―――いまこそ はれ われもむかしは わかかりし むさしいちの ますらをよ

そこは月明かりと大きな篝火に照らされた不思議な空間が広がっていた。
既に酒が回っている翁の陽気な歌に、周りの皆が大笑いしていた。
その脇を阿高はひた走る。
そんな阿高の様子に頓着するものは誰一人としていなかった。
今宵は祭り。
今宵はハレの日。
常とは別の、不思議な場が現れる。
そのどこか享楽的で、うっすらと恐れすら感じさせる空気に、阿高は一層焦りを募らせる。
篝火の炊かれている場所から更に奥の茂みに分け入って、薄暗い林の中に向かった。







「もうここでよいでしょう。離しなさい」
「まぁまぁ」

柔らかく笑んだ男は、しかし鈴の手首を固く握って離さない。

「わたくしはもうこれ以上奥へは行きません」
「どうして」
「夫に言われているのです、知らない人間にはついて行くなと」

――危ないから、少し離れていた方がいい。
そう言って、拝殿前の広場で鈴に声を掛けた男がいた。
――なに、ほんの少し離れて見ていれば安全だよ。
そしてそのまま強引に鈴の手を引いてここまで連れてきたのだった。
鈴は連れ去られる直前に夫を呼んだが、大きくなった歓声に全てをかき消されてしまった。

「手をっ離して!」

鈴は無理やり男から手を剥ぎ取った。
しかしそうされても男はまだ笑っている。

「そう、邪険にしないでくれないか。せっかく一人寂しそうにしているところへ声を掛けてやったんだから」

その薄ら笑いに鈴は寒気を覚えた。
ぶるりと身を震わせて、咄嗟に自分の身を抱きしめる。
その様子に、男は更に笑みを深くしたようだった。

「一人ではありません。夫を待っていたの」
「・・・へぇ。そうかい」
「だからわたくしはもう帰ります」
「おおっと」

踵を返した鈴の前に男は素早く回りこんで腕を広げた。
退路を絶ったつもりだろうか。
実際鈴はその場でやむを得ず足を止めた。

「そこをお退きなさい」
「・・・さっきから、夫、夫と。きみには夫などいないだろう」
「どういう意味です」

鈴は違和感を感じた。
この男とは会話をしているのに何も通じていないような気がする。

「よしんばいたとしても、今日は関係がないはずだ」
「何を言って・・・」
「知らないとは言わせない」

男はいよいよその表情を下卑た笑みに歪めた。
鈴は知らず後ろへ一歩後退する。

「今宵はハレの日。日常とは切り離された特別な一日。おれたちはそこにいるんだ」

鈴は意味が分からなかった。
阿高からは何も聞いていない。
阿高はただ『相手を探す場』としか鈴に説明していなかった。
しかし、この『歌垣』というものの実態は、阿高の説明とは少し異なる部分も存在していた。
阿高が始めに渋った意味を、鈴はこの時初めて知ることになる。

「つまり、日常では伴侶がいようがいまいが関係ない。今日は誰と何をしても許される。伊勢詣でもそうだ。その道中はすでに神へと通ずる道。日常とは切り離されている。だからその道中で授かった子どもはみな神の子としてみなされる。女の不義理という奴は誰もいない」

神に近づくハレの場は特別な場。
日常の理とは一線を画す不思議の舞台。

「・・・実際今日もいろんな奴が楽しめる相手を見つけて一夜限りの夢を見ているじゃないか。何をひとりだけ常識ぶっているのやら」
「知りません、そんなこと!」

鈴は無駄と知りつつ必死に叫んだ。
目の前の男はやはり何も感じないようだった。
いきなり鈴との距離を縮めると、再び彼女の腕を取った。

「まさか本当に知らないのか。・・・まぁそんなことはどうでもいいさ。今日あったことなど明日いつもの日常にもどれば忘れてしまうといい。今日はただの夢だよ」

男はもう一方の手で鈴の腰を掴んだ。
その瞬間、鈴の体に堪えきれない怖気が走った。
鈴は渾身の力で叫んだ。

「阿高ぁ!」

その声に、男の腕の力が一瞬緩んだ。
鈴の声の大きさに驚いたのか、それともその名がこのあたりでよく知られる二連の片割れのものであることに若干の恐れを抱いたのか。
どちらにしろ、鈴はその隙に男から逃れることに成功した。
男がはっとして逃れた娘に手を伸ばす。
その手が娘の薄紅の衣に触れるか触れないかの瞬間だった。

ばきっ!

