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三角縁神獣鏡

薄紅ネタばっかりだと私が物凄くイタイ人としか見えないのではないかとはたと気づいた今日この頃。(もう遅い)
多少自重してみます。(今更)

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は古代史好きなら確実に引っかかるアイテムですね。
昔はこの鏡は邪馬台国の卑弥呼が中国(当時は魏)から貰ったものだと言われていた物ですが、今ではいろいろな意見が出てきています。
とりあえず私の中で整理しておきたいことは、以下の通り。

・三角縁神獣鏡というのは考古学用語で、当時の人はそんな名前では呼んでません。
・魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)にはただ「銅鏡」としか書かれていません。
・つまりこれが本当に卑弥呼が貰った鏡かどうかは分かりません。
・また、この鏡の出土場所は主に古墳(つまりお墓の副葬品)です。
・魏という国から邪馬台国という国(?)に賜ったものを、果たして墓(個人)に与えるだろうかということには疑問が残ります。
・魏は当時の大国で、魏に認められることは国として認められる上で最も強い根拠となるものだったはず。
・その証たる宝物は、本来ならそれこそヤマト王国の三種の神器のように、国の宝として後世まで伝えていこうとするのが自然では?
・そもそもこの三角縁神獣鏡の同范鏡は、日本では大量に見つかっているけど、肝心の中国では1枚も見つかっていません。

と、いうわけで、私個人としては結構否定的に考えています。
しかしそうはいってもこの三角縁神獣鏡はいろいろなロマンがある鏡です。
だいたい中国から貰ったものであろうとなかろうと、価値が変わるものではないのです。
変わるのはあくまで解釈です。
それによって価値を見出す人の種類や気持ちが変わることはありますが。
古代に作られた鏡は今の鏡とは違い、姿を見るためだけでなく、色々な呪術的な意味合いもありました。
お墓に一緒に収められていたということは、祭司的な観点から見ることも出来るでしょう。
もちろん私は全くの素人なのでいろいろな学者先生方の意見を拝見してわくわくによによするだけでしかないのですが、それでも本当に楽しいのですよ!

今回の話はいつも以上に何の結論もないですね。
いやはや。

複雑

薄紅の時代考証にはそこまで拘ってないつもりなのです(なんせファンタジーですから!)が、普段読んだり見かけたりする歴史物の創作作品については、実は少し思うところもあります。
例えば薄紅でも出てきますが、皇族や臣下が『怨霊』となって怪異を引き起こすというテーマはよくあるものです。
その中で怨霊が自ら名乗りを上げるシーンで「我は第◎代天皇△△である(ex.我は第七十五代天皇崇徳である)」と言っていることがたまにあります。
私はこの瞬間「・・・あ」と思って凄く冷めてしまうんですが、それはなんとも心が狭いなぁとちょっと自己嫌悪になるんですよね。・・・あー・・・いや、でもやっぱり、うーーん・・・ああああぁぁぁぁ(煩い)。
漢風諡号を名乗るのはまだ分かるのですが(いやでも死後につけられた名前を名乗るのは怨霊の感情的にどうなのかとは思いますが)、「第◎代」と名乗るのはかなりおかしい。
この「第◎代」というのは明治時代以降に確定したものなので、陰陽師なんかが活躍する平安時代には当然存在しません。
せいぜい「先の帝」とか生前の業績や両親・兄弟や子どもの名前(◎◎が兄~なりとか)などなどで名乗るのが適しているのでは?と思ってしまってそこから話に入っていけなくなってしまいます。
気にしすぎとは思うのですが、でもやっぱり知ってる人は知ってると思うんですよね、うん。
よりにもよって大きな見せ場のはずのシーンで時代考証無視というのはどうなのか。
ちょっとした言葉遣いやカタカナ言葉くらいなら気にせず読めるんですけどね・・・。(平安時代を扱った少年漫画で「ストレス」とか「プレッシャー」とか出てきたことがありましたが普通に読み流せました。この辺は現代語に翻訳されていると思えば殆ど気になりません)

でもこんな細かいこと気にしてストーリーの大きな流れとか大事なテーマとかまで見ることが出来なくなってしまう自分はホントに馬鹿だなぁとか頭固いなぁとか凄くしょんぼりします。
もっと、こう、色々表面上ではなく中身を見ることの出来る人間になりたい!

欠史八代

初代神武天皇から後の二代目~九代目までの天皇は、やったことが書かれていない(名前しか分からない)天皇で、あわせて「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれている人たちなんですが、この人たちの扱いがちょっとだけ気になっている今日この頃。
やはりオタク的に事実が分からないものは妄想しがいがあるわけなので、気にしないわけにはいかない。
しかし、読む本読む本かならずこの「欠史八代」は「天皇家の歴史を出来るだけ長くするために挿入されただけのでっち上げ(かなり要約)」といわれることが殆どです。
確かに初代神武天皇からして神話的要素が強いお方なので創作された臭はかなりするわけですが、だからといって、適当に(というと語弊がありますが)名前をでっち上げただけの天皇、というのはあまりにも残念な気持ちになるわけです。・・・もちろん気持ちだけではどうすることもできないものですが。
出来ればですね、「事績がない」=「事績を残すことが出来ない理由があった」みたいな視点からの論を張ってくれる人が出てきてくれないかとちょっと思っています。(超・他力本願!)
それに、天皇という存在を安易に(かどうかは定かではないですが)でっち上げるなんて事が感情的に出来たのかどうか。
ただ歴史を長くするためだけに人数合わせのでっち上げをする相手にしては、天皇というのはちょっと気持ち的に憚りがあったりはしないのか。
神話のように、長く多くの人々に語り継がれてきたフィクションと、自分たちの都合によって作られたフィクションを同じ歴史書の中にいれるというのは本当に簡単に出来ることなのか。
おそらく誇りを持って編纂したと思われる歴史書へ、もしかすると冒涜になるかもしれないようなことが本当に出来たのか。
大体創作するなら事績を載せないなんて事をせずに、事績も創作してしまったほうが自然だし、そのほうがより強固で説得力のある系譜になるはずではないかと思います。
・・・ホントに何の根拠もないんですが、出来れば「欠史八代」にも何かしらの裏づけとか根拠みたいなものがあって欲しいなぁと思っています。

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