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日向神話~海幸彦と山幸彦の仲違い~

海幸彦と山幸彦のお話です!
それではさっそく本文です!

(かれ)()照命(でりのみこと)は、(うみ)さち毘古(びこ)として、(はた)広物(ひろもの)(はた)()(もの)を取り、火遠理(ほをり)命は、(やま)さち毘古(びこ)として、毛のあら物・毛の柔物(にこもの)を取りき。

まず始めに人物紹介です!
<海幸彦とは>
火照(ほでり)命のことです。
ニニギ様とコノハナノサクヤ姫の第一子です。
海で漁をして幸を得ていたので海幸彦と呼ばれています。
<山幸彦とは>
火遠里(ほをり)命のことです。
ニニギ様とコノハナノサクヤ姫の第三子で、火照(ほでり)命の二人目の弟です。
山で狩りをして幸を得ていたので山幸彦と呼ばれています。

因みに第二子の火須勢理(ほすせり)命は話には登場しません。
日本書紀には名前すらない謎の存在です。

そして続いて用語解説!
(はた)広物(ひろもの)(はた)()(もの)・・・ヒレの広い魚や狭い魚
※ヒレの大きさは魚そのものの大きさにも比例します。つまり大きい魚や小さい魚という意味です
・毛のあら物・毛の柔物(にこもの)・・・毛の荒い(固い)獣や毛の柔らかい獣
※これも同様に毛が荒い(固い)獣は大きな獣(猪や熊など)で、柔らかい獣は小さい獣(兎やキツネなど)を表していると思います。つまりさまざまな獣という意味です。

対句のような表現ですね。
更に古事記の特徴として、「ものの全体を表現せずに一部のみを描写する」という特徴があります。
以前、スサノヲがクシナダ姫のために立てた宮を「垣根の立派な宮殿」という表現をしていたのを覚えておられますか?
垣根が立派な宮とは、もちろん垣根だけが立派なんてことはありませんよね。
垣根が立派な宮、その本命の宮の方はどれほど立派なことか。
古事記はそれを聞く・読む側にどうすればより内容が伝わりやすいか、とても細かな配慮(仕掛け)を行っていますね!

さて、本文ですが、兄弟は普段は海と山に分かれてそれぞれ漁と狩りをしていたようです。
そんなある日、弟の山幸彦が思いつきました。
山「兄さん!兄さん!おれいいこと思いついた!」

(しか)くして、火遠理(ほをり)命、その()()(でり)命に()はく、

(おのおの)さちを(あい)()へて(もち)ゐむと(おも)ふ」

といひて、()(たび)()へども、(ホデリは)許さず。
(しか)れども、(つひ)にわずかに(あい)()ふることを得たり。

山「兄さん、おれたちたまには獲物を交換してみたらどうだろう」
海「いやだよ。なんでおれが山に行かなきゃいけないんだ」
山「いいじゃないか、ちょっとだけ」
海「やだったら、やだ」
山「お願いお願い」
海「いいかげんしつこいぞ、おまえ」
山「一回だけでいいからさ、ね、ね、ね?」
海「あーもう!一回だけだからな!」

基本的にきょうだいは下には弱いものだよね!(そうじゃないきょうだいもあるかもしれませんが)
最初は渋っていた海幸彦でしたが、結局弟のおねだり(?)に屈してしぶしぶ交換してくれました。
兄から釣り針を借りた山幸彦は意気揚々と海へ向かいます。
山「よし!これで大物を釣りまくるぞ!」

(しか)くして、火遠理命、海さちを(もち)(うを)()るに、(かつ)て一つの(うを)も得ず。
また、その()を海に(うしな)ひき。

山「あ~あ、全然釣れないじゃん。しかも兄さんの釣り針もなくしちゃうし、最悪だな」
最悪なのはおまえだよ、このおバカ!というのは私の個人的な感情ですが。
それにしても人から借りたものを無くすなんて・・・。
山幸彦はちょっとおっちょこちょいすぎますね。