「っうお」

男が顔面を押さえて仰け反ったまま後ろへ倒れた。
阿高はその勢いのまま妻を抱き上げると、倒れた男を俯瞰して言い放った。

「次にこいつに触れてみろ。二度と人目に触れられない顔にしてやる!」

男は倒れたまま怯えの表情をして何度も頷いた。
阿高はその憐れな姿を侮蔑するように一瞬目を細めて見やり、そのまま妻を抱えてその場から走り去った。





ゆっくりと木の幹に下ろされた鈴は夫を見上げた。
阿高は彼女の頭上の幹に手をついて、苦しげな荒い息をついていた。
彼は妻を抱えて遠くまで走り通しで来たため、随分いろいろなものを消耗しているようだった。

「阿高・・・」

労わりのこもった妻の声に、阿高は一瞬そちらへ目線を遣すが、堪らずそのまま頽(うなだ)れて妻を腕の中に抱きこんだ。
鈴は息を呑んだ。
夫の腕は全く力が入らず、それどころか哀れなほど震えていた。
疲れのためか、それとも。

「・・・ず・・・鈴・・・」

腕と同じく震えた声が妻の名を呼ぶ。
呼吸が荒く苦しそうに、それでも妻を求めて。
ただ掌だけが、妻の衣を強く握り締めていた。

「・・・知らない、者に・・・つ、ついて、行くなと、言った・・・のに」
「ごめんなさい、阿高」
「っこ・・・、どこへ、行ってたんだ・・・っ鈴。どこにもっ、どこにも行くなと、あれほど・・・ッ」

阿高のそれは責めるものではなく、まるで一人置き去りにされた幼子がやっと見つけた母親にしがみついて喚いているような、どこか頼りなげな声だった。
荒い息でところどころ裏返るせいか、泣いているようにも聞こえる。
鈴は夫の胸の中でほんの少し身を捩(よじ)り、腕を彼の背に回した。

「阿高」

そのまま優しく宥めるように包み込む。

「阿高、ごめんなさい。きてくれてありがとう」

そう言ってゆっくり摩っていると、彼は段々と落ち着きを取りもどしていく様だった。
荒かった息も少しずつ整ってゆく。
ふと、衣を握り締めていた阿高の手が緩んだ。
鈴が見上げると、阿高も鈴を見ていた。
彼の瞳はあまりにも寂しそうな色をしていた。

「阿た・・・ん」

いきなり阿高は鈴の唇をぺろりと舐めた。
不意をつかれて鈴は咄嗟に目を閉じる。
阿高はそのまま入ってきた。

「ん・・・あっ・・・」

そろそろとなぞる様に、確かめるようにゆっくりと蠢くそれは、彼が妻に甘える時特有の仕草。
まるで子猫が人の指先を舐めるように柔らかく動き、躊躇わず求め、無心で懐く。
それが鈴にはいつも堪らなく愛おしくて、彼が満足ゆくまでずっとずっと応え続けるのだ。
幾度か角度が変わり、その際二人の間で微かな声や水音が洩れることもあったが、それらは誰に聞かれることもなく、すべて夜闇に溶けて沈んだ。
どのくらい時が経ったか、阿高がゆっくりと顔を上げた。
彼の腕の中では妻がぐったりともたれかかり、まともに動けなくなっていた。
その様に彼はどこか満足した顔になり、妻を抱え上げて膝の上に乗せた。
彼女の柔らかい感触が阿高の足を通して伝わった。
彼はこの感触がいたくお気に入りだった。

「鈴、大丈夫か」

もう完全にいつもの阿高の声だった。
鈴はゆっくりと彼を見上げた。

「・・・ええ、大丈夫よ」

大丈夫と言いながらぐったりと体を預けてくる妻に、阿高はいつもやりすぎたと反省するのだが、今まで一度として加減をしてやれたことはない。
せめてもと、優しく妻の頭を撫でた。
妻は心地よさそうにうっとりと笑みを浮かべて夫の胸に身を寄せた。
そしてそのままそっと口を開く。

