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時代は東海だ!in愛知(勉強)

勉強結果をご報告します!
私が勝手に厳選した愛知の「ここだけは絶対外せないスポットin古代」ベスト3です!!

<愛知県と古代いろいろ>

1.熱田神宮(神話萌え的No.1)
神話好きで愛知に行くなら、ここに行かなきゃ嘘だ!と叫びたい、誰もがご存知ヤマトタケル命が置いていった三種の神器の一つ「草薙剣」がご神体とされている神社ですね。
ここは古代には「熱田神社」とか「熱田社」と呼ばれていたようです。
木々の茂る広大な境内、そして不老長寿の仙人の住む蓬莱山だとする信仰があり、人々が奉納した数多くの蓬莱鏡が宝物殿に陳列されているとのことです。
見にいかないとね!!(拳を握る)

・熱田神宮の蓬莱伝説
これは愛知の方にとっては有名なのでしょうか?
実は私は調べるまで知りませんでした(汗)
これに関連する記述はいろいろ残っているようですが、私が手元に持っている資料でもっとも注目したいのが「続日本後紀(しょくにほんこうき)」の平安時代初期にあたる承和十二(845)年の条に書かれている内容です。
あらすじは以下の通りです。
当時尾張には「尾張連浜主(おわりのむらじはまぬし)」という背中の曲がった老人がいました。
御歳なんと113歳。
その浜主がお正月に大極殿の前で自作の長寿の楽を舞うことになりました。
舞が始まると浜主は曲がっていた背をピンと伸ばして、まるで少年のように軽やかに舞ったのです。
人々は「近代にないことだ」と噂しあいました。

これについて、考古学者の森浩一先生は著書『「東海学」事始め』にて以下のように評しておられます。
浜主は伶人(楽人)として熱田社の祭祀にかかわっていたとみられ、百歳をこえた浜主の長寿の舞が熱田と蓬莱山を結びつける一つの原因だったのだろう。
人びとが浜主の姿に仙人を連想したとしても不思議ではなかろう。

不老不死や長寿は人類普遍で共通の願いですね。
この時代は特に死というものが身近であったことを考えても、この信仰は特に見逃せない気がします。

・尾張と草薙剣
草薙剣は皆様ご存知の通り、スサノオが出雲国でヤマタノオロチを切り伏せた時に、その尾から出てきたといわれるご神宝です。
スサノオはその剣を姉のアマテラスに献上し、アマテラスが孫のニニギが降臨する際に下賜しました。
文献によれば、もとは伊勢神宮で八咫鏡とともに祭られていたものが、ヤマトタケル命を介して尾張の地に定着したと語られています。
人代に下って再び草薙剣が正史に登場するシーンの一つに「日本書紀」の天智天皇七(668)年の事件があります。
あらすじは以下の通り。
天智天皇の御世に、僧の道行が草薙剣を盗んで新羅へ逃げようとしましたが、風雨で押し流されて失敗してしまいます。
取り返された草薙剣は尾張には戻されず、宮中で預かられることになりました。
代が変わって天武天皇の御世、朱鳥元(686)年、突然天皇が病に倒れました。
その原因は「草薙剣の呪い」とのこと。
そのため草薙剣は即日尾張の熱田社に送り置きました。

このことについても森浩一先生が触れておられます。
この事件では、尾張に草薙剣が本来あったことと、それを当然とする当時の常識が語られているのだとおもう。
(略)草薙剣は最後には熱田に定着しており、東海の力を示している。

大和豪族のご神宝である草薙剣と八咫鏡が二つとも大和に定着せずに東海に定着しているという点から考えても、当時の東海地域の豪族と大和豪族との繋がりの強さが感じられます。
上で出てきた天武天皇も幼少時(大海人皇子時代)を尾張で過ごしていたという点も含めて、東海は日本古代史を考える上では萌えざるを得ない素敵な土地だと思います!

