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(前編)木梨之軽王と軽大郎女(禁断の兄妹愛)・その3!本文ファイナル!

さて木梨之軽王と軽大郎女の話もついに結末を迎えます!
早速本文の続きへ・・・という前に、実は前回最後のところで歌を1つ忘れていたので(オイ)それから先に見ます。
島流しが決まった木梨之軽王が歌った歌。

又歌ひて曰はく

 あまむ かる嬢子をとめ
 したたにも り寝て通れ
 かる嬢子をとめども

(空を優雅に飛び廻る鳥=かりと似た音の地名の)かるの里のお嬢さん
しっかりと(私に)寄り添って眠りなさい
軽の里のお嬢さん

「したたにも」はここでは「しっかりと」と訳していますが、他にも「忍び忍んで」と訳す説もあります。
これは前の歌の「下泣きに泣く」「下」「こっそりと」「忍んで」とシタという音が響きあっていることに由来した訳です。
確かにそう訳した方が全体のバランスが取れて美しくなるような気もするし、私もはじめはその訳にしようかなぁと思っていました。
でもここは別れを前にしたシーンで実際には「寄り添って寝る」ことは出来ない状況で、それでも敢えてこう歌っているので、現実に寄り添うというよりは、心の中ではしっかりと寄り添って、という想いというか願いというか希望というか、そういうものを込めているという私の妄想により「しっかりと」の訳を採用させていただきました。
人知れずこっそり泣いている想い人に言葉だけでも「しっかりと寄り添って」と歌いかけることは、今の感覚でも切ない気持ちが高ぶるのですが、この当時は恐らく「言霊」の考え方が根強く合ったとも思われるので、単純な希望よりももっと大きな意味があったのではないでしょうか。
ちなみに「言霊(ことだま)」というのは、たまに誤解された解釈を見るので、念のため書いておきます。

(誤)口に出した言葉が現実になる
(正)口に出した言葉が現実世界に影響を及ぼす

微妙な違いですが、口に出したことがそのまま現実になるわけではないということが大きな違いです。
漫画や小説では効果の狙いもあってよくこういう演出がなされているので誤った理解をする人が出てくるのだと思います。
それはそれでいいと思いますが、古代における「言霊」の概念はもっと広くて大きくて緩い感覚です。(半分「こじつけかよ」くらいの気持ちで解釈するとちょうどいいです)

さて、では続きの本文を見てみましょう。
島流しにされる直前に木梨之軽王と軽大郎女の贈答歌。

かれ、其のかるの太子おほみこは、よの(愛媛県松山市の道後温泉)に流しき。また、流さむとせし時に、歌ひてはく、

 あまぶ 鳥も使つかひ(私の)使いと思って
 たづの 聞えむ時は が名問はさね鶴の鳴き声が聞こえたら私の名を聞いてごらん

又歌ひて曰はく

 大君おほきみ(である私)を 島にはぶらば
 船余ふなあま<枕詞> いがへむぞ必ず帰ってくるぞ
 我がたたみゆめ(いつも寝起きしている)私の畳は汚すことなくいつも整えておくように
 ことをこそ 畳と言はめ言葉こそ畳と言っているが
 我が妻はゆめ(同じように寝起きを共にした)私の妻のことだよ、いつまでも変わりなくあれ

伊予の湯はちょっと前にやった大国主(オホナムチ)とスクナヒコナの伝承が残る温泉でしたね。
オホナムチの足跡が残る岩があるというあの温泉です。
それにしても、はじめの優しい慈愛に満ちた歌と、次の強烈な敵意をむき出しにした歌は好対照ですね。
後のほうの歌は私の主観的な意訳がかなり混じっていますので、念のため一般的な訳も載せておきます。
大君たるこの私を島に追放するならば
<船余り>必ず帰ってこようぞ。
それまでは私の畳は決して変わりあるな。
言葉では畳というが、
実は我が妻よ、お前こそ決して変わりあらずにいてくれよ

