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お返事です・その174&拍手たくさんありがとうございます!

3月になったらいよいよ日向神話語りに取り掛かろうと思っています。
出雲神話と比べて私が勉強不足のところも多いのですが、一生懸命日向神話の魅力について語りたいと思っておりますので、ご興味がある方はぜひよろしくお願いします!

それでは、以下コメントへのお返事です!

心楽さま

ようこそお越しくださいました心楽さま!!
お待ちしておりました!!
11連パチありがとうございます!!!!!!!!!!!
勝ましは始めのパチから10分以上たってから最後のパチをすると現れる仕組みのようです。
私がうまく設定を把握していなかったので幻のページになってしまいました。
機会があったら見てやってください。
ホタルイカありがとうございます!
私もホタルイカ大好きです!
地元の鳥取県でも現在大量に水揚げされており、日々横目で見つつ通り過ぎております。
富山のホタルイカやブリはある意味反則レベルの美味しさですね!
風光明媚で食べ物もおいしいので、日本で一番住みよい場所と言っていた人もいました。
万葉集がらみでも大変おいしい土地ですよね。
私も近いうちに訪れたいと思っています。

>苦渋に満ちた恋路を歩む王に萌!!
>いっそう王が狭也をかっさらってしまえば…(殴
>あぁ、稚羽矢さまお許しくだs(落雷


なんと!
心楽さまも科さやスキーでありましたか!
嬉しいです!
広がれ、科さやの輪!
とはいえ私はちーさや前提の科さやしか書けないかもしれませんが^^;
ちーさやの隙間を縫って科さや妄想を続けていきたいと思っておりますのでよろしくお願いします!

>科さやを読んで、久しく空色を読んでいないことに気付きました。今日改めて手に取って発見したこと…科戸王は30歳にも満たない若者であったのですね!!今までずっと王は30半ばのお方だと思っていました。ファンに失礼ですね、本当(汗)血祭りにあげられても仕方ありません。けれども科さやは応援しています!!何歳差であろうとも(慎め)

ひげがあると年を取っている気になりますよね。
実は27歳というお歳でした。
30半ばの科戸王は何をしてるでしょうか。
狭也への思いを振り切って新しい恋を見つけているのか、まだ狭也への思いを引きずっているのか。
原作終了から10年後くらいも大変妄想しがいがあります!
いつか書けたらいいなぁと思います。

>実は、科戸王はどうして狭也を想うようになったかが自分の中では未だに説明がつきません。恋とはいつの間にか落ちてしまうもの、理屈で説明のつくものではないとは理解しているのですが。兼倉さんはどうお考えでしょうか??お時間があるときにお聞きすることができれば幸いです。

おお!
やっぱり気になりますよね!
私なりの気持ちとしては2/18の記事で少し語っているのですが、やっぱり初対面の時の狭也の「憎むことより、愛することが好きなだけです」がきっかけの一つになっているんじゃないかと考えています。
とりあえず、

・始めは自分の生き方を否定されたようで反発するけれど、そればかり考えていて気づいたら好きになっていた
・ずっと憎むことばかり考えてきていたので知らない感覚(愛する)を始めは拒絶するが、少しずつ興味を覚えて気づいたら狭也自身のことも好きになっていた

の二種類を想定しています。
実はこの辺りを書こうかという構想もあったのですが、あまりガチガチに考えてしまうと逆に創作の枷になってしまうような気がしたので、今のところはぼんやり気味にしておこうと思っています。
いつか機会があれば言及してみたいです。

>それから遅くなりましたが阿高について
>原作の黒馬の阿高と苑上との会話に阿高の心の声を交えた兼倉さんの作品で阿高の心をより近くに感じることができました。(知っている。おれは。この姿を、この思いを、ずっと・・・)から(鈴・・・鈴・・・おまえのおかげで気づけた。おれはずっと始めから人だったんだ)までの阿高の台詞に涙しました。


お読みくださってありがとうございます!!
この部分はおそらく人によって千差万別だと思います。
あまり考えすぎると他の方の作品を素直に読むことが出来なくなってしまうので、決めつけすぎないようにというのを一番心がけながら解釈をするようにしています。
阿高の心が「死」んでから「再生」するという視点で書くと、私としてはこのような形になりました。
心が「死ぬ」とはどういう状態か、「致命傷」となったのは何だったのか。
また、そこから「再生」するとはどうなることか、何が阿高の心に命を吹き込んだのか。
ここまで考えてふと、それではそもそも心が「生きている」とはどういう状態なのか、と言ってしまえばほとんど帳尻合わせのようにして考えながら今回の語りをやってみました。
私はいつも物事を考える際に必ず最終的にどうなるか、どうしたいかと念頭に置いて考える癖があります。
こうすると、どうしても途中の解釈が帳尻合わせ的だったり都合よくしすぎてしまったりするのが欠点です。
その時その時のリアルな感情や行動をもっと見つめることができるようになりたいものです。

