Entry

継体天皇!(完成)

継体天皇の人気にあやかって、継体天皇についてちょっと詳しく書いてみたいと思います!
継体天皇は今から千五百年前の天皇(大王)です!
その謎に包まれた魅力的な人物像とは!?

<継体天皇の基本>
・5C~6C頃(古墳時代)の天皇
・越前国(福井県)出身
・応神天皇5世の孫

※ちなみに応神天皇は3C~4Cの天皇で、ヤマトタケルの孫にあたるお方です。実在が濃厚な最古の天皇(この時代は大王)といわれています。

<注目の話題>
・王朝交代説
・磐井の乱
・今城塚古墳

継体天皇で最も注目度の高い話題はやはり「王朝交代説」でしょうか。
この「王朝交代説」について、私がいろいろ集めた俄か知識をメモ程度の内容で記述してみたいと思います!

<ロマンあふれる色々な「王朝交代説」>
・騎馬民族征服説
・三王朝交代説

「騎馬民族征服説」とは、「東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説」です。(wikipediaより引用)

王朝交代説とは、戦後になって皇室の万世一系の思想にメスを入れた画期的な説です。
「騎馬民族征服説」という説が出されて学会に大きな論争を巻き起こしました。
これは1950年代に出された説なのですが、その後数十年にわたって賛否両論を含む大きな影響を与え続けたようです。
この学説が正しいか正しくないか以上に、それ程の内容を発表なさったという点において「江上波夫」さんは本当に偉大なお方だったのだと思います。
因みに手塚治虫さんの『火の鳥・黎明編』 は、この「騎馬民族征服説」を採用しているそうです!びっくり!
そして、この説の論争から生まれたのが次の「三王朝交代説」です。
この説を簡単に説明すると古代の王朝は「古王朝(4C)」「中王朝(5C)」「新王朝(継体天皇以降~)」となるという説です。
これを始めに唱えたのは「水野祐」さんという方なのですが、その後何人もの学者の方に受け継がれて大きく発展していきます。
この「古王朝」「中王朝」についても色々説はあるようですが、今回は継体天皇を中心に語らせていただくために、他の話題は省かせていただきます。
で、「中王朝」から「新王朝」への移行。

<「中王朝」から「新王朝」への移行はスムーズだったのか、波乱に満ちたものだったのか>
・簒奪による王位継承
・近隣の豪族の協力を得たスムーズな王位継承

武烈天皇の死後、(中略)中央に対する地方の動乱が生じた。この形勢に乗じ、風を望んで北方より立った豪傑の一人が、応神天皇五世の孫と自称する継体であったのではなかろうか。彼は徐々に(中略)勢力を培い、ついに大伴氏をも味方につけることに成功し、これを先導として大和に突入し、物部氏をも服さしめて反勢力の中心を打倒し、磐余玉穂にはいって、名実ともに皇位を継いだのではないかと考える。(「継体朝の動乱と神武伝説」直木孝次郎・岡田精司より引用)

風を望んで北方より立った豪傑・・・!
かなりロマンを掻き立てられる表現ですね!
歴史系の論文はたまにこういう小説にでも出てくるような表現がされててとても楽しい!(大半難しすぎて読めませんが)
で、これを読む限り、直木さんと岡田さんは継体天皇は簒奪によって旧王朝から王位を継承した、という立場のようです。
しかし他の立場の方もいます。

武烈が亡くなったあと、大伴金村大連によって、継体は擁立された。しかるに、大和や河内の豪族の一部にこれを快く思わなかった一派があり、継体の大和入りは阻止された。継体が樟葉や筒城・乙訓の地を転々としたというのも、おそらくそうした事情を語っているものと推察される。(「継体大王家の成立」山尾幸久より引用)

