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阿高の心の「死」と「再生」【その三】※補足追加

前回書いたことまとめ
・「心」が生まれるのは両親(もしくはそれに変わる存在)の愛情から
・「心」が生まれると「信頼関係」に育っていく
・子どものころから「自分の存在が家族に迷惑をかけている(かも)」とぼんやり察し始めた阿高。健全に生まれた「心」は歪さをはらんで育っていった


こんな3行で書けることを私はなんであんなにネチネチ書いているのか・・・という気持ちにもなりますが、力はなくても書きたいことがあるのでしょうがないと諦めます。
繰り返し書くことで、少しは成長できたらいいなと思います。

それでは続きです!

【「心」のそれぞれの段階の「要因」と「結果」】後半戦スタート

・「心」が死ぬということ、「心」が死んだ「身体」(前半)

「心」が死んだ状態とはどんな状態のことなのか。
一般的には様々な状態が考えられると思いますが、薄紅天女のとりわけ阿高に限って考えてみたいと思います。
定義は中々難しいのですが、ここでは「心」の定義を「自分が必要とされていると感じること」=「自分の存在意義」としていたので、それが死んだ状態とは

「心」が死んだ状態=「自分の存在が誰からも不要になったと感じること」=「存在意義の喪失」

と仮定して話を進めたいと思います。
まず、阿高が本物の死を意識した場面を見たいと思います。
それはどこかといえば、やはりニイモレに矢を向けられた場面ではないでしょうか。

(こいつにとって、おれは最後までチキサニなのか・・・・・・)
チキサニとして死にたくはなかった。
自分が自分で負ったことにおいて死にたかった。
だが、ニイモレの矢から逃れるすべはほとんどなかった。
ねらいすます矢を凍りついて見つめる阿高の前で、無常に弓弦が鳴った。(新書p.205)


阿高にとって、人生で初めて他人から直接明確な殺意を向けられた体験です。
そして直後にリサトとニイモレの死に接します。
二人とも阿高をチキサニと思って死にました。
人の命が失われるという衝撃。
それがチキサニという存在によって引き起こされたということ。

陸奥へ来たことで、阿高は大きく変わらざるをえなかった。
とり返しがつかなくなるような、苛酷な方法で阿高は試されたのだ。
もどってくることができたものの、阿高はもとの阿高ではない。
そして、追ってきた藤太もまた、無傷ではいられなかったのだ。
今後も阿高のそばにいると決心したからには、今もこれからも、自分たちはさらに変わらざるをえないのだと、暗雲に似た予感を感じとる藤太だった。


はじめは混乱していた阿高でしたが、体調が回復すると今度は冷静に分析をはじめます。
リサトの墓の前で、藤太に父勝総の死の本当の原因を語り、藤太に問いかけました。

「不当だと思わないか」
「うん。不当だ」
藤太が認めると、阿高はふりむかずにたずねた。
「倭の帝が悪いと、そう思うかい」
「倭の帝って・・・・・・都におられる帝のことか?」
少々たじろいで藤太はたずね返した。
自分たちの家に、皇の血をひくといういい伝えがありはするものの、武蔵で育った藤太にとって、帝とは、よい悪いを考えたことすらないはるかな支配者だったのだ。
阿高は藤太をちらと見て、ため息をついた。
「やっぱりな。この感情はチキサニのものなんだ。おれの中には、チキサニの感じたうらみがうずまいている。チキサニは、もっとはっきり自分のかかわりを知っていたんだ。チキサニの力に関係しているらしい・・・・・・帝が彼女を蝦夷から奪おうとして、彼女が拒んだことで、ことのすべてが持ち上がったんだ。知らないほうがよかったのかもしれない。けれど、今さらもとにはもどせない。藤太、おれは怖いんだ。チキサニの怒りに流されるのが」
ぽつりといった阿高を、藤太は見つめた。(新書p.217)


自分は一体誰なのか。
自分の感情とは。
母の怒りがあまりにも鮮烈で、阿高は自分が飲まれていることを感じています。
自分の存在意義が霞むほどに。

リサトの墓を見つめ、阿高はいくらかぼんやりつぶいた。
「リサトが生きていたら、たずねることができたのに。アベウチフチの見せた記憶は、勝総が死んだときでとぎれてしまっている。けれども、彼女はその後おれを産んで、倭の陣営にとどけさせたんだ。うらみに思っていたなら、そんなことはできなかったはずだ。どうしてなんだろう・・・・・・」


