「ごめん。今は約束できない」

阿高は藤太の目を見ることができなかった。
手を外された藤太は黙っていた。
けれど納得していないことは、阿高には嫌というほど伝わってきた。
そんな藤太に、阿高は今も救われていると感じた。

(思えばこの旅では、藤太に救われてばかりいた)

藤太がずっとあきらめないでいてくれたから、阿高も信じることができていたのだ。
いつかは必ず昔のように笑って暮らせる日がもどってくると。

「なあ、藤太」
「阿高」
「おれが死ぬ時は、おまえを思い出してもいいか」

阿高はぽつりと言った。
こんなことを言っては藤太を苦しめるばかりだと分かっていたが、どうしても止められなかった。
悲しみ、罪悪感、寂しさ、恐れ・・・いろんなものが阿高の中で渦巻いている。
とても一人で抱えたままではいられなかった。
藤太は目を見開いた。

「阿高」
「おまえとは死ねない。だけど、ひとりぼっちは・・・怖い」
「阿高、やめろ」
「それとも、最後にはおまえのことも忘れてしまうのかな」
「やめろよ阿高。おまえは武蔵に帰るんだ。生きて帰るんだ」
「どうしよう。おまえのことすら分からなくなってしまったら、今度こそおれは本当に人ではないものとして死んでしまうんだ」
「阿高!」

阿高の瞳からはらはらと涙が零れ落ちた。
藤太は見ていられず、動かぬ体に鞭を打って阿高を必死に抱きしめた。
抱きしめた瞬間、藤太の体に激痛が走った。

「うっ」
「藤太」

そのまま阿高にもたれかかる格好になった藤太は、痛みよりも情けなさで眩暈がした。
阿高はうめき声を上げた大事な相棒をゆっくりと引き離し、床に横たえた。
藤太は嫌がったが、体がいうことを聞かずそのまま横になるしかなかった。
藤太は阿高を睨み上げた。

「あ、阿高」
「何だ」
「必ずもどってくると言え」
「・・・藤太、それは」
「言え」
「できない」
「言えよ、言わなきゃ行かせないぞ」

藤太の言葉に、阿高は困ったような顔をした。
それを目にした藤太の顔が、激しい怒りの表情となった。
睨みつける藤太から阿高は目を逸らして言った。

「おまえは必ず武蔵へもどれよ」
「おまえもだ」
「武蔵で千種と夫婦(めおと)になって、元気な子をたくさん育てて、笑いながら生きていけ」
「おまえもだと言っている。こっちを見ろ、阿高」
「ありがとう、藤太」
「阿高」
「じゃあな」
「阿高、待て」

立ち上がって出ていく相棒を、藤太は必死に手を伸ばして引きとめようとした。
しかしその手が届くことはなかった。
戸口で阿高はふと立ち止まって藤太を振り返った。
そして淡く笑った。

「藤太、思い出した。陸奥でけものになったとき、おまえのことだけは忘れなかった。だからきっとおれは最後のときに必ずおまえを思い出すことができるだろう」

それだけいうと、後は藤太の返事も聞かずさっさと出ていってしまった。
己が片割れの名を必死に叫ぶ藤太の声だけが、むなしく響き続けた。





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考察もどきから派生して書きました。(【「藤太」でなければならなかったこと、「苑上」でなければならなかったこと】&【阿高の心の「死」と「再生」】)
阿高が心残りだったことと決別して死を覚悟した場面だと思っています。
阿高の最後の台詞は、本当にそう思っているのか、藤太を慰めるために言っているのか、私自身も決めかねています。
また、この話は阿高が物の怪として死ぬことを恐れている、というのを書きたくて書いたものです。
正直に言うと、原作の藤太との別れのシーンはあれで終わりだと思っています。
蛇足と重々承知の上であえて書きたかったのは、鈴に「わたくしは、物の怪になってしまうのだった」と言われたときの阿高の心情です。
阿高が真の意味で死を覚悟したのはこのシーンともう一つ、前半のニイモレに弓矢を向けられたシーンかと思います。
阿高はあそこで、チキサニとしては死にたくないと思っていました。
あのシーンをずっと考えていて、ふと、あの時の阿高は「阿高を阿高として大事に思ってくれる人たち」の存在を分かっていたからそう思ったのかもしれないと思いました。
その人たちのためというよりは、そういう人たちがいたからこそ、阿高は自分というものを大事に思えていたのではないかと。
誰にも必要とされていないと思っていたら、こんなことは思わないような気がします。
阿高は生い立ちの事情により少し歪な心になっていますが、それでも根っこのところではちゃんと大事にされていることが伝わっているはずで、そうすると、阿高がすべての大事なものを捨てた上で、最後まで捨てられないものは、自分が今まで生きてきた中で出会った人たちの思い出ではないのだろうかと思いました。
これが無くなってしまったら、そもそも阿高が阿高でいる理由もなくなってしまいます。
最後に向かうにあたってそうした恐怖の中で、阿高は何を思ったのか。
そしてこれは最後の戦いの直前の苑上との逢瀬で彼女に「わたくしは、物の怪になってしまうのだった」と言われたときの阿高の心情に繋がります。
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