2.あゆち潟(万葉萌え的No.1)
「愛知」の語源となったといわれる古代尾張の「あゆち潟」。
現在はすでに埋まっていて普通の地面になっていますが、当時においては象徴的な土地であったらしく、万葉集にその地名が残っています。
(歌)桜田(さくらた)へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 鶴(たづ)鳴き渡る
高市黒人(たけちのくろひと)
(歌意)桜田へ鶴(つる)が鳴き渡っている。年魚市潟(あゆちがた)の潮が引いたようだ。鶴が鳴き渡っている。

この歌碑が「名古屋市南区呼続町の桜八幡社」にあるとのことです。
余裕があればぜひ行ってみたいと思っています!!!
因みに高市黒人は万葉集の中でも人気歌人の一人です。
黒人が詠んだ歌の歌碑というだけで、万葉好きには堪らない気持ちにさせられます!
さらにもう一つ。
(歌)年魚市潟(あゆちがた) 潮干(しおひ)にけらし 知多の浦に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ
作者未詳。
(歌意)年魚市潟(あゆちがた)の潮が引いたようだ。知多の浦に朝漕ぐ舟も 沖に寄っているのが見える。

この歌碑は「名古屋市南区岩戸町の白毫寺」にあるようです。
上の歌碑も名古屋市南区だし、近いなら両方いけるでしょうか?

この他にも愛知県にはたくさんの万葉歌碑があるようです。
九州の筑紫に行った時は万葉歌碑めぐりマップをもらったのですが、愛知ではそういうものは配布しているんでしょうか?
あったらぜひ手に入れたいのですが・・・。

3.朝日遺跡(考古学萌え的No.1)
東海地方最大の弥生時代の大集落遺跡です!!!フォオオオオオオオオウ!!!!
こういう地域を代表するような大集落を考古学では特別に「拠点集落」と呼んで他の集落と区別してあつかいます。
なぜかというと、そいういう集落は「位置」「つくり」が非常に興味深いことが多いのです。
まず朝日遺跡の「位置」ですが、今の清須市清洲(旧・西春日井郡清洲町)にあります。
戦国時代好きの方ならこの地名にピンとくるかもしれませんね。
織田信長の「清洲城」があった土地です。
つまりこの朝日遺跡の大集落があった場所は、時代が移り変わっていっても長期間人々が重視していた土地であると見ることができます。
また、そんな重要な土地に置かれた集落の「つくり」ですが、これもまたスゴイです。
朝日遺跡の住居の周りにはなんと四重の濠があって逆茂木(さかもぎ)の杭列で防御してあったのです。
想像してみてください。
なんて物々しく壮観な眺めでしょうか。
朝日遺跡は古代においては東海で最も賑わった集落の一つだったと想像しています。
この土地で作られた「パレス式土器」はその非常に優美な彩色から同時代に栄えたクレタ文明のクノッソス宮殿から名前を付けられたそうです。
芸術面でも非常に優れた独自の文化が花開いていたのでしょう。
今はその色彩は色がはげてしまっているため、当時どのような彩色が施されていたのかは想像するしかないのが残念ですね。
森浩一先生によると、東海系の土器は非常に遠くまで運ばれる傾向にあったそうです。
北陸や関東が主だったようですが、それだけ広い土地に「割れやすくて持ち運びが難しい」はずの土器が分布しているという理由の一つは「水上交通が非常に発達していた」ということの証であると思います。
陸上交通ではこれだけ多くの土器は持ち運ぶのが至難の業です。
そういう点をみても古代愛知を語る上では、海や大河川という恵まれた地形は大きなポイントになるでしょう。

こんな感じです。
愛知の方には「もっと語るべきものがあるだろう!!」というツッコミの声が聞こえてきそうで非常に恐縮です。
特に名古屋(尾張)に偏った内容になってしまったのは反省点です。
追加情報など、全力でお待ちしております!(特に三河のお方!)
いよいよ明日出発します!
待っててね愛知県!!