この阿高の疑問に答えた藤太の言葉は見事に簡潔でした。

「武蔵へ来たかったからだろう」
藤太があっさり答えたので、阿高は驚いたようにふり返った。
「おまえがいったんだぞ。チキサニは兄貴と約束したって。彼女はきっと約束を守って、自分のかわりにおまえが武蔵へ行くことを望んだんだよ。チキサニは心のやさしい人だったという気がする。でなければ、勾玉を返したりできない。彼女、最後にはうらんだりしていなかったんじゃないかな」
「リサトのように?」
「うん。リサトのように」


阿高はきっとこの藤太の言葉に物凄く救われたでしょうね。
うらみの果てに生まれたのかと思っていたのを、こうもあっさり否定されたら、もう言葉もありません。
藤太の言葉は、ましろという人物を直接知っていたからこそ言えた言葉ではあると思いますが、それ以上に藤太にとって阿高の存在が好ましい気持ちがあったからこそ、何の迷いもなくチキサニの行動を肯定的に受け取ることができたのだと思います。

「おれにはわかる。チキサニの本性はうらむ人ではないよ。リサトが慕っていたのは、チキサニが強力な女神だからではなかった。彼女には、人に愛されるものがあったからだよ」
阿高はしばらくだまっていたが、小声でたずねた。
「それならおれは武蔵で暮らしていいんだろうか」
「当然だ。おまえは帰るべきなんだ。武蔵へもどらなくてはならないんだ。チキサニがそう望んだように」
藤太は声に力をこめた。
「彼女の望みをかなえるために、お前が生まれたんじゃないか。おまえが女神でなく阿高だということは、そういうことだろう」


チキサニは女神として自分の子どもに復讐を託したのではなく、人として幸せになってほしいとだけ望んで、だからこそ阿高を女神として産まなかったんだなぁと思いました。
なにより、自分の母親がうらみを持って死んだのではなく、やさしい人だったと言ってもらえたことが、とても大事な意味があるのではないかという気がします。
人は本能的に、母親にはやさしさを求めるものだと思うのです。(父親には勇敢さかと思っています)
阿高は一度は見失いかけていた自分の存在意義を、藤太のお陰でもう一度持ち直すことができました。
この直後に田村麻呂が現れて、阿高を都に連れていくという話になります。
阿高は自分の中にある異形の力(雷の力)の存在にけりをつけるため、都に行くことを決めました。
もちろん藤太も一緒に。

「今はお前と都へ行くよ。そうすることが早道に思えるからだ。お前は、そのチキサニとの決着をつけるといい。おれはどんなところでもついていってやる。だけど、ことのすべてが終わったら、おれといっしょに武蔵へ帰るんだ。そのためにも、おれはおまえのそばを離れないからな」
阿高はうなずき、少しゆがんだ顔でほほえんだ。
「ああ。いつかは・・・・・・・つれて帰ってほしい。ごめん」
「何がごめんなんだ」
「おれがこんなに変なやつで。どうしてこんなことになったんだろうな。今でもなんだかわからなくなるよ。チキサニのいったこと、チキサニのしたこと・・・・・・そういうものを思い出せるおれは、いったいだれなんだろう」
「それならおれがいってやる。おまえは阿高だ」
阿高の髪をひっぱって藤太は告げた。
「教えてやろうか。おまえが寝こんでいるあいだ、夜も昼も、おれはずっとついてやったんだ。正直いって、ましろが出てくるものとばかり思っていたよ。おまえはすっかりまいっていたし。けれども、彼女は現れなかった。おれが思うに、ましろはもう二度と現れないんじゃないかな。いままでお前は彼女を知らずにいたが、今はもう思い出すことができる。だから勝手な一人歩きはしなくなったんだ」
「本当かな」
まばたきして阿高はつぶやいた。
「その記憶を大事にしろよ。おまえが阿高という器に彼女を受け入れたんだ。たぶん、それではじめてお前は実の阿高になったんだ。おれはけっこうましろが好きだったけれど、今のおまえでもいっこうにかまわない。わかるか?」
「わかるけど、変ないい方だな」
「それは、おまえが変なやつだからだ」
二人は体のうちにあたたかさを感じながら帰路についた。