これはさっきの説とちょっと違いますね。
さっきのはほぼ100%簒奪での王位継承でしたが、こちらは大和内の豪族の協力を得ての王位継承のようです。
ただ内部に反乱分子もあったので割合的には50%くらいでしょうか。
あ、因みに云うまでも無いかもしれませんが上に出てくる大伴金村大連は万葉集の大伴旅人・家持のご先祖様ですよ!(家持にハマって以来大伴一族にかなり興味が出てきている今日この頃)
この他「雄略天皇没後、仁賢を擁立しようとする勢力と継体を擁立しようとする勢力の間に分裂が生じたが、最終的に継体が仁賢の娘と婚姻することによって妥協が成立した(「日本古代の王権と氏族」大橋信弥)」とする説や「継体の即位は大伴氏、物部氏によって承認され、平和裡に迎えられたものであって、地方豪族の武力による王位簒奪などではない(「応神王朝の衰亡」加藤謙吉)とする説など、様々な論が出されていていますが、未だに定説らしいものはないようです。

<継体天皇が後の時代に与えた影響の大きさ>
・天皇は皇族出身者しか即位できない
・天皇は臣下が擁立することが出来る

継体天皇の即位が実際どのようなものであったにしろ、その経緯は大変特異なものであったのは間違いありません。
これは後の時代の様々な場面で大きな影響を与えました。

継体天皇の即位は、その後長く王位継承が混乱するたびごとに思い返されてきた。とりわけ、正当性に問題のある天皇が即位するときには、必ずといっていいほど先例とされてきた。(中略)継体の即位は、その後の王位継承に二つの規定をしているようにみえる。
ひとつは(中略)かれのような遠い傍系の天皇の存在が、かえって何時いかなる場合でも王族しか天皇にはなれない、という原則を強調する効果をもっているのだ。
ふたつめに、(中略)臣下によって天皇が推戴された先例として継体の即位はとらえらえられている。王位継承の混乱時に臣下らが次の天皇を決定することは、一見王位を私する不敬なふるまいのようにもみえる。しかし臣下が君のため世のため、世を治める方向で君を立てたものであれば、それは正当化されるのである。(中略)これはのちには、臣下による天皇擁立を無原則に容認する方向に向かっていく。(「謎の大王 継体天皇」水谷千秋)

この後は皆様ご存知の通り、天皇の即位について段々と臣下(貴族や武士など)が介入してくるようになり、江戸時代にはついに武士の承認が無くては天皇は即位も退位すらもできなくなってしまうというところまでいってしまいます。
もちろんそれはもっともっと複合的な要因があってのことだとは思いますが、やはり継体天皇はその先例として各時代、各人物によって都合よく引用されたようです。

とりあえず、私が約2週間程度で得た知識を簡単に書いてみました。
いろいろツッコミどころは多いかと思いますので、ご意見ご感想などございましたらお気軽にお知らせ下さい。
なお、今回は端折りましたが「磐井の乱」「今城塚古墳」についても凄く面白そうですよ!

◎「磐井の乱」は壬申の乱に並ぶ古代の大戦乱です。
九州の豪族「磐井氏」と継体天皇時代の大和政権指揮する「官軍」との二十年に及ぶ戦です。
日本書紀にはその経緯がかなり詳しく書かれていますが、古事記には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけ、「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」と記述されていることから、かなり大きな謎があるように思われます。

◎「今城塚古墳」はやっぱり私が初めて訪れた「きちんと保存された本物の古墳(復元じゃなくて)」なので勝手に愛着が(むしろ地元の古墳よりも←ェ)湧いていて、帰ってきてからも過去に買い集めた考古学資料をひっくり返しては色々調べてニヤニヤしてます。
ここで発掘された家型ハニワは日本最大級の高さ170センチだそうですよ!
私の身長が176センチなので、ほぼ目線の高さです!ひえー!

あ、結構いろんな説を引用させて頂いていますが、ほとんどが「謎の大王 継体天皇」から孫引きさせて頂いてます。
とても読みやすい本でした!

古代は楽しいです!
これからももっと色々調べていきたいと思います!
ここまで私のつまらない文章を読んでくださった方(いらっしゃるのかどうか・・・汗)、お付き合い下さってありがとうございました!