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磐姫の嫉妬@古事記下巻

イエーイ!ノリノリでやります!
磐姫いわひめの嫉妬」!

実は、磐姫の話を取り上げることになったのには理由があります。
万葉集に磐姫の作といわれる歌が載っているのです。
これは万葉集の中でも最も古い謂れのある歌ということになります。
万葉集の冒頭を飾るのは雄略天皇(5世紀頃の天皇)の歌ですが、磐姫はその前の4世紀頃の人物なのです。
どんな歌が載っているのかは、この話の最後にまとめて書きますね。

まずは古事記を見てみましょう。
そもそも古事記は上・中・下巻の全三巻からなる書物です。
詳しくは前に書きましたが、古事記は

上巻・・・神話の時代(神代の巻)
中巻・・・神と人が交流する時代(英雄時代)
下巻・・・人の時代(人代の巻)


という構成に大きく分かれています。
今までは上巻メインで語ってきましたが、今回はいきなり下巻に収められている話をします!
今までと違って、ぐっと人間味溢れる話が展開しますよ!

磐姫いわひめというのは、古事記下巻の冒頭に書かれている「仁徳天皇」の皇后です。
仁徳天皇は聖帝として大変有名な方です。
その昔(4世紀頃・古墳時代前期)に高い山に登って治めている国を見渡すという、所謂「国見くにみ」を行います。
その際、国中に(飯を炊いたりするための)煙がたっていないのを見て、民が貧しくて苦しんでいると知り、三年間税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根が雨漏りするのも放っておいたほどだった、という善政を行ったことが有名です。
また、私と同世代の方なら中学時代に「日本で一番大きな古墳」として「仁徳天皇陵」を習った記憶がある方も多いのではないでしょうか。
しかし、今ウィキを見てみたら日本第2位となっていて、ちょっと驚きました。
その後の発掘でもっと大きい古墳が発見されたんでしょうか?

さて、そんな古代史上大変褒め称えられている仁徳天皇の皇后「磐姫」とは、どんな皇后だったのでしょうか。
さっそく本文にいってみましょう!

その大后おほきさきいは売命めのみことは、嫉妬うはなりねたみすること、いと多し。かれ天皇すめらみことの使へるみめ他の妃は、宮のうちを臨むことを得ず宮殿に入れさせなかった(仁徳天皇が他の妃に)言立ことだつれば何か言っただけで、足もあががにジタバタさせて嫉妬うはなりねたみしき。しかくして、天皇すめらみこと、吉備の海部直あまべのあたひむすめ、名はくろ日売ひめ、その容姿かたち端正きらぎらしと聞こしめして、し上げて使ひき。

今回から少し書き方を変えてみました。
本文の中に現代語訳をちょっとだけ混ぜています。
これで少しは意味が取りやすくなっていればいいのですが・・・。

さて、件の磐姫(本文では石之日売)ですが、どうやら大変なヤキモチ焼きの皇后のようです。
他の妃たちを天皇に近づけず、さらに天皇が他の妃たちに声を掛けるだけでも足をジタバタさせて癇癪を起こすというお方です。
中々アグレッシブな行動派の磐姫。
そんな皇后のいる難波の高津宮(仁徳天皇は難波に都を置いて統治した)へ容姿端麗な娘が新に召し上げられることになりました。
さあ大変です!どうなるのでしょうか。

しかれども、その大后おほきさきイハヒメねたむをかしこみて恐れてもとくに故郷の吉備に逃げ下りき。天皇、高きうてな高殿いまして、その黒日売が船の出でて海に浮かべるを望み見はるかして、歌ひてはく、

