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万葉集の読めない歌(後編)

続きの前にお知らせです!
今日25日の新日本風土記は「神話の森 中国山地」がテーマです!

1300年前にまとめられた「古事記」をはじめ様々な神話の中で、多くの神々が活躍した中国山地。この地では、神と共に生きる暮らしが今も続いている。古代と現代とが交差する七つの物語。(公式サイトより引用)

なななななんと面白そうな話題なんだ!!!
これは見逃せません!
私の自宅はテレビが映らないので(地デジ対応しなかったため)、実家に早速録画を依頼しました。
私が見るのは来月以降になりそうですが、皆様はぜひライブでご覧ください!
BSプレミアムにてPM9時から1時間の放送です!

ちなみにこのページで予告動画を見ることができます。
「ここは全土が "ひのき舞台"」
この台詞に心臓が鷲掴みされること間違いなしです。


さて、それでは前回の続きです!

<万葉集の読めない歌が詠まれた背景>

○書き下し文(未完成)
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 我が背子(せこ)が い立たせりけむ 厳樫(いつかし)(もと)

この歌が詠まれた背景を調べてみました。
万葉集には、歌自体の他に「題詞」と呼ばれる歌の簡易的な説明が付けられている場合があります。
この歌の題詞はどのような内容かというと

紀伊()温泉()(いでま)す時に、額田王が作る歌

と書かれています。
これは日本書紀で「冬十月庚戌朔甲子 幸紀温泉」と書かれているものです。
書き下し文で書くと「冬十月(かむなづき)庚戌(かのえいぬ)(ついたち)甲子(きのえねのひ)に、紀の温泉()(いでま)す。」となります。
つまり「冬十月十五日、紀の湯に行幸された」ときに、この歌は詠まれたのではないかと思われるわけです。
以下、伊藤博さんの「萬葉集釋注一」のP.74から引用します。

題詞にいう、斉明女帝の紀伊の湯行幸は、斉明四年(658年)十月十五日から翌五年一月三日までの長い旅であった。
その間、十一月三~十一日に有間皇子の謀反事件があった。
留守官蘇我赤兄(あかえ)の手の者によって捕らえられて、紀伊の湯に連行された有間皇子は、中大兄皇子の訊問をうけてからの大和への帰途、紀伊の国の藤白坂で絞殺された。
齢十九。
この歌の上二句に定訓を得ないそもそもの原因は、ひょっとしたら、この事件に関係があるのではなかろうか。


ご存じない方のために「有間皇子」について簡単にご説明いたします。
ご存知の方は飛ばしてください。
「有間皇子」とは

有間皇子は、先代の大王「孝徳天皇」の息子です。
孝徳天皇は斉明天皇の同母の弟です。
つまり、有間皇子は先帝の息子で当時の天皇の甥でもあり、中大兄皇子の従兄弟でもある人物というわけです。
このあたりはかなり入り組んでいて非常にややこしい人間関係や思惑が渦巻いているわけですが、簡単に説明すると、中大兄皇子は自分が大王になるために邪魔になりそうな有間皇子をなんとか排除しようと画策していました。(※有間皇子の父であり先代の大王「孝徳天皇」は中大兄皇子と激しい対立関係にありましたが、このときにはすでに亡くなっています)
それを知っていた有間皇子は狂人を装ってその画策から何とか逃れていたのです。
しかし、斉明女帝が紀の湯行幸で中大兄皇子らがそれに付き従って都を留守にしているとき、留守を預かっていた蘇我赤兄が有間皇子に「天皇の政には三つの過ちがある」と天皇批判を語りました。
有間皇子はこれで蘇我赤兄は自分に好意を持ってこれを語ったのだと喜んで信じ「私の人生で初めて兵を用いる時が来た」と言いました。
しかし、これは罠だったのです。
蘇我赤兄はこの発言を以って有間皇子を「謀反の心あり」として捕らえ、紀伊に連行しました。
紀伊に向かう道中に有間皇子が詠んだとされる歌が万葉集に二首残されています。(※後年別の人物が有間皇子に仮託して詠んだ歌という説も有力)
・磐白の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む
(磐白の浜の松の枝を結んで、幸いにも無事に帰ってくることができたらまた見られるだろう)
・家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいたならば立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛る)
※どちらも旅の無事を祈る神事(松の枝を結ぶ・椎の葉に飯を盛ってお供えする)を表していると伊藤博さんは書いておられました。
こうして紀伊の湯に連れて行かれた有間皇子は中大兄皇子に訊問されます。
このときの台詞はあまりにも有名ですね。
有間皇子は中大兄皇子に何を聞かれても答えず、ただ一言
「天と赤兄と知る。吾れ(もは)()らず」
とのみ語ったと日本書紀には記されています。
有間皇子はここでいったん都に帰されることになりますが、その道中の藤白坂で中大兄皇子が放った刺客に襲われて殺されてしまいました。
その時わずか数えの19歳(満年齢なら18歳)の若さでした。
では、ここで再び伊藤博さんの「萬葉集釋注一」を引用します。

