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【補足】荻原作品と万葉集~「空色勾玉」海ゆかば…

だいぶ間が開いてしまいました!
拍手をくださった方ありがとうございます!
連パチや単パチや、うわあもう本当にありがたや!
いっしょに楽しみましょうね!


というわけで、前回さらっとご紹介した「海ゆかば……」ですが、念のため空色勾玉でどんな章に当てられているのか復習しておきます。

空色勾玉第四章「乱」
岩姫と科戸王、そして配下の男二人という闇の氏族のしのびの一行は、首尾よく狭也と稚羽矢、鳥彦をつれだしたのち、いかだをすてて山中にわけ入った。尾根づたいに進んで峯で一夜を明かし、さらに歩き続けた翌日の午後、斜面を下る彼らの眼下に、行く手の景色が開けた。(本文より抜粋)

こんなシーンから始まる「乱」は、このあと稚羽矢がわだつみの神の言葉を聞いたり、闇の里で奈津女たちにもてなされたりして束の間の平穏を得ます。
しかし岩姫によって稚羽矢が「風の若子」だと宣され、さらに進軍の最中に犠牲を払いながらやっと解き放った「国つ神」から襲撃を受け、それを稚羽矢が切り殺してしまう……という波乱の展開になっています。

そこでもう一度歌を見直してみましょう。

海ゆかば 水漬(みづ)(かばね) 山ゆかば 草むす屍
 大君(おほきみ)の ()にこそ死なめ 長閑(のど)には死なじ

古から続く武の名門大伴家とその分家の佐伯家に伝わる戦歌という説が強いこの歌。
繰り返し読めば読むほど、この歌の凄惨さと勇ましさが強く伝わってきます。
本文中の柾のセリフ「ひるむな。王の名にかけて姫をお守りするのだ」がより一層雄々しく響き渡るような気がします。

さて、このシリーズでは「万葉集」という切り口で荻原作品を見ていく試みなので、家持さんが詠んだこの歌を含む長歌を、万葉集の研究者の方がどう評しているのか覗いてみようと思います。
しかし、ここで一つ問題が。
私の持っている本は基本的にあまり研究色の強くない一般向けの本がほとんどなのですが、そういう本はもっぱら長歌を取り上げていない。
本のはじめのところで大体以下のようなことが書かれています。

A.「万葉集」の中に収められた歌は、かならずしも短歌形式のものばかりとはかぎららないが、紙面のつごうもあって、残念ながら、こちらは省略した。
B.選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数はまず全体の一割ぐらいを見込んで、長歌はやめて短歌だけにした。

という感じなのです。
そんなわけで、今回取り上げるのは多田一臣さんの「大伴家持」と、伊藤博さんの「万葉集釋注」の二冊のみから見てみることにします。
ちょっと少なすぎて偏った見方になってしまうかもしれません。お気を付け下さい。

多田一臣
きわめて長大な作である。
万葉集中三番目の長さをもつ。
もちろん、家持にとっても最大の作である。
この長歌が詠まれた理由は、(聖武天皇の)詔の中で大伴・佐伯の二氏が、祖先以来の忠勤を特記されたことに家持が感動したからである。
しかし、一方でなぜ、聖武がこの二氏に対する格別の信頼を、詔の中で表明せざるをえなかったのかが問題となる。
積極的な理由としては、武門の家柄としての両氏のもつ潜在的な軍事力が、当時の政治動向を左右しかねないような影響力を保持していたことを挙げることができる。
その具体的なあらわれは、皇太子阿部内親王を廃そうとする謀議が、二氏の軍事力を頼みとするかたちで企てられたことである。
佐伯全成(またなり)は、この時「全成が先祖は、清く明く時をたすけき。全成、愚かなりといへども、何ぞ先迹(せんしゃく)を失はむ」と述べて、不同意の旨をあきらかにしたという。
この全成のことばには、大伴・佐伯二氏に通ずる「内兵(うちのいくさ)」としての自覚があらわれている。
聖武が、陸奥国出金詔書の中で大伴・佐伯二氏の名を挙げたのは、動揺する政治情勢の中で、二氏があくまでも「内兵」としての覚悟を保ち、聖武の身辺を離れることのなかった、その忠勤ぶりを嘉みしたかったからであろう。
そうした二氏の姿勢に対する褒賞の意味を、聖武の詔に見ることができる。


もっとたくさん面白いことが書いてあるのですが、これくらいで。
興味のある方は多田一臣さんの「大伴家持」をぜひご一読ください!


伊藤博
家持の作としては最大の雄篇で、深い感動がこもっている。
第十三詔は、「続日本紀」宣命中最大の長篇。
その宣命において、先祖以来今日に至る功績を特記されたのは大伴・佐伯氏だけで、その称揚の言辞は県犬養橘夫人(聖武天皇の妻光明子の母)についで長い。
(さらに家持みずからは)従五位上に昇叙されたことでもあり、家持の感激のほどは察して余りある。
長歌は冒頭で神の命たる天皇の治める葦原の瑞穂の国に貢の宝が満ち満ちていることを述べ、黄金産出に対する天皇の望外の喜びを引き立てている。
陸奥の小田なる山に黄金の発見されたことから説き起こして、大伴・佐伯の両氏こそ、神代以来、絶えることなく、このめでたき世に至る皇室を守り通してきた名族であることをうたう。
(そして続けて)大君の御門の守り手は我が大伴一族以外にはないという思いが、宣命の言葉を聞くにつけてたち優ることをうたう。


というわけで、この歌は大伴・佐伯両氏の覚悟を高らかに歌い上げた戦闘歌謡だったということ、そしてそれを家持さんが心底誇りに思っていたということが分かりましたね!
家持さんは武門の家柄で、その武門とは今の自衛隊のようなものではなく、皇室警察のような、天皇の身辺警護に特化した武門です。
家持さんにとってその守るべき神である聖武天皇から直々に言葉を頂いたことがどれほど誇らしかったか。
ちなみにこの直後に家持さんは長く離れて暮らしていた妻の大嬢を越中国へ呼び寄せているようです。
二人の間の初めての子どもが出来たのはこのあたりだったという推測が各所でなされています。
私の中では家持さんの息子たちは二人とも池主さんの子どもを養子として引き取ったという脳内設定があるんですが、まあどうでもいいですねこれは!(ホントにな)
家持さんまさに人生の春ですね!
この歌は家持さんのその後の人生をいろんな意味で象徴する歌にもなっている(という気がする)ので、見逃せません。
いつかそのことについて書くことができる日は来るのか…どうなのか…(頑張れ自分)

何はともあれ、古代の戦闘歌謡の中ではもっとも勇壮ではないかと(私が思っている)この歌が、空色勾玉で「乱」の章に配された意味をじっくり考えるのは非常に楽しいひと時になることと思います!