おきには ぶねつららく連なっている
 黒鞘くろざや<枕詞> まさづ子我妹わぎもいとしいあの子 国へ下らす

かれ、大后、このうたを聞きて、おほきに忿いかりて、人を大浦難波の海つかはし、追ひ下ろして、かちより追ひ去りき陸路を歩いていかせた

す、凄い勢いですね。
まさかここまでとは・・・。
上巻でヤキモチ焼きで有名な姫といえば何といってもスサノヲの娘にして大国主の正妃「スセリヒメ」ですね。
彼女の嫉妬は激しくて、因幡のヤカミヒメはそれを恐れて、産まれた子どもを木の根に挟んで、そのまま故郷の因幡に帰っていったという話がありました。
しかし磐姫はそれを上回る癇癪ぶりです。
ただ追い返すだけではなく、船で帰ろうとしていたところを追いかけて徒歩で帰らせるようにしてしまったとか。
仁徳天皇はこの後も「淡路島が見たい」と言って、こっそり黒日売の後を追ったり、磐姫が祭りの準備のために遠くへ行っている隙に異母妹の田若たのわか郎女いらつめ(八田皇女)と懇ろになったりします。
結局八田若郎女との仲も磐姫にバレて終わってしまうわけですが、まぁ仁徳天皇も懲りないですね。
当時の結婚観念はもちろん一夫多妻なのですが、だからといってそれを誰もが当たり前に納得していたわけではないということでしょうか。

・・・まぁ男女の痴情の縺れと見るのも単純明快でいいのですが、ここは実は「日本の正史上初めて臣下の娘が皇后になった」事例とされています。
それゆえ、当時の磐姫の立場はかなり微妙なものだった可能性があるわけです。(先例がないから)
一方八田皇女はもちろん皇族ですから、これを后(正妃ではないにしても)にするというのは、仁徳天皇にとっても磐姫にとってもかなり大きな意味があったのだろうと思います。
周囲の歴史を重んじる輩の圧力だとか、磐姫の実家の権勢を削ごうとする動きだとか、いろいろ想像すると、何だか仁徳天皇も磐姫もちょっと可哀相になってくるような気がします。・・・まぁ想像ですが。

因みに本文中の歌の訳は、まぁそのままなのであまり必要ないと思いますが、全体の気持ち的には「あーあ、行っちゃった・・・」くらいの意味と思っていただけたらいいと思います。(適当でスミマセン)

さて、こんなに嫉妬深く、また行動派な磐姫ですが、実は万葉集では少し違う顔を見せてくれます。

君が行き 長くなりぬ 山尋ね
 迎へか行かむ 待ちにか待たむ  巻2-85

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。山を踏み分けてお迎えに行こうか。それともこのままじっと待ちつづけようか。

かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の  
 岩根しまきて 死なましものを  巻2-86

(訳)これほどまでにあの方に恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと、お迎えに出て険しい山の岩を枕にして死んでしまった方がましだ。

ありつつも 君をば待たむ うち靡く
 我が黒髪に 霜の置くまでに  巻2-87

(訳)やはりこのままいつまでもあの方をお待ちすることにしよう。長々と靡くこの黒髪が白髪に変わるまでも。

秋の田の 穂の上に らふ朝霞あさがすみ
 いつへの方に が恋やまむ  巻2-88

(訳)私の田の稲穂の上に立ちこめる朝霧ではないが、いつになったらこの思いは消え去ることか。この霧のように胸のうちはなかなか晴れそうにない。

迷いつつ、結局待つことにしちゃいましたよ!
古事記ではかなり行動派だった磐姫ですが、万葉集ではじっと耐える女のようです。
ただこの歌は後の柿本人麻呂が磐姫に仮託して詠んだ歌だったのではないかともいわれているので、いろいろ定かではない部分もあります。
なお、ここでは古事記主体で語っているので省きましたが、日本書紀には別の記述もされています。
そこでは磐姫は八田皇女の騒動の際に仁徳天皇を許さず、結局別居したままその土地で一生を終えます。
磐姫がなくなった後、仁徳天皇は八田皇女を正妃に迎えますが、やはり女癖は治らず、八田皇女も苦労したようです。
古事記では八田若郎女が身を引いて、磐姫は戻ってくるという話になっています。

で。
勘のよいお方は、私が磐姫について語りますと書いた時に、「じゃあ当然オギワラーとしては外せないあの歌のことも書くよね!」と思われたのではないでしょうか?
もちろん書きますよ!
ただ、磐姫はあまり出てきてくれないので、ダイジェスト版になると思います。
何卒ご容赦の程を・・・。
また、何のこと?と思われた方にはキーワードをご提示させていただきます。
キーワード
「空色勾玉の終盤」
「狭也」
「女鳥王」

更にヒントです!
最近Rieさまの空色創作にでてきてましたよ!

それではまた次回~。