「あのね、阿高」
「ん」

まるで内緒話でもするように、小さな小さな声で語りかける。
夫にだけ明かす、妻のないしょ話。

「わたくしね、どうしてもここに来てみたかったのよ」
「何故」
「・・・ふふふ」
「鈴?」

笑う妻を夫がいぶかしむ。
と、妻はするりと夫の腕を抜けて膝から降りてしまった。
阿高は離れてしまった妻を一瞬残念そうに見る。
妻はそんな夫を笑顔のまま真っ直ぐに見つめると、ほんの少し頬を赤くして打ち明けた。

「わたくしは、お祭りの話を聞いてから、ずっと考えていたことがあるのです」

恥ずかしそうに、しかし夫から瞳を離さず続ける。

「もし、わたくしが皇女ではなく、竹芝に生まれた普通の娘だったら、わたくしは阿高にこのお祭りに誘ってもらって、普通の恋人同士として始まったのかしら・・・と」
「・・・・そんなことを考えていたのか」
「まあ。大事なことなのよ」

呆れた顔で言う夫に、妻は頬を膨らませて異議を唱える。

「ねぇ、どうかしら。それとも、わたくしが先に好きになっていたら、わたくしが阿高を誘うのかしら。阿高はわたくしの誘いを受けてくれる?」
「祭りは男から誘うものだ」
「では、阿高はわたくしを祭りに誘ってくれたの?」
「・・・・・・・・・・・どう、だろう」

昔の阿高の行状を鈴は知っている。
到底自分から女の子を誘ったとは思えない。
阿高自身も自信がなくて、俯いて言葉を濁した。
鈴は阿高から視線をはずし、それとも、と考えた。

「それとも・・・お互い別々の人から誘いを受けていたかしら」

その無邪気な妻の台詞に、夫ははっとして妻を見る。

「おい、妙なことを考えるなよ」

夫の異議に、それでも妻は笑みを絶やさない。
もう一度夫に視線を合わせて、極上の笑みで言った。

「それなら、ねぇ阿高、わたくしに歌をちょうだい」
「何」
「歌が欲しいわ、阿高。竹芝の鈴へ、阿高からの歌を」

阿高は言葉を詰まらせた。
正直な話、歌は全く得意ではない。
だいたい先ほど口を吸い合っておいて、今更歌などおかしな話ではないだろうかと思う。
しかし妻の望みは叶えなければならない。
叶えなければ、別の男の元へ行くことを許すことになる。
歌垣とはそういう場所だ。
ああでもない、こうでもないと考えながら、ちらりと妻を見ると、随分と期待した瞳で見つめられていた。
もう逃げることは出来ない。
阿高は覚悟を決めて口を開いた。

――あきやまの やみにまどゑる をしどりも われにまさりて つまおもはめや

声に出してしまってから、阿高は気付いた。
もしかしたらこれはかなり恥ずかしい内容ではなかろうか。
歌垣の歌というよりは、ついさっきまでの自分の心情をそのまま歌ってしまっている。
大体、「つま」とはおかしい。
歌垣で出会って歌を贈るという前提上、少なくとも夫婦ではないはずなのに「つま」と歌ってしまっている。
これが本当に歌垣の場で歌われたら、歌った本人は相当自意識過剰だと思われても致し方ない。

「す、鈴、やっぱり今のは・・・おわっ」

阿高は最後まで言い切れなかった。
妻に突然抱きつかれたからだった。

「素敵!」

――あなにやし えをとこを なをのらさめ

妻は夫の逡巡など全く気にした様子はなく、逆に感極まった様子で夫に抱きつきながら名を乞うた。
それは歌を受けた娘が相手の思いを受け入れる台詞だった。
阿高は抱きついてきた妻を受止めながら、名を名乗った。