時代は東海だ!in愛知(前置き)

「三種の神器ってあるでしょう。あれ、古代には『玉』がなくて二つだったことは有名なんですけどね、その『剣』と『鏡』が二つとも東海地域にある。これは大変なことなんですよ」
by森浩一(考古学者)

森先生のこの言葉を聞いてから、私の中でずっと東海地域への思いがふつふつと萌え滾っておりました・・・!
というわけで、ちょっと遅くなりましたが、愛知県の勉強成果(やっつけですが)をほんのりご報告したいと思います。

<愛知県基礎知識>
まず、愛知県民じゃなくても当然知っていることから書いてみます!

・県庁所在地は名古屋
金のしゃちほこ!名古屋城!当然知ってますね!
名古屋は日本の中でも屈指の大都市として有名です。
当然政令指定都市。
人口は約226万人だそうです。大阪市、横浜市に次いで、日本第3位の人口です!
ちなみに岡山市の人口は約100万人、鳥取県全体の人口は57万人です!

・自動車産業が盛ん
世界のTOYOTAを有する愛知県は日本で最も自動車産業の先進地域ですね!
最近若者の車離れが心配されているようですが、公共交通網が脆弱な鳥取県民としては車は社会人なら20代前半でも一人一台持ってて当たり前の状況ですので、車は非常に身近な存在です。
頑張れ、TOYOTA!

・愛知県のキャッチフレーズは「知を愛する県」
「愛を知る」ではないのか!という声が一部にありますが、公式には「知を愛する」が正しい!
愛・地球博の時に広まったキャッチフレーズですね。
二十歳前後くらいの方は知らない方もいらっしゃるかもしれません。
実は当時私がハマっていたジャンルのHPの管理人様が愛知県民の方で、これをかなり力説されていらっしゃったので今でも覚えています。
愛知県は「知を愛する県」ですよ!
インテリ好きの私にはたまらないキャッチフレーズです!


以上県外人から見た愛知の基礎中の基礎知識です。
まずは、愛知をわざわざ調べなくてもこれくらいはみんな知ってる、愛知県の大雑把なイメージという感じです。
なお、あえて歴史系は外してみました。
歴史を混ぜると私の好みで偏ってしまいますからね。

ではここからちょっと県外人にはマニアックな知識になります。


<愛知県民が県外人に紹介する愛知県>
糸村和奏さまが3月に鳥取県にいらっしゃった時、私がここぞとばかりにお伺いした愛知県知識を覚えている限りご披露いたします!
東海に疎い鳥取県民に、愛知県民和奏さまが優しく教えて下さったお国紹介を、とくとご覧ください!

・愛知は山がない
広大な濃尾平野が広がっていることは小学生でも知っているわけですが、名前では知っていても実際の景観となると話が違ったりします。
そうですよね、平野が広いなら山はないですよね!
和奏さまが鳥取や島根の景色をご覧になって「山が迫ってくるようです!山が近いです!」と何度も仰っておられたのをよく覚えています。
私としては山が迫ってくるといったらもっと山のふもとあたりまで来ないとそんな気分になりませんが、和奏さまは山を見かけるたびにそう仰っておられたので、ここからも濃尾平野がいかに広大な平野であるか察することができますね。
※注意※訂正のご連絡を頂いたので追記いたします。
「山」と名のつくものが0という意味ではありません。
正確には、山と海が遠く隔たっている地域が多いという意味です。
逆に、山陰が山と海が非常に近い地形という特徴があるといえるかもしれないですね。
どうしても自分が住んでいる地域を基準に考えがちになってしまうので、こんなミスをしてしまいます。
不快な思いをさせてしまった方がいらっしゃったら本当にごめんなさい・・・。

