「本当にこれで阿高はわたくしをデートに連れていってくれるのですか?」
「ああ、絶対に間違いない」































デートをしよう(前)














阿高はキッチンに立ち、ボールに入れた卵を菜箸でかき混ぜていた。
ふと振り返ると、そこに一人の猫娘。

「デートがしたいニャン」

ガチャッ、ガチャガチャ、ゴロゴロゴロ・・・。
これは阿高が持っていた菜箸が床に落ちた音だ。
だがそれを気にする余裕は二人にはない。
鈴は猫耳のついたカチューシャを付け、両手をグーに握って猫のポーズをとり、阿高を驚くほど真剣な目で見つめていた。
阿高にはかなりの強敵だ。
彼女の攻撃は阿高が持っていた菜箸を床に落下させたのだ。
二人の間に静かに緊張が満ちる。
暫しの間。
阿高は喘ぐように言った。

「また、藤太か」

少女の瞳に衝撃が走る。

「ち、違いますニャン」
「ニャンはやめろ。藤太め、絶対とっちめてやる」

少女は肩を落とした。
昨日一緒になって「阿高をデートに連れ出す方法」を真剣に悩んでくれた心の優しい藤太を守れなかったことが、少女にはショックだった。
その晩少女は泣きながら床に就いた。



翌朝。

「おい、いつまで寝ているつもりだ」

阿高は少女に割り当てた部屋の扉を叩いた。
少女はすでに起きて髪をとかしていたところだったのですぐに扉を開けた。

「どうしたのですか阿高。田島牧場に行くのですか?」

朝早く起きて行動するときはたいてい田島牧場に行くときだ。
阿高はここで小さい頃から馬の世話をしているのだ。
しかし阿高は頭を振った。

「何を言っているんだ。デートに行きたいと言ったのはおまえだろう」
「!」
「おまえのことだからおれが連れていってやらないと他の連中に迷惑をかけるだろうからな。しかたなく連れていってやる」

少女は目を見開いた。
阿高は至極真面目な顔だ。
冗談を言っているようには見えない。
少女は確信した。
やっぱり藤太はさすがだ。

「すぐに用意をしますニャン!」
「ニャンはやめろ」





阿高は電車に揺られながらぼんやりしていた。
隣では少女が車窓を興味深そうに眺めていた。
この少女とひょんなことから同居をする羽目になってちょうど一年がたった。
初めて藤太に紹介したときにはたいそう驚かれたものだ。

「阿高が馬以外の女とまともに会話するのをこの目で拝む日が来るなんて!奇跡だ!神様からの贈り物だ!」

贈り物なら馬が良かった。
しかしこの少女の何が阿高を惹きつけたかというと、何を隠そうこの少女も馬が好きだということだった。
始めは話題に困った阿高が幼いころから世話になっていた田島牧場の話をぽつぽつしていたのだが、それが少女の興味を惹いたようで、ある日ついに件の牧場へ連れて行ったのだ。
田島のおっさんもこの娘を紹介したときはとても驚いていた。

「おまえが馬以外の女とまともに会話するのをこの目で拝む日が来るなんて…まさかこの娘実は馬が化けているなんて言うんじゃないだろうな、阿の字」
「そうだったのか、鈴」
「違います」

別に期待していたわけではない。
念のため確認しておいただけだ。
そういえば、阿高はこの少女の名前が「鈴」ということしか知らない。
身寄りがないかと思えば、ごくたまに高そうなスーツを身にまとった綺麗な大人の女性とこそこそ話していたり、先日兄と名乗る品の良さそうな青年が訪ねてきて妹を頼むと丁寧に託されたりした。
訳ありということは嫌でも分かるが、それを簡単に質せるような雰囲気でもなく、結局この少女の素性をほとんど知らないまま今に至っている。
外を見ていた少女が阿高に向き直った。

「阿高、これからどこへ行くのですか?映画ですか?」
「違うよ。映画はおれも考えたけど、昨日検索してみたら面白そうなものがなかった」

少女は「馬の映画がなかったのですね」と言い、阿高は「ああ」と頷いた。
電車は二人を乗せて東武伊勢崎線を北に向かってガタゴトと走っていた。





「ホワイトタイガーか、悪くないな」

藤太はつぶやいた。
隣の千種が藤太を見つめた。

「東武動物公園に行くつもりだというの」
「間違いないね」

東武動物公園とは、埼玉県が誇る動物園と遊園地が融合した一大娯楽施設「ハイブリッド・レジャーランド」だ。
最寄り駅は東武伊勢崎線の東武動物公園駅。
カップルのデートだけではなく、親子連れにも人気がある。