>物語の初めからずっと阿高は自分の望みに関しては無欲で在り続け、身に強大な力を宿しても尚、ただ守りたい者のために自分を差し出し与え続けてきたのに自分もちっぽけな人間だと、非力な人間であると。阿高の懐の広さに、ただただ泣けてきました。

私は阿高は無欲というよりは、望みを見失っていたのではないかと思っています。
自分が何者なのかもわからないまま、藤太が望んでくれる「武蔵へ帰る」という期待に応えるために頑張っていたように見えました。
阿高は決して自分を押し殺して人のために尽くすような高尚な思いをもっていたのではなく、そもそもただ自分が何を望めばいいのかすらも分からなくなっていたのではないかという解釈で書いてみました。
力だけは甚大で望めば皇位すらも手に入れられるほどのものだけれど、その力に見合うだけの大きな望みを阿高は持っていませんでした。
そういう部分でも現実と心の間に齟齬が生じて苦しむ要因になっていたかもしれません。
ただ、もしこの力を持ったのが無空や茂里なら、確かに自分の欲を果たすために使うすべを見出したかもしれませんね。(原作でもそんな会話がありましたね)
そういった意味では、阿高は確かに無欲であったといえそうです。
今後もいろんな解釈で楽しみたいと思います!

>自分だけが与えてきたのではなく相手からもまた気持ちをもらって共有しているのだと苑上に気付かされたからこそ、あの優しい言葉があるのですね。『誰かと繋がっていることにもう一度気付けたことが、再生したということ』にも頷けます。深い孤独を知るが故に自身の気持ちを惜しみなく苑上に与えた時には、阿高にとって苑上は特別な存在であったのでしょうね。

誰かに何かをもらって、初めて自分もあげようと思えるのではないかなと日々思っています。
思いやり深い人は、きっとそれまでの人生で周りの人からたくさん思いやりを受け取ってきたのだろうと勝手に考えています。
自分が何か欲しいと思った時に、「じゃあまずは自分が誰かにあげよう」と自然に思えるようになったら人として成長したといえるかもしれません。
人が救われるのも成長するのも、やはりきっかけは人であってほしいです。
そのあたりが文章として書けるようになればいいのですが、まだまだ力不足でうまく伝えきれません。
もどかしいです。

>後々苑上が阿高を見出した際、阿高が間の悪そうな顔をしたのは、苑上に優しい言葉をかけつつも死ぬことで苑上の特別になってその心に刻まれ続ければいいと思っていたのにのこのこ帰ってきてしまった。その上、苑上に見出されたとあっては…とか阿高が思っていれば面白いですね(私だけだろうか、汗)
>本当に素敵な作品をありがとうございます。


おお(笑)
実は私も初読時にそう思いました。
あんなに大々的な別れをした後だからそりゃあ会いづらいよなと内心笑っておりました。(スミマセン)
この解釈もありですよね!
この時の間抜けな阿高(笑)から最後の颯爽とした阿高のギャップがとても素晴らしいと思います!

>長くなってしまいました。兼倉さんはお風邪を召されたそうですね。明日からも寒くなるそうです。どうぞお体を温かくして十分に休んでください。

ありがとうございます!
お陰様で今はもう鼻水が少し残っているぐらいです。
一時は悪寒がして喉も鼻も大変な状態でしたが、寝込むことなく気合で何とかなりました!(単純な構造の身体でよかったです)
萌え活動もやっぱり体が資本ですね。
元気に楽しく毎日萌えまくっていきましょう!

コメントありがとうございました!!
心楽さまのまたのお越しを心よりお待ちしております!!
28日の18時台に10連パチ、22時台に3連パチ、本日4時台に2連パチを頂きまことにありがとうございました!!!!!!!!!!!!!!!
科さや需要はこんなにあったんですね!
薄紅の更新の時よりも反応が大きくてびっくりです。
こんな薄紅まみれのサイトでも科さやスキーの方が訪れてくださるのですね。
ありがたいです。
今後も少しずつ盛り上げていきたいと思っておりますので、ぜひこれからもよろしくお願いします!
拍手ありがとうございました!