額田王と大海人皇子の例の恋歌について語ります!
前提
額田王は他の大勢の人たちと共に、薬狩りにやってきていました。
その晩の宴の席にて、みんなの前で歌を詠みました。
当時から歌の名手として知られていた額田王の歌に、きっと宴の人たちは大いに期待しながら耳を澄ましたことでしょう。
あの、有名な額田王が、今日のみんなの楽しかった思い出を、どんな美しい歌にして聞かせてくれるのか・・・
それでは、読んでいきましょう。
まず、下の記事で歌の訳を載せていますが、ここでは一旦その訳を忘れてください。
なんだって!?
とりあえず、歌を読んでみてください。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや・・・
どうでしょう。
きっと違和感がありますね。
いいのです。
とりあえずこのまま訳してみましょう。
訳
あかね色に匂う紫の草の生いしげる標野をあちこち行き来している。野守が見るかもしれません・・・
何を!?
・・・と、宴の席の人たちは思ったと思いませんか?
私はこれが言いたかった!
つまり、この歌は最後の「君が袖振る」がなければ、恋の歌ではないのではないかということです!
「君が袖振る」によって、一気に恋の歌になっているのです!
当時の状況を想像してみましょう。
当然ですが、宴の席に集まっていた人たちはどんな歌が詠まれるのか事前に知っていたわけはありません。
額田王が一句ずつ声に出す度に、その景色を各々で胸に描きながら聞いていたはずです。
あかねさす・・・
「あかねさす」は「日」「火」などの明るい色を導く枕詞です。
聞いた人たちは明るい昼の記憶を脳裏に思い描いたでしょう。
紫野行き 標野行き・・・
「行き」が二回繰り返されます。
色とりどりの衣装をまとった大勢の人たちが、あちらへ行き、こちらへ行きしつつ楽しんでいる和やかで美しい風景が浮かび上がります。
さすがは額田王です。
みんなの楽しい思い出をまるで映画のワンシーンのように美しく歌い上げています。
彼女がこの一日の楽しい思い出をどんなふうにまとめ上げてくれるのか、みんな期待が高まります。
ここまでは、聞いた人たちも「うんうん」と思いながら昼の光景を思い出しているはずです。
みんなが知っている風景です。
さて、次です。
野守は見ずや・・・
「・・・うん?」
聞いていた人たちは、ここで一瞬虚を突かれます。
野守(のもり)は薬狩りの主要な登場人物ではありません。
「標野(しめの)」という天皇の御領地へ、関係無い者が入ってこないように見張っている番人です。
薬狩りに参加していた人たちはおそらく誰も見ていないか、見ても風景の一部として気に留めていなかったはず。
そんな脇役のはずの野守を、額田王は登場させました。
これがとても巧い!と思うのです。
この直前までは、きっと聞いている人たちはそれぞれバラバラの昼の記憶を思い出していたでしょう。
それが、この「野守」が突然登場したことで、みんなの関心が一気に集中します。
「野守」はいったい何を見ていたと思いますか?
・豪華絢爛な薬狩りの風景
・高貴な方々の優雅なしぐさ
・天皇の徳がもたらした美しく晴れ渡った空
・その他
どれでも歌としては整合性はある気がしませんか?
その歌が名歌といえるかどうかは置いといて、考えてみてください。
悪くはない、気がする。
しかし、額田王が野守に見せたのは、誰もが予想もしない光景でした。
君が袖振る・・・
「君が袖振る」ですよ・・・!?(落ち着いて)
袖を振るのは、恋しい人に送る合図!
この言葉が発された瞬間、宴は一瞬の静寂に包まれ、次いで一気に「わあああああ」と盛り上がったのではないでしょうか。
私はそれを想像してとても胸が熱くなりました。
額田王は、天才だ・・・!
いろいろな本を読んでいると、その訳のほとんどが、「最初から恋歌として訳している」んですよ。
だから私もこの歌を読む時、頭から恋歌として解釈していたんです。
もう一度、永井さんの訳を載せてみますね。
あかね色に匂う紫の草の生いしげる標野をあちこち行き来なさりながら、あなたは盛んに袖を振っていらっしゃる。まあ、そんなことをなさって、野の番人に見つけられませんか。
悪いわけじゃない。
むしろとてもわかり易くて素敵な訳です。
でもこの訳だと、最初から恋の歌になっていて、宴の席であったであろう、大どんでん返しのようなスリリングな雰囲気がない。
私はあえて主張したい。
この歌は、最後の「君が袖振る」で一気に恋歌に変貌するのだと!
実は、こんな読み方をしている本は一冊もありません(少なくとも私は読んだことが無い)
なので、たぶんとても邪道な解釈なんだと思います。
もしかしたら、いや、たぶん間違っている・・・。
でも、私はこの思いつきで、それまで食傷気味だったこの歌が一気に好きになったのです!
完全に手前味噌で恐縮ですが・・・
すでに十分知っていると思えることでも、見方を変えると新たな姿に出会うことができるかもしれないという可能性を教えてくれた歌でした。
さて、あとは蛇足かもしれませんが、これに応えた大海人皇子の歌も同じように見てみてください。
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに・・・
紫草のように匂やかな愛しい人。あなたを憎く思うだろうか、人妻ゆえに・・・
大海人皇子は何と返すのか?
宴の席の人たちはどんなふうに期待したでしょう。
人妻ゆえに
・私はあなたへの想いを諦めざるを得なくて苦しいです
・あなたに振った袖は私の涙で濡れています
・あなたの幸せを思って身を引きます
大海人皇子の性格を考えたらありえないことかもしれませんが(想像上の性格しか知りませんがたぶん)、こんな締めの句でも、歌としては違和感はないはず。
でも、大海人皇子は
我恋ひめやも・・・
(却って一層)私は恋しいのだよ
と、返すのです!
ここでも宴は大盛り上がりになったことでしょう。
二首とも最後の一句で歌の価値を一気に押し上げているように思います。
万葉時代について過去に語った記事で、「文字ではなく、音が重要だった時代」というようなことを自分に言い聞かせるように何度も書いていた気がします。
それを思い出しながら、今後もこの時代の空に想像の翼を広げ続けていきたいと思います。
ここまでお読みくださった方がおられましたら、本当にありがとうございました!
それではまた、別の記事にてお会いしましょう。