歌が有間皇子事件のあった折のものである以上、第三句の「我が背子」には、当の有間皇子を擬する道がありそうである。
有間皇子は、斉明女帝にとって同母弟孝徳天皇の子である。
古代では同母のきょうだいは、生母のもとで仲良く育てられる。
だから、異母きょうだいの結婚は認められるけれども、同母きょうだいの結婚は固く禁じられた。
そして、同母きょうだいの結束が、現代人の想像を絶して緊密であったことを示す資料は多い。
とりあえずは、天武天皇の子、大伯皇女と大津皇子を思うだけで充分であろう。
有間皇子は、斉明女帝にとってその同母弟の子である。
時の実権をにぎる中大兄皇子にとって、孝徳天皇やその子有間皇子がどういう存在であろうと、斉明女帝の心には、別途の、言い知れぬ感慨が秘められていたであろう。
そこで、この歌を、斉明女帝側近の御言持(みことも)ち歌人である額田王が、その女帝の心底を察し、女帝になりかわって詠んだ歌と見てはどうか。
そう推測すれば、この歌の「我が背子」は、斉明女帝の、弟や甥に対する複雑微妙な心情をこめた言葉として浮上する。
そして、結句にいう「厳橿」は、紀伊の湯から藤白坂に至る、有間皇子がたどった大和への道筋にあった霊木で、歌そのものは、斉明五年正月の還幸時にその霊木を見つつ詠まれたと推測できることになる。
「厳橿」に寄り立って、その霊力の感染を願い身の安全を祈ったけれども、かいなく終わった薄幸の皇子に思いを寄せることは、旅の歌の常として、同時に、通過する地の荒魂を慰撫してみずからの無事なる還幸を祈ることにもつながったと思われる。
まして、斉明女帝は、八番の熟田津の歌の左注が引く「類聚歌林」にいうように、また、七番の宇治の歌の深い回想の思いが示すように、過ぎ去った者への愛情を格別に強くいだく(さが)の持ち主であった。
伝来途上で入りまがう面もあったかもしれないが、一首の上二句は、本来斉明女帝とその側近たち数名にしかわからない謎の表記だったのではあるまいか。
以上の空想を前提に、旅の歌における「見る」ことの伝統を思いつつ、あえていうなら、古来の諸訓の中では、『万葉集注釈』の一案、

「静まりし 浦波見さけ」(静まった浦波をはるか遠くに見やって)

の訓に、最も心ひかれる。
歌人斉藤茂吉は、『万葉秀歌』の中で、「私は、下半の『吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本』に執着があるので、この歌を選ん」だと書いている。
たしかに、この下三句は、どこかしら荘重で、神秘で、強く人を魅了する味わいがある。
これが尋常な背景を持つ歌でないことだけはたしかであろう。


かなり長い引用になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
この伊藤博さんの説の通りに考えると、この歌は以下のようになります。

○書き下し文
静まりし 浦波見さけ 我が背子(せこ)が い立たせりけむ 厳樫(いつかし)(もと)

訳:静まった浦波をはるか遠くに見やって私の愛しい甥がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元よ。