・愛知は三つの地域に分かれている
それぞれ「尾張地方」「西三河地方」「東三河地方」となるそうです。
鳥取県も「因幡地方」「東伯耆地方」「西伯耆地方」と三つに分かれてそれぞれ文化や言葉が違うのですが、愛知でもそうなんですね(親近感)
こういうのは地元の方じゃないと分からないことなので、お伺いできるのは凄く助かります。
愛知を調べる場合は、この三つの地域を基本に調べると良さそうですね!
ちなみに名古屋はこの中では「尾張地方」に属するとのことですが、この名古屋では「おもてなし武将隊」というイケメンが武将の格好をしておもてなししてくれるグループがあるという和奏さま情報!
尾張は古代も熱いですが、やはり有名なのは中世戦国時代の武将の出身地ということですよね!
「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康(三河ですが)」などなど、戦国時代好きの方にはたまらない企画ですね!

・鬼まんじゅう
サツマイモを使った豪快なおまんじゅうです!
私が年始からずっと箱詰めのサツマイモを食べ続けていたという記事をご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、私はイモが好きなんです!
イモが、大好きなんです!(言ってやった!)
というわけで、名古屋に行ったらこれをお土産に買って帰る予定です。(重要事項)

・名古屋は地下鉄が超!整備されている
「名古屋人はアリンコって言われるくらい、地下鉄がどこでも走っているんですよ」とは和奏さまのお言葉。
すごいですね!
鳥取県は地下鉄どころか、電車すら走ってないのにね!(雪が多いので雪に弱い電車は使えないため)
鳥取県では未だに国鉄時代のオレンジの車体の汽車が現役ですよ!
以前鉄子(=鉄道好きの女子)の友達と東京上野の鉄道博物館で「数世代前の車体」として展示されているやつを見た時は、何とも言えない気持ちになりました。

・名古屋以外は、意外と田舎の地域もある。
これは嘘だね!
いくらなんでも愛知が田舎なんて間違いなく謙遜ですよ!
田舎というのは、ただ見渡す限り田んぼや畑の地域があるというだけではないんです。
田舎というのはまず、夢の超特急は走ってない。(走る予定も未来永劫ない)
愛知は新幹線走ってるもの!知ってるのよ!(何キャラか)
あと、毎年減っていく人口。
私の高校時代はまだ県民は60万人いたんですが、気付いたら60万を切ってました(現在57万人)。
高校時代の同級生はほぼ全員県外に出ていきました。
県内に残ってるのは私ともう一人くらいです。

・お金にはシビア
「普段は節約するけど、冠婚葬祭にはきっちり出す性格」とのことです!
素晴らしいですね!
私は和奏さまたちの爪の垢を貰って神棚にお供えすべきかもしれない!(いつも使い過ぎて月末悲鳴を上げている)
金のしゃちほこのイメージではもっとどばっと出してしまうようなイメージでしたが、やはり見せるべきものを見せるために、普段からきちんと節約しているのですね!


こんな感じでしょうか。
本当はもっといろいろ語っていただいたような気がするのですが、私の記憶力ではこれが限界でした・・・(スミマセン・・・)
とりあえず、前置きはこのくらいで。
次は拍手コメントへのご返信を挟んで、愛知県についていろいろ調べて知った内容をご報告します!

弥生時代の風景

5月29日に鳥取県の妻木晩田遺跡にいって、考古学講座を聴講してきました!
凄くすごく楽しかったです!

今年度の妻木晩田遺跡考古学講座は年間通じて「むきばんだの景観を考える」を共通テーマに全5回行われるそうです。
「景観=ムラの姿+自然環境」とのご説明でした。
これを聞いて物凄く興奮しましたよ!
なんせ私が一番興味のあることですから!
弥生時代の人々はどんな景色の中で、どんなことをしながら、何を考えて生きていたのか。
もちろん個人個人や弥生時代の中でも時期によって大きく違いがあることですが、大まかに迫ることくらいなら出来るのではないかと常日頃から思っています。

