っていた。 しかし、今回は本当に気が抜けない。 晴れの場なのだ。 日常とは分かたれた場所が作られる。 それはつまり日常では行えないようなことも許される場となるということだ。 阿高は、先ほどあえて説明から省いたことがあった。 鈴には言いたくなかった。 (おれがずっとそばにいれば何の問題も無いことだ) 腕の中の妻をゆっくりと横たえながら、阿高は自分に言い聞かせるように念じた。 (大丈夫・・・) しかし、祭り当日になって事件は起こった。 → |