【補足】荻原作品と万葉集~「RDG」天地の…その二
- 2014/03/16 20:37
- Category: 薄紅天女>その他荻原先生関連
始めにお返事いたします!
りんこさん
>ああちょっと変な歌なんだな…から先を考えたことなかったので嬉しいです。
りんこさんのサイトで「ちょっと変」という言葉を拝見したおかげで書くことができた記事です。
RDGでこの歌をみても私は特に変とも思わず、万葉歌が取り上げられていたことに単純に喜んだだけでした。
貴重な情報をまとめてくださって本当にありがとうございます。
おかげでRDGも万葉集もよりいっそう楽しく読むことができます。
このシリーズへもコメントを頂けてこちらこそ本当にとても嬉しいです!
これからもちょっとでも楽しんでいただける記事が書きたいです!
どうぞお付き合いよろしくお願いします!
荻原作品も万葉歌も何と親和性の高いことか!(当たり前か)
両方楽しみたい心意気でモリモリ続けていきたいと思います!
さあ、続きです!
前回の記事で、「天地の~」の歌は実は全部で七首ある「玉」をモチーフに詠んだ歌の冒頭の一首で、七首全部読んだらもしかしたら「ちょっと変」(上二句と下三句のギャップ)は解決するかも?と書きました。
本当に解決するのかどうなのか。
とりあえず下記に七首全部とその訳(伊藤博さん)を載せましたので、まずは読んでみてください。
天地 の 寄り合ひの極 み
玉の緒 の 絶えじと思ふ妹 があたり見つ息 の緒 に 思へば苦し
玉の緒の 絶えて乱れな 知らば知るとも
玉の緒の 絶えたる 恋の乱れなば
死なまくのみぞ またも逢はずして
玉の緒の くくり寄せつつ
末つひに 行きは別れず 同じ緒にあらむ
片糸もち貫 きたる玉の 緒を弱 み
乱れやしなむ 人の知るべく
玉の緒の現 し心 や
年月の 行きかはるまで妹 に逢はずあらむ
玉の緒の間 も置かず
見 まく欲 り 我が思ふ妹は家遠 くありて
天と地とが寄り合う果てのいついつまでも、玉を貫く緒の絶えることのないように、仲は絶えまいと思っている子、その子の家のあたりを今こそ目にすることができた。
命がけで思っていると苦しくてならぬ。いっそのこと、玉の緒が切れて玉が散るように、悶え死ぬばかりに思い乱れよう。人が知るなら知ろうとも。
玉の緒の切れるように消えてなくなった思い、その思いがまた乱れて動くことがあったなら、もはや死ぬしかない。二度と逢うこともなく。
玉の緒の両端を
一本
玉を貫いた緒の現し心――魂を繋ぎとめている平静の気持ちのままで、年月の移り変わるまでも、あの子に逢わないでいられるものであろうか。
びっしり連なる玉の緒の玉のように、あいだも置かず絶えず逢いたいと私が思っている子は、遠く離れた家に住んでいて……。
(訳:伊藤博)
どうですか?
何か感じることはありましたか?
私は最後の歌を読んで思いました、これ、ループしてる!!って。
いや、誰しもそう思うかどうかは甚だ疑問ではあります。
でも最後の歌を読んで、もう一度最初の歌に戻ったら、何だか繋がっている気がしませんか?
どこが?と思われた場合はスミマセン、私の完全な独断と偏見による意見です。
特に誰かが主張していることではありません。
実はこれらの歌は一人が詠んだのではなく、「玉」に寄せた歌という共通点以外は何もない歌群なんです。
どこの誰なのかはもちろんわかりませんし、性別すらもよく分かりません。
恋人を「妹」と表現している歌は男性が詠んだものでしょうが、四首目や五首目は女性が詠んだ歌ではないかという評価も少なくありません。
つまり、この歌をこの配列にしたのは万葉集を編纂した人物かまたはその人物へこの歌の存在を伝えた人物だと思われるのです。
私は、この歌の配列は意図的だと思うんです。
遠く離れ離れになっている男女双方の視点を利用しつつ、「玉」という共通のモチーフで空間的な距離を気持ちの上で繋げてそれぞれの思う気持ちを強調している(体は遠くに離れているけど同じことを思ってる)・・・みたいな感じを妄想せずにはいられなかった・・・!
家持さんか、別の人かは分かりませんが、この七首をこのように並べた人物のセンスに脱帽です。
いつも以上に自己満足な解釈を垂れ流しているだけの記事で大変申し訳ございません(汗)
私の個人的な意見は脇に置くとして、残り六首もとても素敵な歌だと思うので、ぜひオギワラーの皆様にご紹介したかったというのが一番の狙いでした。
次はいよいよ最後の歌です。
この歌と、あとおまけに勾玉読本のスピンオフの題名に取られているフレーズがある万葉歌にちょっと触れて、最後のまとめにする予定です。