「ゆめ」というのは前回の大前小前宿禰臣が歌った「里人もゆめ」と同じ意味を持つ言葉です。
あの時は「騒ぐな」と訳しましたが、おおもとはみ慎め」という禁止を意味する言葉です。
余談ですが、出雲の神在月(旧暦十月)は全国から神様が集まるといわれていて、外の人たちは「この時期の出雲はきっと賑やかだろうな」という印象を持つ方が多いようですが、実際は神様の邪魔にならないように一切の歌舞音曲を控えて斎場の静粛と静浄を保ちながら、神送りの日までみ慎」みます。
この「お忌みさん」と呼ばれる期間の出雲はとても不思議な感覚です。
もちろん神在月に県外からたくさんの人たちが訪れて出雲内はかなり人で溢れ、また神社もいつもとは違う装いになり、確実に普段とは違う「非日常」の雰囲気になります。
でも静かにしているんです。
静かにしながら、どうにも抑えきれない高揚感を内に感じつつ過ごすことになります。
この所謂「ハレの日」独特の静かな高ぶりの感覚を分かっていただけるでしょうか。
経験がなくとも、同じ日本人なら何かしら響くものがあるはずと信じています!
余談が長くなってしまった・・・スミマセン。
ついでにもうひとつ、「我がたたみゆめ」について。
「畳」ですが、もちろん今の畳ではありません。
平安時代の貴族は畳を敷いて寝ていたというのをいつか書いたことがありましたが、今みたいに床一面に敷いてあるものではなく、一枚(もしかしたら数枚?)敷いて、そこだけ特別に設(しつら)えてある場所です。
畳自体も今みたいな四角くてイグサがきっちり編んであって・・・というようなものではなかったと思います。
畳はもともと筵(むしろ)を何枚も重ねたものが起源とされていますが、古事記が書かれた時代は恐らくその過渡期にあったのではないかと推測しています。(私の勝手な推測なので根拠はないのですが)
また、この時代の感覚として「旅に出ている間は家にあるその人のものをみだりにいじってはいけない」という信仰があったようです。
「旅に出た時と変わりなく無事な姿で帰ってきてほしい」という願いからでしょう。
だからこそ島送りになる木梨之軽王が「畳を汚すな(いつものように整えておくように)」と歌うわけですし、さらに「軽大郎女も変わりなく身を慎んでいてくれ」と願うのです。
「行きたくない」っていう未練たらったらな心情がビシビシ伝わってきますね。

はい!ではいい加減次にいきます!
兄を見送る軽大郎女の歌。

其の衣通王そとほりのみこ=軽大郎女、歌をたてまつりき。其の歌に曰はく、

 夏草なつくさの<枕詞> 阿比泥あひねの浜の き貝に
 あしますな あかして通れ

<夏草の>あいねの浜の貝殻に、
足を踏んでお怪我をなさいますな。明るくなってからお行きなさいませ

あのですね、私はこの歌を初めて読んだ時、ちょっと冷たい印象を受けたんですよね。
だって兄の方は未練たらたらで行きたくないっていう気持ちが凄く伝わってきたんですが、それに対して軽大郎女のこの歌は、無事にいってらっしゃい、っていう感じに取れたわけですよ。
あー・・・なんかちょっとドライだなぁ・・・みたいな。
まぁひとつの説として、古事記に載せられている歌は、本人たちが歌った歌というよりは当時の人たちがよく歌っていた歌を場面に応じて当て嵌めていったという人もいるので、これがそのまま軽大郎女の心情ということは言い切れないとは思いましたが。
しかし!
しかしです!
私この歌の最後の二句「足踏ますな 明かして通れ」のフレーズに物凄く覚えがあったんです。
でもどこで聞いたか分からない・・・!どこだっけ・・・!!
と考えていて、思い出しました。
二年前に古代史にハマりだしたばかりのころに休みの度に通いまくっていた「古代出雲歴史博物館」の歌垣を題材にした映像で歌われていた歌でした!
あの映像の中に出てくる歌は「宴の陰(阿高と鈴の祭の話)」を書く時にいろいろ参考にしていたので結構熱心に見ていたんですよね。
あの歌の由来はよく分からないのですが、歌垣の歌ということはちょっと解釈が違ってきますよ!
「明かして通れ」というのは、「私のそばで夜を明かしてからお行きなさい」という(共寝を誘う)意味になります。
というわけでこの歌は「夏草の~足踏ますな」までは、最後の「明かして通れ」を伝えるための適当な理由付けというわけですね。
なんだかんだと言いながら結局そばにいてほしいという想いを歌っています。
千種か・・・!(電波受信)
「あ、あの、藤太。暗い内から出ては、先がよく見えずに怪我をするかもしれないわ。だから、その、今夜は休んでから・・・」
「・・・・・・(千種は本当にこういうところがかわいいよね)」
とか駆け巡っていきました。

・・・で、スミマセン、予想外に時間を使ってしまいました。
後半は次の記事で書きます!

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