すっ、と息を吸って、阿高は弓を一旦持ち上げた。

(・・・よし、この程度の重さならなんとかなるな)

思っていたよりは軽い。
しかしその重みはじわじわと腕を伝ってきた。
阿高は持ち上げた弓をまた立てかける。
次に矢を数本手に取った。
念入りに曲がりを確認する。
元々射るためのものではないので、やはり何本かには僅かに曲がりや羽の部分の偏りが見られた。
高く飛ばすためには出来る限り真っ直ぐで羽の綺麗な矢を使わなければならない。
阿高は丁寧に矢を選り分けてから、再度立てかけた弓を手に取る。
弓に慎重に弦を張った。
張った弦を弾いて感触を確かめると、良い音が鳴った。
視線を拝殿前の広場に向ける。
既に薄暗くなっていたためそこここにかがり火が灯され始めていた。
そこに幾人もの見物人たちが集まっている。
しかし阿高の視線は彼らの中のただ一人を捉えて満足した。
薄紅色の美しい衣をまとった妻は、この灯火に照らされた薄闇の中でひときわ輝いて見えた。

(鈴、見てろよ)

阿高はいよいよ大弓に矢を番(つが)え、人々に背を向けた。
息を吸い、腹に力を篭めると一気に弦を引き絞る。
弓が大きく撓(しな)った。
それだけで小さな歓声が起きる。
誰もこれほど大きな弓が引かれるところなど見たことがなかったのだ。
阿高は弦を引くその勢いで一気に上方を向いた。
高々と空へ向けられた矢の先端に衆目が集まる。
阿高が狙うのは、拝殿を越えてさらに先にある本殿の屋根の上にある巨大な千木(ちぎ)。
阿高が腕や首筋に血管が浮き出すほど限界まで弦を引き絞った時、遠くでしわがれた男の声が、射よ、と言った。
阿高が手を離した。
ばるるんっという大きな音がした。
音と共に弦が激しい勢いで阿高の持ち腕を弾いた。
その衝撃に腕が一瞬痺れ、阿高は思わず大弓を取り落とした。
矢は。


「・・・すごい」


誰がそれを言ったのか。
その場にいた全員が矢の行き先を唖然と見つめていた。
矢は、始めに狙っていた千木を楽々と越えてさらにその先の空まで登り、やがて星々の中へ吸い込まれるように消えていったのだった。
射た本人の阿高でさえ、いったい何が起こったのか分からなかった。
次の瞬間、その場にいた見物人全員による大歓声が起こった。

「凄い!凄いぞおまえは!空を射るとは!」
「信じられない!本物だ!吉事だ!」
「大神様の御神託が下ったぞ!吉事だ!吉事だ!」
「神事は成功した!」

沸き起こった歓声はそのまま阿高を飲み込んで手荒い祝福を与えた。
何人もにもみくしゃにされて、阿高は殆どおぼれるような状態になりながらも、達成感に満たされた。

(やった・・・)

阿高は随分長いことこの渦の中にいた。
望んだことというよりは、周りが放さなかったのだった。
やれ一緒に酒を飲もうだの話を聞かせろだのと言われるのを幾つも断ってやっとの思いで輪の中から這い出した時には、妻の姿を見失っていた。

「鈴」

背後で既に享楽的になっていた人々は彼らだけで何事か行うらしく、わーわーと大声で囃し立てながらその場を後にしていった。
人の姿が殆どなくなってしまった後、阿高は妻を呼んだ。
しかし、応えはない。

「鈴」

待っていろといった場所に立ってもう一度あたりを見回すが、妻の姿はまるで見えない。
阿高の体から血の気が引いた。

「鈴・・・すず・・・?」

どこにもいない彼女は、まるで神隠しにでもあったようだ。
晴れの日独特の一種狂ったような人々の陽気に妻を奪われてしまった錯覚を覚える。
そんなばかな。
小刻みに震えだした掌を、阿高はぐっと握り締めた。
振り切るように顔を上げて正面を睨みすえる。
今動揺している場合ではないはず。
そう自分に言い聞かせた。
すぅっと息を吸う。
そして。

「鈴!どこだ!」

阿高は叫びながら駆け出した。

(鈴!鈴!)

阿高は妻を求めて殆ど本能的に彼女との約束の場所である『夜』の場へ向かった。