ここに、その()()(でり)命、その()()ひて()ひしく、

「山さちも(おの)がさちさち、海さちも己がさちさち。今は(おのおの)さちを(かへ)さむとおもふ」

といひし時に、その(おと)火遠理(ほをり)命の(こた)へて()ひしく、

(なむち)()は、(うを)()りしに、一つの魚も得ずして、(つひ)に海に(うしな)ひき」

といひき。

海「やっぱりおのおのの幸はおのおのの領分で得るべきだ。そろそろ元に戻そう」
山「ホントにそうだね。まったく兄さんの釣り針では小魚一匹釣れない上に、釣り針もどこかにいっちゃったし散々だよ」
海「・・・え?今、何て言った?」
山「だから、一匹も釣れなかったうえに釣り針もなくしちゃったんだよ
海「・・・な」

山幸彦さん、借りたものにケチを付けたあげくに堂々と「無くした」という神経はいったいどうなんだ、というツッコミはいれてもいいのでしょうか。
こうしてみると、古事記に出てくる神様や皇の方々は、なぜかツッコミどころがある方々がほとんどですね。
完全無欠のカリスマ的人物はどこを探しても見当たらないような気がします。(全体的に失礼)
人々の尊敬を集めるというよりは、人々により身近で同情や共感を得るような描かれ方が多いのは、ちょっと大事なことなんじゃないかと思っています。
ギリシャ神話に出てくる神様もちょっと間抜けだったり、ひどいことをしたり、泣いたり笑ったりが多いですよね。
神話ってどうして存在するのか。
少なくとも古事記神話を見ていると、完全に政治的に人々に天皇を賛美させるために作られたとは言い切れないという気がします。
それ以前の、もっと素朴な感性によって、神も自然も人も凄く垣根の低い場所で、英雄を尊敬するよりも友に共感するような気持ちが土台になっているように感じられます。

・・・話がそれました。
戻します。
さて、大事な釣り針をしぶしぶ弟に貸したら無くされてしまった海幸彦は、いったいどうするのか。

(しか)れども、その()(あなが)ちに()(はた)りき。
(かれ)、その(おと)御佩(みは)かせる()(つか)(つるぎ)(やぶ)り、五百(いほ)()を作り、(つぐな)へども、(ホデリは)取らず。
また、一千()()を作り、償へども、受けずして、()ひしく、

「なほ、その(まさ)しき(もと)()()むと(おも)ふ」

といひき。

山「・・・あ、あれ?兄さん?」
海「・・・・・・・・・」
山「え、えぇ…と、ご、ごめんね?」
海「・・・・・い」
山「え?何て言ったの?」
海「絶対許さない!さっさとおれの釣り針を持ってこい!」
山「えー・・・海で無くしたのに探してくるなんて無理に決まってるよ。仕方ないな、・・・ほら、おれの剣を砕いて針をこんなにたくさん作ってあげたよ。これで許してくれる?」
海「そんなクズ針で許せるわけあるか!」
山「じゃあもっとたくさん作ってあげたよ、ほら」
海「何度言わせるんだ!おれは絶対あの針じゃなきゃいやだ!絶対絶対おれの針を見つけてこい!」
山「えー・・・」

山幸彦は自業自得ですね。
海幸彦も頑なになってます。
どっちもどっち・・・とはいえ、若干海幸彦に同情してしまう私です(苦笑)
やっぱり自分が大事にしていたものを無くされてしまったらショックですよね。
しかもこの時代は前にも書いた「感染呪術」という考え方が信じられていた時代です。
「使ったものにはその人の魂が宿る」という考え方です。
古事記だけではなく、万葉集にもたくさん出てきます。
そうすると、海幸彦は自分の釣り針に愛着以上のものをもっていたとしても不思議ではありません。
そう簡単には諦めきれないのでしょう。
新しい釣り針を五百も千も持ってこられても、代わりにはならないというわけです。

さあ、窮地に追い込まれた山幸彦です。
いったい彼はどうするのか。
次回に続きます。