「でも、東武動物公園に馬はいないわよ」
「ははは、千種、いくらあの阿高でもデート先を馬基準で選ぶようなことはしないさ。だいたい、馬なら田島牧場でいつでも好きなだけそばにいられるわけだし」
「それもそう…よね」

千種はいまいち自信がなかった。
藤太も自分で言っておきながら半信半疑ではあった。
隣の車両をそっと窺いながら、二人は阿高と鈴のデートが成功するように心から祈っていた。
そんな千種の目に、信じられないものが映った。

「藤太、あれ、あれを見て!」
「え?……あ!」

二人の目に入ったのは一枚の車内広告だった。
その広告には、現在東武動物公園では一ヶ月限定で無料の乗馬体験を実施していると書かれていた。

「阿高…!」
「やっぱり…!」

阿高はいつだって期待を裏切らない。

「そもそも、阿高も鈴ちゃんもまだ付き合ってはいないのよね」
「驚いたことにそうらしいね」

二人は何とか心を落ち着かせるため、状況を整理するところからはじめた。

「鈴ちゃんはデートという言葉の意味をわかっていないと思うわ」
「だろうね。おれも説明はしなかったし」

鈴という少女はとても不思議な少女だった。
誰も知らないようなマイナーな古典文学をスラスラと暗誦して周囲を絶句させたと思えば、どう考えても知らずに生きていくのは不可能と思われるような常識が欠けていることもあった。
「デート」という言葉もそうで、鈴は本当に知らないようだった。
事の発端は、数日前に千種が藤太とデートをして楽しかったと鈴に話したことだ。
「デート」という単語を知らなかった鈴の中では「デート=楽しいこと」という図式が出来た。
そこに藤太が目をつけた。

『鈴も阿高とデートに行くといい』
『デートは阿高とも出来るのですか?』
『もちろんさ。きっととても楽しいよ』

言葉巧みに鈴をのせていく藤太を千種は隣で胡散臭そうに眺めていたが、二人がお互いを憎からず思っているのは彼女にも良く分かっていたので、これが何かのきっかけになればいいと、あえて口出しはしなかった。
かくしてその夜予想通り藤太の元に阿高からの怒りの電話が入り、藤太はそんな阿高をなだめつつ、決め手となる台詞を放った。

『阿高、鈴はデートの意味がよく分かっていないよ。もしおまえが断れば、他の男に頼むかもしれない』

このとき千種は見た。
藤太の口端に意地の悪い笑みが浮かぶのを。
藤太は阿高と鈴の行く末を明らかに面白がってたきつけていたのだ。
千種は唇をかんだ。

(阿高…許してね。これもあなたと鈴ちゃんのためなのよ。藤太にはわたしがしっかりお灸をすえておくわ)

藤太は一週間寝室立ち入り禁止の刑が下された。

「ところで、阿高はデートをしたことがあるの?」

千種の素朴な疑問に、藤太はうーんと唸った。

「阿高は昔から女の子にモテていたけど、そういえば付き合ったことは一度も無かったな。女の子と遊ぶより鼻歌歌って鳥や雲を見ているようなやつだったよ」
「それじゃあまさか、阿高もデートの意味を知らないなんてことは…」
「さすがにそれは無いよ。おれが千種とデートに行くとき阿高に田島牧場のバイトの代役を頼んだりしているし、広も彼女とのデートの自慢話を阿高に話したりしているからね。だいたい、デートの経験がないなら分かるけど、デートの意味を知らないという鈴の方がおれには信じられないな」

藤太の言葉に千種もうなった。

「鈴ちゃんって何者なのかしら」
「…まあ、何者であれ阿高にとっては特別な子だよ。女の子を相手に阿高が態度を変えなかったのは、今までで鈴ただ一人だけなんだからね」

電車が緩やかに速度を下げて止まった。
車内アナウンスが「春日部〜春日部〜」と流れた。
東武動物公園駅まであと少し。
と、ここでなぜか阿高と鈴が電車を降りてしまった。

「千種!二人が降りたぞ」
「私たちも降りましょう」

藤太と千種は急いで春日部駅のホームに下りた。
そして阿高たちに気付かれないよう細心の注意を払いながら後について階段を登る。
阿高と鈴が足を向けたのは8番線。
東武野田線のホームだった。