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阿高と苑上の関係の変化(伊勢阿高への伏線を半分捏造なのを承知の上で考察してみる試み)

いつもは人様のお宅の伊勢関連を拝見してニヨニヨしている私ですが、今回は折角自分でも伊勢阿高(の一部)を更新したので、もうちょっと自分で伊勢気分を盛り上げてみたいと思います!(自家発電)
まず本文から注目ポイントを絞ってみます。

<阿高にとっての苑上の立ち位置が変わった場所>
・苑上が一人で阿高を捜しに行った場面
~阿高の台詞(+α)~
「おかしなやつだな」(文庫下p.189)
「変なやつだな、おまえって」(同p.190)
「最初からそうだったな。おれのことをよく怖がらないでいられるものだ。あれを見た後で、おれを探しに来る気になれるのは、藤太ぐらいしかいないと思っていたのに」(同)
「もっとも、得体の知れないやつに始終襲われては、多少のものは怖くなくなるのか」
阿高のほほえみは、どこか寂しそうに見えた。(同)

まずはここまで。
苑上が阿高を探しにきて、阿高がそれに対して率直な感想を言っています。
怖ろしい姿を目の当たりにしたはずの鈴鹿丸が一人で阿高を探しにきたので、ちょっと驚いて一瞬期待してしまいます。
それが「藤太ぐらいしかいないと思っていたのに」の台詞になっていると思います。
ここで一瞬鈴鹿丸が藤太(=阿高の味方)の側に入ります。
しかし直後に阿高は「もっとも~(中略)~多少のものは怖くなくなるのか」と言っています。
この台詞は鈴鹿丸に対してではなく、自分に対して言っているものでしょう。
一瞬期待してしまったけど、まさかな、そんなはずないよな、と自分を冷静にするために言い聞かせているかのようです。
阿高のほほえみが「寂しそうに見えた」のは、阿高がやはり自分が怨霊と同じものであると自分に無理やり再認識させたことから生じるものであると思います。

・秘密の打ち明け
~苑上の感情~
(だれがそばにいようと、たとえ藤太のような人がそばにいようと、この人は孤独なのに違いない・・・・・・)
苑上自身とはまた違った意味で、阿高は物の怪を自分と同じものに見なしている。それに気づいたとき、苑上は口を開いていた。
「わたくしには、物の怪がなんなのかもうわかっているの。あれはわたくしの身内の怨霊。~(中略)~そう見せかけていたけれど、本当はその姉なのです」(文庫下p.190-191)
「わたくしは、あなたがどう思うかが一番怖かった。~(後略)」(同p.194)
「たぶん、わたくしは、皇の闇ほどにはあなたが怖くないの。あなたは自分が怖いのでしょうけど」(同p.199)

阿高にとって、秘密の打ち明けとは、苦い記憶のあるものでした。
ずっと信頼していたはずの藤太に秘密があって、しかもそれを自分ではない他の人間に打ち明けられてしまった(誤解ですが)。
しかし苑上は阿高に自ら秘密を告白します。
これは阿高にとって大きな意味があったと思います。
苑上は阿高にもっていた秘密をいくつも打ち明けました。
・怨霊の正体が身内の因縁であること
・自分は皇であること
・自分は女であること
・自分の本当の名前は「苑上」であること
このどれもが、苑上自身にとっては大変大きな意味のあるものです。
一つ目の秘密は吐き気のするような事実
二つ目の秘密は阿高を敵視している側の人間である(と阿高に見なされても致し方ない)という事実(あと、単純に身分がすさまじく高い立場という事実も)
三つ目の秘密は自分が周りから必要とされない原因と信じていた事実(=否定したかった自分そのもの)
最後の四つ目の秘密は自らの真名
*最後のは若干薄紅の内容からの読み取りというよりも歴史風俗的な見解を用いた方がより意味のあることになってしまいそうなので、正直判断に迷う部分ではあります。
しかし名を名乗るという行為自体が、自分を相手に預ける、相手を信頼している証と受け取れるので、これもやはり数に入れておきたいと思います。

そしてこれらの秘密を明かすことは苑上にとっては「あなたがどう思うかが一番怖かった」ことであり、それを抑えて阿高に話した苑上の勇気と信頼は、一度「秘密」によって傷ついた阿高には確かに響いたと思います。
そしてダメ押しで「わたくしは、皇の闇ほどにはあなたが怖くないの。あなたは自分が怖いのでしょうけど」と告げます。
この台詞は阿高の中で苑上が味方とも敵とも違う、第三のポジション(立場)を提示する伏線では、と思いました。
阿高にとっては雷の力は受け入れがたい(=自分の分を超えている)もの(=扱い辛いもの、扱えないもの)であり、幼い頃から内包してきた孤独感(疎外感、他人との違い、生みの親の不在とそれに対する家族の秘匿行為への不信感)のいわば象徴(具現?)のようでもあり、極めつけに自分の周りに災いをもたらす忌まわしく怖ろしいものでもあります。
よって、阿高は「自分(と周りの人間)」対「怨霊(および自分の人知を超えた力)」、「自分(と周りの人間)」対「都の人間(皇)」という二種類の二極構造で戦っています。
今まで鈴鹿丸は「怨霊」に狙われる存在だったので、敵の敵は味方の論理により助けてきました。
しかし苑上は皇でありなおかつ怨霊を生み出した一端でありながら、阿高の敵ではもちろんなく、そして藤太たちや他の都の人間のように阿高の力を否定することもない。
上のほうでも少し書いていますが、この阿高の力は阿高が幼い頃から抱いていた孤独感や疎外感の具現のような役割があるように思えます。
これについてはまたいろいろ詳しく語りたい話ではあるのですが、要はこの力もまた阿高自身の一部であると思うのです。
なので、この力を否定することはすなわち阿高自身を否定することになるわけです。(この時点では阿高自身も否定しています)
私は苑上が自分が女であるということを否定したのと同質のことと捉えています。
苑上も始めは「女(不必要=否定)」対「男(必要=肯定)」という二極構造の思考でしたが、「(女であっても)するべきことがある」という新しい思考を獲得しました。
そういう思考の獲得(転換)ができた彼女だからこそ、阿高に対しても新しい立場から唯一見つめることが出来る人物となり得たのではないかと思います。
※ちなみに、そういった意味では最終的には茂里もまた、藤太たちとは違う(阿高を武蔵につれて帰れるか否か、ではない別の)視点で阿高を見ている人物になります。
二極構造は大変単純なので気持ち的にはあれこれ考えずに済んで楽ではあるのですが、囚われすぎると逆に逃げ場が無いため物凄く息苦しい思考でもあります。
そのような中で、苑上や茂里のような二極構造の外にいる人たちの言葉は、阿高にとっては二極構造で淀んだ空間へ外から清浄な空気を入れてくれる(気持ちを楽にしてくれる)存在のように感じられていたかもしれないと思っています。(あくまでも想像ですが。極論をいうなら阿高は苑上のそばで息ができていた、みたいな、ね!←イタイ妄想入ってきた)


おおお、長くなってしまった・・・。
まだ何の結論も出せてないのに・・・。
ちょっと一旦区切ります。
後日何かまた続き的な(そうでもないような)ものを書けたら書いてみたいと思います。