――あれは たけしばの 阿高 なり
――あれは たけしばの 鈴 なり

妻も夫に応えて名乗った。
それでも興奮がおさまらないらしく、夫の首にかじりついてきゃあきゃあと嬉しそうな声を上げている。
阿高はそんな妻の様子を見て、こっそりとため息をつく。
女というものは、やはりよく分からない。
今更歌など贈らなくとも自分たちは夫婦なのだから、わざわざこんな儀式めいたことなどせずともよいのではないかとも思うのだが。
しかし腕の中でいまだにたいそう喜んでいる妻をみて、多少思い直す。
まあこれはこれでよいのかもしれない。

「阿高!阿高!ありがとう!」
「・・・ああ」

はしゃいでいる妻を、阿高はしっかりと抱えて立ち上がった。
妻が驚いて夫にしがみついた。

「あ、阿高?どこへいくのですか?」
「帰るんだよ」
「待って、まだもう少しここを見てみたいわ」
「それはだめだ」
「どうして」
「決まりがあるのさ」
「決まり?」
「そう」

にやにやと笑ってその先を言おうとしない夫に、妻はますますいぶかしむ。
夫の肩に手を突いて何とか上体を起こすと、いつもより下にある夫の顔がとても楽しそうにしていた。

「ねぇ阿高、下ろして。わたくし歩けるわ」
「気にするな」
「でも」

妻の言葉をはぐらかしてそのままずんずんと阿高は進んでゆく。

「阿高、決まりとは何?わたくしは何かしなくてはならないの?」

阿高は歩きながら言った。

「鈴、歌垣で男に名を明かした娘はその男と一夜を共にするものなんだ」

何でもないことのように阿高は言ったが、いきなり妻の体が固まったので不審に思ってひょいと顔を見上げた。
すると驚いたことに妻は顔を真っ赤にしていた。
妻の反応に阿高は面食らった。
既に自分たちは同じ夢をみた間柄なのに、妻のそれはまるで男を知らぬ初心な娘のものだった。
今更何故、と言おうとして、妻に抱きつかれて言葉を飲み込んだ。
妻は僅かに震えながら、夫の耳元で小さく呟いた。


「・・・や、やさしくしてね」


その言葉に固まったのは今度は阿高のほうだった。
そして一瞬後、阿高は進む向きを変えた。

「あ、阿高?」

阿高は屋形へ続く道とは別の方向へずんずんと進んでいく。

「どこへ行くの?帰るのではなかったの?」

柔らかな草の茂る林の中で、鈴はそっと下ろされた。
夫はそこで上着を脱いで下に敷くと、妻の手を引いた。
妻がそれに従うと、夫は妻の体を今しがた敷いた衣の上に横たえた。
ここに至って、漸く鈴は阿高が何をしようとしているのか悟った。

「ま、待って、阿高」
「無理だよ」
「帰るのではなかったの」
「鈴が悪い。おれはちゃんと帰るまで何もしないつもりだったのに」
「どういう・・・あっ」

既に夫は止まらない状態だった。
それは鈴も分かっていたけれど、それでも動揺の方が上回ってどうしても抵抗してしまう。
無駄だというのに。

「煽られたら応えなければ、坂東の男の名が廃る」

林の中の暗がりで、微かに月の光が娘を照らす。
それはあまりにも白い。
雪のごとき白が、夫の腕の中で段々と梅の蕾の色に染められてゆく。
その様を満足げに見下ろして、阿高はひとりごちる。

「おれはこれで、苑上も鈴も手に入れたことになる」

阿高がそれをどのような表情で言ったのか、妻の瞳は既に潤んでいて確かめることは出来なかった。






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やっと終わった!
ていうか、長!最後だけ長すぎる!
ツッコミどころも多すぎる!
阿苑がラブくなるようにと念じながら書きました・・・それしかありませんでした・・・スミマセン。

※途中の大弓の話はもちろん私の勝手な創作なので実際の氷川神社の神事とは全く関係ないのですが、シーン自体は「風..の.陣」という小説の中のシーンをほぼそのまま使わせてもらっています。
文章自体は私が書きましたが、(お陰で元の小説のものよりかなり劣化していますが・死)進め方や細かな表現などはかなり同じ内容になっています。
この小説をご存知の方は是非私と熱く語って欲しい!