ずっと自分が何者なのかわからないままここまできた。 探るためにきた。 そのはずだった。 しかし、分かったことといえば、自分はいるだけで大事な人を危険にさらすということだけだった。 化け物になどなりたくないと願っていたのに、結局最後は人として死ぬことができなくなった。 これ以上の孤独が、どこにあるのか。 これ以上の恐怖が、どこに。 (ああ、もう終わるんだ。・・・藤太、おれはいつまでおまえを覚えていられるだろうか) 相棒の名前を心の中で唱えて、阿高は目を閉じた。 まぶたの裏の闇の内、すでに慣れ親しんだ感覚にゆっくりと身をゆだねる。 肌が黒くなり、髪の毛は逆に雪のごとき白に変化していく。 手の指、足の指が中指のみを残して段々と短くなって消え、残った中指は雄々しく太く長くなり、がっしりと地を踏みしめた。 自分の体をゆっくりと人の形から解き放っていく感覚は、不思議なことにそう悪いものではなかった。 もはや人の感情を失ってしまったということか。 (おれには似合いだ) やがて阿高は顔を上げる。 白目の部分がすべて黒く変色した眼で空を振り仰ぐと、黒馬は一気に跳躍した。 空は暗黒。 地は灰色。 無音。 あたりに誰もいなかったが、阿高には分かっていた。 “彼”に近づいている。 早く、早くいってやらないと。 焦りにも似た思いを抱くと同時に、暗黒の空の中から奇妙な青白い筋のようなものを見つけた。 それは人の腕だった。 いや、人ではない。 人の腕に似たおぞましい何かが、脈を打つような闇の中から不気味に伸ばされていたのだ。 さらによく目を凝らしてみると、その先に小さな人影が見えた。 白い狩衣にみずら結。 気付いた瞬間、阿高は渾身の力で駆けた。 青白い腕がまるで手招くように、皇の少女に向かって伸びていた。 少女は恐ろしさのためか、逃げようともせずただそこで腕を見つめている。 (あいつ!) 稲光とともに阿高は少女と怨霊のあいだに降り立った。 阿高が降り立つと同時に周囲は爆音と真っ白な閃光に包まれた。 阿高はその中にあっても、しっかりと“彼”を見据えていた。 もう何度も繰り返してきた攻防だった。 音と光が収まってくると、先まで唖然としていた少女が弾かれたように阿高に向かって駆けてきてその首に抱きついた。 やはり怖かったのだろう。 怖がりのくせに、結局こんなところまでついてきて。 首筋でかすかに息を吸う気配を感じた。 どんな泣き言をいうのかと待っていると、少女がささやいた。 「お願い、兄上を楽にしてさしあげて。このままではつらすぎる」 阿高は少しだけ目を見張った。 少女は怖がってはいなかった。 ただただ兄が憐れでならないという様子だった。 「そのつもりだ」 答えながら、阿高は奇妙なものを見るような心地で少女を見つめた。 思えば、この少女は出会ったときから変なやつだった。 阿高は少女から視線を外し、先ほど青白い腕が消えていった方角を今一度見上げた。 不気味に脈打つ闇は身をくねらせ、今度こそ阿高を誘っているように見えた。 おそらく、あそこが自分の最期の場所となるのだろう。 そう思うと、ほんの少し足がふるえた。 覚悟したはずなのに。 「おれとあいつは対のものだ。たぶん、お互いを消滅させることでまっとうするんだ」 内心の動揺を押し殺して、阿高は淡々と言った。 これが彼女の救いになるかどうかは分からなかったが、それでも大事な兄を苦しみから解放することだけはできるだろう。 少女がまた静かに息を吸う。 「わたくしをつれていって」 それは奇妙に落ち着いた声音。 阿高はものも言えずにゆっくりと少女を振り返った。 咄嗟に少女が何を言ったのか分からなかった。 「わたくしもそこへ行くから」 「おまえ」 少女の視線はまっすぐに黒馬を射ぬいていた。 (おまえ、まさか) 「死にに行くつもりでそういっていたのか」 阿高は息を飲んだ。 少女はおかしなほど晴れやかな顔だった。 「約束したでしょう。あなたがそう考えていることくらい、知っていたもの」 その声は極めて冷静で、決して捨て鉢で言ってはいないことを示している。 阿高はまだ自分の聞いた言葉が信じられなかった。 阿高は死ぬ以外に道がないから死ぬのを選んだのだ。 けれどこの少女はそうではない。 すべての者に傅かれ、何不自由なく生きてきたはずだ。 (簡単にいってくれるじゃないか) 阿高は今も死が怖かった。 たった一人で、人ではないものになって死んでいくなど、本当は嫌で嫌で堪らなかった。 寂しくて。 しかし。 