たった19歳でこの世を去った甥がどんな気持ちでこの浦波を見晴るかしたのか。
聖なる橿の木は斉明女帝に教えてくれたでしょうか。

ここで上げている訓読は、実は「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」をそのまま読んだものではありません。
伝来途上に書き間違いがあったと仮定して「莫囂圓隣之大相七見謁爪氣」と書き換えています。
これで
シズマリシ  ウラナミミサケ
莫囂圓隣之 大相七見謁爪
となるそうです。
この訓読を行ったのは「澤瀉久孝」さんです。
伊藤博さんの恩師に当たる方です。
伊藤博さんは「愚者の賦」の中で澤瀉久孝さんを「六十年にわたる研究生活を"訓詁一筋"を以て生き抜かれた」と回想しておられました。
文字に対して誰よりも真摯に取り組む姿勢を持った方であり、だからこそこの書き換えは自分の都合に寄り安易に書き換えたのではないと信じられます。
また、この他「莫囂圓隣之 大相七」で「シズマリシ ウラナミサワケ」という訓も与えていらっしゃるそうです。
これだと訳はどうなるんでしょうか。
「静まっている浦波よ、音を立てて騒げ」とでもなるのでしょうか?(間違ってたらすみません・・・情報・訂正お待ちしております!)
後は他にも訓読しているものがあります。
鎌倉時代に書かれた万葉集の注釈書「仙覚抄」では「ユフツキノ アフギテトヒシ」と訓読されているそうです。
澤瀉さんと全然違うじゃないか・・・(唖然)
これは漢字仮名混じりだとどう書くんでしょうか。
素直に「夕月の 仰ぎて問ひし」と書くと、では訳は・・・「夕月をふり仰いで訪れた、きっと私の愛しい甥がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元」という感じでしょうか?
細かい助詞やら助動詞やらの知識に著しく自信が持てませんが、手元の辞書やら参考書やらをフル活用してみました。

いかがでしたでしょうか。
万葉集の未だ読むことができない歌を伊藤博さんの説を手がかりに迫ってみました。
手がかりというか、ほぼ引用ばっかりですが・・・!(スミマセン!)
万葉集に関しては古事記ほどは資料が手元に揃えられていないところもあり、かなり偏った内容になってしまいましたが、まだまだこれからもっとたくさん勉強したいと思っておりますので、今後ともぜひお付き合いよろしくお願いします!

万葉集の読めない歌(前編)

いえーい!
久しぶりに万葉集について語ります!万葉集大好きだー!!!

・・・日向神話も途中だというのに勝手にテンション上がっててスミマセン(^_^;)
この間Rieさまのブログで「磐田市香りの博物館」にて万葉集が特集されているという素晴らしい情報を拝見いたした。
私はちょっと遠いのでハンカチかみ締めながら心の中でエールを送るしかないわけですが、お近くの方はぜひご覧いただきたいです!(そしてよければその感想をぜひ教えてほしいです…!)
さて、その中の企画で先日20日に講演があり、「解読されていない万葉歌がある」という話題が出たと小耳に挟みました。
解読されてない万葉歌とはいったいどんな歌なのか。
僭越ながら、よりにもよって国語(特に古文)が苦手な私がその真相に迫ってみたいと思います!(無茶すんなー)

<解読されていない歌とは何なのか>

・万葉集の基本のキ!万葉集が書かれた時代はまだひらがなが無かったので、万葉歌は全部漢字で書かれています!

これはここで何度か書いたこともありますので、ここを読んでくださる方のほとんどがご存知のことと思います。
でも、それでは実際どんな漢字で書かれているのかを見たことのある方は、意外と少ないのではないでしょうか。
折角なので、超有名歌の原文とその書き下し文を載せてみましょう。

○原文
多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎

何だこれは・・・!?
大学時代第二外国語は中国語を選択していた私ですが、この漢字の並びにはまったく見覚えがありません。
それもそのはず。
これはほとんどが当て字で書かれているんです。
「よろしく」を「夜露死苦」と書くようなものです。
そうするとこの歌は・・・

○書き下し文
多摩川(たまかは)に さらす手作り さらさらに なにそこの児の ここだ(かな)しき
訳:多摩川に布をさらす…さらさら…さらにさらに、この子が愛しくなるよ

東歌の中でもとりわけ有名なこの歌でした!「愛しい」はスキンシップを想定した愛情表現でしたね!(重要な復習事項)