で。
今年度第一回の講座は

「妻木晩田遺跡の植生環境と弥生時代の植物利用」

というタイトルで行われました。
内容は大まかに

1. 過去の植生環境を知るには?
⇒遠い遠い遥かな昔を私たちが垣間見る魔法

2. 弥生人の植物利用
⇒弥生時代の人たちが傍らに置いていたモノ達

3. 妻木晩田遺跡周辺の植生環境
⇒妻木晩田のムラの人たちが愛した風景

夢見がちな副題は私が勝手につけました(笑)
歴史やってくには夢(ロマン)が大事なんですよ!(言い訳という名の照れ隠し)

ではではまず1.から見てみます。
当時は今のようなコンクリートやアスファルトは当然ながらありません。
弥生時代は今よりもずっとずっと自然の近くでそれを利用しながら(=依存しながら)生きていたのです。
よって、弥生時代の風景を知るにはまず、当時生えていた植物を調べることになります。
でも二千年も昔に生えていた植物をどうやって調べるの?
そもそもそんなこと本当に出来るの?
と、思う方もいらっしゃると思います。
結論から言うと、出来ます!
その方法をご紹介。
主に以下のようなプロセスを踏みます。

① 発掘調査
 ⇒土器や木器、建物の部品などの大物を掘り出す
② 地質調査
 ⇒地下数十メートルの深さの土を取り出して花粉や種子
などの微小な物を取り出す
③ 化学分析
 ⇒①②で得られたものを科学的に分析する

な、なるほどねー!
これまで他の講座ではこのあたりで出てきた花粉がどうの使われてた建築部材のスギがどうのみたいな話が突然出てきていましたが、このような段階を踏んで得られたものだったんですね!納得!
講座ではこれらの方法についてそれぞれ細かく説明してくださいましたが、専門的な話なのにとても分かりやすくて(分かったつもりになっているだけなんですが^^;)面白かったです!

では次。
1.の方法で2.の弥生人がどんな植物を利用して生活していたのかが分かりましたのでご紹介。
当時の植物の利用方法としては大きく分けて2種類です。

① 生活資材
 ⇒木器(食器、農具、狩りの道具など)、建築材、土木材、燃料、染料
② 食料
 ⇒自生植物(採集)、栽培植物(農耕)

これも講座ではそれぞれ詳しくこの道具にはこれ、この建築部材にはこれ、みたいなものを詳しくご紹介いただきましたが、いやー、驚くほど豊富な種類がありました!
しかもそれを用途によって細かく使い分けているんですよね。
ちょっとご紹介すると
<建築材>
⇒シイ、クリ、ケヤキ、スギ(堅く重い、湿気に強い)
<農工具>
鋤、鍬⇒カシ(堅く非常に重い)
木包丁⇒ケヤキ(堅く非常に重い)
斧の柄⇒サカキ(堅く緻密)
槌、鎌、匙(さじ)⇒ヤブツバキ(堅く緻密)
高杯、椀⇒クワ(堅く重い、木目が美しい)
曲物の底板、蓋(ふた)⇒ホオノキ(柔らかい)
<武器>
楯(たて)⇒モミ(白色で美しい、適度な堅さ)
弓⇒カヤ(緻密で弾力性がある)



などなど
・・・いやぁ。
覚えられない(爆)
それぞれの道具で使う材料が違うのが凄いです。
重なってるの殆ど無いし。
弥生時代の人々は本当に自然に対して豊富な知識と知恵をもっていて、それを生かしながら生活してたんですね。
この他、木の皮で編んだかごの写真も紹介していただきましたが、かなり高い完成度のカゴでした。
絶対千種レベルで手先の器用な人じゃないと作れないと思います。
凄すぎるぜ弥生時代の人・・・。
当時はカゴつくり名人とかいたのかなぁ・・・。
木包丁つくり名人とか。