たった今初めて、阿高はこの少女の胸中を思いやってみた。 怨霊を恐れて必死にすがってきていた少女が、まさか死を覚悟するほどの思いを抱えていたとは思わなかった。 この目に映っているのは、相変わらず弱そうな娘だ。 誰かの手助けがなくては山歩きもろくにできずに泥だらけで転がるような。 阿高は少し考えてから、できるだけ落ち着いた声で言った。 「これ以上迷子になるなよ、もういいんだ」 「もういいって、どういうこと」 何がこの少女をここまで追い詰めたのか分からないではなかったけれど、それでも死ぬことはないと思えた。 「片をつけるのは、おれとあいつだけでいい」 諭すように、阿高はゆっくりと話した。 「おれたちは同じもの、同じ因縁から生まれたものだ。待たれていたことが、今ならわかる。彼は待っていたのだろう。行ってやることができるのは、おれだけなんだ。おれもあいつも、このとおり人ではないものになりかかっている。これを止められるのは、迎え入れられるのは、お互いの存在だけなんだ」 阿高の言葉を聞いて、少女は激しくかぶりをふった。 「違う」 叫び声が響く。 「違う、違う。あなたがもしも物の怪と同じものだったら、わたくしはついていく気になどならなかった。藤太をおいて、仲間や故郷の人々をおいて、あなたが望みをおきざりにしてきたから、わたくしは来ないではいられなかったのよ」 (え・・・・・・) 黒馬は言葉をなくした。 少女が言ったのは、阿高が今まで聞いたことのない言葉だった。 少女は黒馬が固まってしまっているのに気づかずに勢いのまま言葉を継いだ。 「望みを失っているのは皇、ううん、わたくし自身なの。わたくしたちにはあなたが必要。あなたのその犠牲が必要。けれども、あなたは物の怪ではなかったわ。大切なものを持っているもの。そのために心を痛めているもの。だから、せめて、わたくしをいっしょに行かせて。あなたが守るためにおいてきたもののかわりに」 「望みをおきざりにしてきたから」とこの人は言った。 誰もがそれをおいていくことを責めた。 別れの間際、藤太は約束を破る阿高を激しく責めた。 いつも調子者のはずの広梨は、もの言いたげな視線だけで阿高を見送った。 茂里すら、良いとも悪いとも言わなかった。 けれど。 阿高が本当に望んだのは「おいていく」ことではなく「守ること」だった。 守るためには、おいていくしかなかったのだ。 好んでおいていくわけではなかったのだ。 そんなことは誰もがわかっているはずで、阿高すらも改めて考えることなどなかった。 しかし阿高は今初めて、自分が本当は何に悲しんでいたのか気がついた。 阿高は独り寂しく異郷で死ぬことを悲しんでいたのではない。 大事な人たちを「守りたい」という思いを、誰にも認めてもらえなかったことが一番辛かったのだ。 誰とも心が繋がらなくなってしまったことが何よりも悲しくて悲しくて堪らなかったのだ。 分かってしまうと、どうして今まで気づかなかったのか不思議なほど当たり前のことだった。 当たり前すぎて阿高自身からも見過ごされていた阿高に、しかし、この少女だけが語りかけた。 ああ、と阿高はため息をついた。 そしてもう一度首筋にしがみついる皇の少女へ顔を向けた。 ふるえる肩が目に入った。 阿高は手で撫でてやる代わりに、軽く鼻先で少女の髪に触れながらささやいた。 「鈴、本当にもういいんだ」 阿高は放心したようにつぶやいた。 少女に向けて言った言葉だったが、もしかしたら自分に向けた言葉だったのかもしれない。 「おまえは自分をそこまで追いこまなくていい。いろいろたいへんだったな。鈴が兄弟をどれだけ大事に思っているか、よくわかるよ」 少女は泣いていた。 泣いて泣いて、その顔がぐしゃぐしゃに汚れてしまうほどみっともなく泣いていた。 その姿はこの上もなく人だった。 自分の思いを叶えることがままならず、力のない己に絶望して、それでもがむしゃらにしがみつこうとしてもがいていた。 (知っている。おれは。この姿を、この思いを、ずっと・・・) その姿は、まさに阿高自身だった。 そうだ。 どんなに強大な力を持っていても、死にかけの大事な相棒の力になることすらできない、ちっぽけな存在。 自分の気持ちが伝わらなくなったことに悩み悲しむ、ごく普通の心を持っている。 (なんだ、そうなのか) 今更分かった。 化け物だと思っていた自分は、どうしようもなく非力な人間だったのだ。 気づいた瞬間、嬉しさと情けなさが同時にあふれた。 何に迷っていたのだろう。 何を恐れていたのだろう。 (鈴・・・鈴・・・おまえのおかげで気づけた。おれはずっと始めから人だったんだ) 黒馬の姿になってしまってはもはや遅い。 もうすぐ人ではなくなってしまう。 そんな予感がする。 それでも。 阿高は万感の思いをこめて少女を見つめた。 「おれが少しは物の怪と違うものになれるとしたら、おまえがいてくれたせいだ」 だから、彼のもとへはつれていけない。 きっぱりと告げた。 人として最後に自分ができることは、この少女を守ることだ。 そして、どうかこの少女には最期まで人として生きてほしい。 自分には果たせないことを、この人に託したい。 「どうして」 少女はくいさがった。 「わたくしも兄上と同じものよ。立場を変えたら必ずそうなっていたものよ」 「鈴は違う。鈴はそうならなかった」 その強さがまぶしく思えた。 死をためらわないほどの孤独を知っていてなお、闇に身をゆだねることなく自分の意志を貫くことができる人。 家族を思い、そして阿高のことも分け隔てなく手を差し伸べることができる人。 そして、誰も気づかなかった奥底の阿高を見つめることができる人。 (鈴は変なやつだが、すごいやつだ) 「それならわたくしは、物の怪になってしまうのだった。あなたが目ざし、あなたを最後に迎えるものがそれだというのなら。変わりはてた兄上しかあなたをまっとうさせられないのなら、わたくしがそれになるのだった」 誰よりも人であることを見せてくれたおまえがそれをいうのか。 しようのないやつ。 阿高はやわらかく笑った。 「そんなことをいってはいけない」 本当に、そんなことは言わないでほしい。 望んでしまうから。 その強さに、そばにいてほしいと。 本当は今でも怖くてたまらないのだ。 一緒に行こうと、喉まで出掛かるのを、阿高は必死に抑えこんだ。 阿高のそんな努力を知らぬ少女はなおも阿高に言い募る。 「どうかつれていって。わたくしには、ほかに行くところはないの」 行くところはない。 それは阿高の胸をえぐる言葉だった。 阿高には、少女がどんなに辛い思いでそれを口にしたのか、痛いほどわかった。 なんとか慰めてやりたくて黒馬の鼻先で少女の涙を拭ってやった。 何度か繰り返すと、少女の表情が少しずつ和らいでいった。 できればずっとこうしていたいと思った。 阿高は自分の中に生まれた暖かさと切なさが入り混じった感情を御することがかなり難しいことであると直感的に悟った。 これ以上はいけない。 離れられなくなる。 阿高は思いを定めて口を開いた。 「そんなことはない。鈴は人を幸せにする力を持っている。その力があれば、行くところがないはずはないよ。元気を出すんだ、きっとおまえが必要になる者がいる」 はっとして顔を上げた少女と目が合った。 その瞳が何かを訴えかけようとした直前。 阿高は空へと舞い上がった。 「行かないで」 少女の声を聞いたのはそれが最後だった。 (藤太、今までありがとう。鈴、おまえと出会えてよかった) 阿高は思いを振り切るように最後の場所へと駆け去った。 ------------------------------------------- これも考察もどきから派生して書きました。(【「藤太」でなければならなかったこと、「苑上」でなければならなかったこと】&【阿高の心の「死」と「再生」】) 現時点での私なりの阿高と苑上の心が通じた場面の解釈です。 前回からのつながりを補足説明すると「物の怪になってしまうのだった」といわれた阿高の心情は 「そういっているおまえが一番人らしく見える」 そして 「物の怪になることが怖くてたまらなかったおれも、やはりどうしようもなくただの人だった」 という感じです。 考察もどきとしてのまとめもここに載せておきます。 ※心が「再生」する段階のまとめ 要因:苑上の思いを知ったこと。 「わたくしをつれていって。わたくしもそこへ行くから」 「おまえ、死にに行くつもりでそういってたのか」 「おれが少しは物の怪と違うものになれるとしたら、おまえがいてくれたせいだ」 ※誰かと繋がっていることにもう一度気づけたことが、再生したということ 結果:妻を得た まだ妻じゃないだろというツッコミはごもっともです。 ここでいう妻は心のパートナー(理解者)という意味もあり、将来的に妻に求めたいと思える人の出会いというか発見というか、そんな感じの意味で。 日記記事の段階からお付き合いくださった方、長々とお疲れ様でした。 そしてここまでお読みくださってありがとうございました!! |