Entry

ありがとうございます!!!

3時台と8時台(2連パチ!)と14時台(2連パチ!)に拍手を下さった方々ありがとうございます!!!
最近思うことがあります。
古典が苦手だと古典を原文で読むことは難しいけれど、古典の原文に親しんだり、それを楽しんだりすることは苦手でもできるのではないかということです。
どう違うのか、言葉で表現するのは難しいのですが(汗)
現代において、生きた古語(という表現もおかしいですが)に触れることはできません。
だから、私たちが知る古語は必ずその出典が存在します。
現代においても同じ言葉でも人によって意味が少しずつ違うように、古語にもきっと同じことがあったはずです。
現代ではその誤差をすり合わせていくことによってある程度の共通認識を持つことができますが、残っているものの少ない古語はそうはいかないでしょう。
しかしそれは逆に、今の言葉以上に、古語の一つ一つにより強い思いが宿っているといえるのではないかと思うのです。
古文を見ていると、その中のある言葉にすごく濃い色がついているように感じることがあります。
そういう言葉は大抵、他の文献でとても印象的だった言葉です。
その時の印象が、別の文献を見る時でも強く残っているのです。
「知っている言葉が出てくると楽しい」という感覚と似ているのですが、何か少し違うような気もします。
うまく言葉にできないのがもどかしいのですが、そういう色のついた言葉に出会うと、その文献が一気に身近に感じられるようになります。
文字の色は私の主観によるものです。
出典の作者の思いとは誤差があることは承知しています。
承知しつつ、それでも私が好きになった言葉を他の文献で見つけると「ああ、あなたも同じ気持ちを持ったんでしょうか。だからこの言葉を使ったのでしょうか」という気持ちを持ってしまうのです。
勝手な親近感がわいてしまうわけです。
現代の小説やエッセイを読んでいても絶対にこんな押し付けがましいことは思いません(笑)
古語だからこそ、つまりはその言葉の意味をストレートに受容することができないからこそ、少ない情報(イメージ)がより一層膨らんで結びつけてしまうのだろうと自分では思います。
そういうイメージが自分の中で増えていく過程がとても楽しいです。
こんな読み方をいたら主観だらけでどんどん歪んでいくかもしれません。
でも、そういう共通項ができていくたびに、当時の人たちの傍にいかせてもらえたような暖かさのようなものを感じるのです。

古典と友達になりたいです。
まだまだ遠いところにいるのですが、少しずつ近づいていきたいです。