藤太はなんていいやつなんだ!!
阿高はまだ心の中に膿むものを抱えていますが、それでもこれで立ち直りました。
阿高編の最後を引用します。

どうやら、一人でくよくよしているひまはなさそうだった。
藤太がいる。
広梨も茂里もいてくれる。
彼らがにぎやかに阿高を支えてくれる。
(大丈夫だ・・・・・・)
ひと呼吸して空を仰ぎ、阿高は思った。
何が起ころうと、きっと切り抜けることができるだろう。
仲間たちの信用に応えているかぎり、見失うものはないはずだった。


「仲間」の「信用に応え」るというのが大事ですね。
「心」=「自分が必要とされていると感じること」は、その期待に応えるということで満たされるものだと思うからです。
そして逆に「人に期待する」=「人を信じる」ことで、相互関係が構築されていくのでしょう。
他人同士であれば当たり前の関係ですが、阿高はようやくこれで学んだのだと思います。

藤太とは他人同士であること、そして間に信頼関係を築くことで強く結びついていけるということ。

会話せずとも行動を合わせることすらできるほどの藤太と阿高が、改めてお互いが違う人間だと認識したこと。
このことは彼らが大きく成長する上で重要な要因となりました。
同じだから一緒にいるのではなく、違う部分を受け入れあって更に共にあることをお互いに選んだという意識は、今までとは比較にならないくらい強固な結びつきになったと思います。
これで何も憂うことはなくなった!・・・・といいたいところですが、ご存知のとおりそうは簡単に物事は進みません。
今までは藤太と同じだと思うことでふたをされていた(見ずに済んでいた)もの(=上で阿高が「変」と表現しているもの)は、この後の阿高を確実に蝕んでいくことになります。

・・・ここで次回に続きます。
というか、本来は次回に書く予定の阿高の心の「死」の部分(もちろん藤太を失いそうになって阿高がショックを受けるところ)が、この話の一番のメインなわけです。
ではどうしてこんな前の話を書いているかというと、前々から何度か書いていたとおり、私は「阿高編」と「苑上編」が構成としてとても似ている(=対になっている)と思っているからです。
つまり、本来メインのはずの「苑上編」の最後の戦いの話に相当するのが、今回書いた「阿高編」のこの部分なのです。
「阿高編」と「苑上編」は全体的に同じような展開やキーワードも出てきているので(阿高が竹芝を出奔したり、自分を失って化け物になっていたり、墓の前でリサトとニイモレのことを「忘れない」と言っていたり、他にも諸々「苑上編」と被るシーンがあると思っています。こじつけも多いですが)、「苑上編」のあのシーンを語るためにはこのシーンを語ることが必要だったのです。
うまく結びつけて語れるかどうかは自信がないのですが、書けるところまで書きたいと思います。
次回も何卒よろしくお願いしますm(__)m

あ、3日の15時台に拍手を下さった方ありがとうございます!
少しは何かを思いついたり考えたりするきっかけになれているでしょうか?
これが絶対に正しいと思って書いているものではなく、むしろ「違う!」とか「もっとこういう感じ」とか感じてもらえるのが一番の望みです。
何か思うことがございましたらお気軽にお知らせください。
拍手ありがとうございました!


【補足】
また追加してスミマセン。
藤太が阿高の母ましろを「やさしい人だった」と言ったことについて、もう少し。

阿高の罪悪感(家族に迷惑をかけているかも)という意識の根底には、母親の存在がありました。
後に帝に「母が~(略)~修復を」と言っているのもそのあたりを意識している気がします。
母親が放ったという悪路王の正体は結局わかりませんが、阿高はそのことに対して強い不安感をもっていたのは原作にある通りです。
しかし、人として例え死んでしまっていたとしても、母親のことを悪いものとは思いたくないもの。
母という人への愛着もあるかもしれませんが、何より自分のルーツたる人です。
自分の存在の始まりが「うらみ」という悪意からであったと感じるのはとても辛い。
それを藤太が「やさしい人だった」と言ったことは、阿高の罪悪感や不安感を少しでも軽減することになったのではないかと思いました。
少なくとも、自分の身近な人が母のことを悪く思っていないということは阿高にとっては言葉にはできない嬉しさがあったのではないでしょうか。
親を肯定的に捉えることは、自分の存在意義を肯定することにも繋がる大事なことだと思います。

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