このように、万葉歌は漢字ばかりで書かれている歌なのです。
他にも「亦還見武」を「また帰り見む」と漢字の意味を酌んだ読みをしてみたり、「月西渡」を「月かたぶきぬ」と意訳調に読んでみたり(ただしこれは最近は「月西渡る」と読むという説もある)と、訓読は多岐にわたっております。
万葉歌は全部で4500首以上ありますが、それら一つ一つを後世の人たちが一生懸命訓読してくださったものが、現在私たちがよく目にする漢字仮名交じりの書き下し文になっている万葉歌なのです。
この話題だけで記事3つは消費しそうなほど非常に興味深い話題なのですが、今回は割愛します。
またいつか語ると思います。

で!
この約1000年の間人々が試行錯誤を繰り広げたにもかかわらず(万葉歌は平安中~後期には普通の人には読めなくなっていた)、未だになんと読むのか分らない歌があるわけで。
いよいよ本題の歌のお目見えです。
その歌とはどんな漢字で書かれているのかというと・・・

○原文
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

・・・!?(゜д゜;)
初っ端からさっぱり分りません。
どうすんだこれ・・・。
しかしこれ、実は下三句は訳されています。

○書き下し文(未完成)
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣、我が背子(せこ)が、い立たせりけむ、厳樫(いつかし)(もと)

訓読されている部分だけなら訳は「私の愛しい人がお立ちになったであろう、聖なる樫の木の根元よ」となるでしょうか。
厳樫の「厳」は厳島の「厳」と同じで、「聖なる」とか「神々しい」とかそんな意味合いです。
本当にそういう神々しい木というよりは、言葉の上で寿いでいるのだろうと思います。

さてこの歌なんですが、読めない上二句は、眺めているだけでは到底分らないだろうと思われます。
なので、この歌を読んだ歌人や、どういう状況で詠まれたのかという方を調べてみたいと思います。
まず、これを詠んだのはなんとあの有名な「額田王」です!
ちょっとびっくりしませんか?
額田王といえば万葉集の女流歌人の中でもおそらく最も有名な人物でしょう。
有名な歌がいくつもありますね。
天智天皇の妻ながらその弟の大海皇子から求愛された(ことになっている)歌や、時の天皇斉明女帝の代わりとなって大勢の軍勢を鼓舞する神がかった歌など。
そんな凄い人物の詠んだ歌で、今に至るまで後世の人は誰も読むことができない歌があったのです。
額田王が詠んだ「読めない歌」。
こんないわくつきの歌なら、もっと有名でもいいのでは・・・と思わずにはいられないのですが、残念ながら意外と知られていませんね。
私も万葉集を勉強し始めても暫く知りませんでした。
しかも調べてみたら、この歌が詠まれた背景はものすごく重大な事件と関わっているかもしれないということが分りました。

「有間皇子」

この名前にピンときた方、そうです!あの事件です!


さて、記事が長くなってきたのでここで一旦区切ります。
次回はこの歌が詠まれた背景を書いた後、それを踏まえて学者さんたちが上二句にどのような訓読をしているのかをご紹介します!
お暇がございましたらぜひお付き合いください!

伊勢神宮で石見神楽!

なんと、伊勢神宮で石見神楽が見られるそうです!

HP⇒【伊勢神宮】

6月2日(土)正午~

観覧無料です!
伊勢神宮にお参りされる方なら誰でも御覧いただけます!(申し込みなどもいりません)
演目は書いてなかったので分りませんが、大蛇だったらいいなぁ・・・とか思ってみたり。
でも大蛇以外の神楽も楽しいです。
「塵輪(じんりん)」なんて、途中から四連で舞ってるように見えてしょうがない。
大蛇以外ならこの「塵輪」が一番のお気に入りです。(大蛇は殿堂入りです)
後は「滝夜叉姫」や「四方剣」もかなり好きです。
「芝佐」は初めて観た時腹がよじれるほど笑いました。
いつか石見神楽の演目についても薄ら書いてみたいです。(日向神話や万葉集を先にいろいろ書くと思いますが)
伊勢神宮お近くの方は、是非!

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