※※妄想※※
<パターンA>
男「おい、昨日木包丁作ったけど、作りすぎちまったから欲しいなら一つやるよ」
女「え、本当!?(←不器用)ありがとう!」
男「(照れ)・・・お、おぅ」(←実は片思い)

とか

<パターンB>
女「ね、ねぇ。カゴがうまく作れないの。その・・・だから、また作り方を教えてもらえないかしら」(←実は片思い)
男「またか。まったくおまえはいつまで経っても下手くそだな。・・・ほら、貸してみよろ」(←まんざらでもない)
女「ありがとう!」

とかね!(止まらない妄想)

まぁ私の妄想はどうてもいいとして、妻木晩田遺跡は全体的に広葉樹が多かったようです。
針葉樹はマツが目立つくらい。
実はこれ、現在の妻木晩田遺跡の自然とかなり近いようです。
つまり、あの遺跡の景色は弥生時代の人々が見ていた景色と同じ(かもしれない)わけですよ!
そう考えると遺跡を見る目が変わるではないですか!
今までは復元建築物や四隅突出型墳丘墓なんかの遺構を主に見ていましたが、これからは周りの木々も萌え対象というわけですね!大興奮!イエア!

では最後!3.妻木晩田遺跡周辺の植生環境とは!?
レジメをそのまま転記させていただきます。
<特徴>
居住域外の森林部は、アカガシ亜属、コナラ亜属等の広葉樹を含むアカマツ林(マツ属)。林床部にササ類。
居住域縁辺の林縁には、カラスザンショウ、アカメガシワ等の先駆種。
居住域内は、明るい乾燥した草地で、キク亜科、イネ科、タンポポ亜科、ヨモギ属、ササ類等。

⇒ある程度伐採され二次林化した森、先駆種が生える林縁部、切り開かれた明るい居住区、の3つを推定
⇒激しい体積や浸食など荒地で人為的なとち改変が推定


弥生時代は今とは比べ物にならないくらい森林(木材)に依存して生きていました。
よって、木々は伐採され、森は今よりももっとまばらで、かなり明るくなっていたことが推定されるそうです。
弥生時代は花粉の残りも悪いらしく、明るくなった結果、花粉が紫外線で消滅したのではないかとのことでした。
なるほどー!
講座では<縄文時代><弥生時代><古墳時代~中世><近世~現代>がそれぞれ当時の様子を描いたイラストで説明されていてとても分かりやすかったです!
やっぱり文字で説明されるよりも、目で見るほうがよほど分かりやすいですね!
というわけで、撮影した写真を掲載させていただきます。
写りが極端に悪い上に斜めっててスミマセン(汗)
全部私の席位置と腕の問題です。


<縄文時代>

※噴出し内は「カシ類やコナラなどの木が多い森」と書かれています。
また、この時代の地層からは何千もの落とし穴が見つかっているそうです。
ということは、縄文時代のこの場所は、人間ではなく動物などが多く暮らす深い森だったということなのでしょうか。

<弥生時代>

※噴出し内は「居住域周辺 クリ、コナラ、アカマツなどの林、林床にはササ類」「居住域内 タンポポやヨモギなどの草地」と書かれています。

<古墳時代~中世>

※噴出し内は「コナラやカシ、アカマツなどが生える林」と書かれています。

<近世~現代>

※噴出し内は「アカマツ林、畑などに利用されていた」と書かれています。

やっぱり目に見えるのっていいですねー!
一気に当時の情景に心が飛んでしまいます。
もうホントにホントに楽しかったです!
私の説明は大変下手で分かりにくいかと思いますが、講座自体は凄く分かりやすくて楽しかったんですよ!本当です!
上の内容はかなり省略しています。
実際はもっとたくさんご説明いただきました。
・・・いつも説明が下手でスミマセン・・・。
きっと私のつまらない文章をここまで読んでくださった方はいらっしゃらないと思いますが、もし万が一いらっしゃった場合は本当にありがとうございました&お疲れ様でした!

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