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天の御巣の如くして

古事記の国譲り神話の最後に、二人の子が国を譲ると言ったことで、ようやく大国主が承諾の意を伝えるわけですが、その際の記述で最近気になっている点があります。

「僕やつかれが住所すみかのみは、(略)天の御巣みすの如くして、(略)僕は、(略)隠りて侍らむ」

「私の住処を高天原の神が住まうような立派なものにしてくれれば、私はそこに隠居してますよ」

となっている箇所です。
言うまでもなく出雲大社の起源説話なわけですが、当然事実じゃないことです。
そして、出雲大社の起源や建立時期については、講演などでよく話題にはなっていますが、その際に必ず出てくるのは上記の古事記神話。
私はこれについて最近ちょっと考えていることがあります。
「古事記を読みなおす」にも触れられていましたが、そもそも遡れば縄文時代辺りから、巨大建築物への信仰のようなものが日本列島には確かに存在していたと思います(古事記を読みなおすP.88「巨木を建てるという文化的な特徴」)。
青森の三内丸山遺跡の6本柱建物などはその好例かもしれません。(因みにこの復元を実際に見に行きましたが、本当に大きくて迫力があります!興奮しました!!)
「古事記を読みなおす」ではこれは日本海文化圏の特徴と書いてあります。
三内丸山遺跡も集落が繁栄していた当時は港が近くにあったらしいので、海上交通の列島最北端であり文化の終着点および発信源でもあったのではと個人的には思っています。
話がずれました。
で、出雲大社ですが。
私の個人的意見として、そもそも出雲大社はヤマトが出雲を征服する以前からあったものであり(巨大建築物は縄文の時代から受け継がれていた)、それを古事記では「天の御巣みすの如くして」と書くことによって、あたかも「高天原には出雲大社のような大きくて立派な建物がある」とか「天津神にはこのような大きな建物を建てる技術がある」と読者に思わせるために利用しているのではないかと。
・・・ちょっと出雲贔屓な視点の論になっている自覚はあるのですが、何となく最近思うようになってきてしまって、どうにも自分の中でふつふつと煮え立っている状態です。
学者先生方と違って、これを証明するための材料もノウハウもないのですが、何となくこうだったらいいなぁ・・・みたいな気持ちです。
どうなんですかねぇ。
まぁ、これも一つの案(たわごと)ということで!

タケミナカタについて

今まで出雲神話や古事記神話に関する色々な本を読んできて(といっても大した量でもないですが)、タケミナカタに関する見解は「元は諏訪の辺りで祭られていた土着の神」ということで一致しているようなのですが、では何故タケミナカタが出雲神話に関わることになったのかという問いに対しては色々な意見があるようです。

1 出雲の神(=大国主)を直接負かすことは出雲の民が納得しないので無関係の遠くの神を持ってきた
2 古代の出雲の概念には諏訪の辺りまで含まれていた
3 当時の出雲と交流があった古志(越)国の近隣である諏訪が関わることは自然なことだった(ex.越国のヌナカワヒメは大国主の妻の一人でタケミナカタの母説あり←「古事記を読みなおす」より)
4 タケミナカタの話は後世に挿入されたもので、元は出雲の神だけの話だった

などなど。
うーん…色んな考え方がありますな。
私としては2の説が大変ロマンを掻き立てられるので一押しなわけですが、もちろんそんな理由では決定できないことです。
また、今後新説が出てくる可能性もあるのでそこも期待してます!

間違えてたー!!

昨日記事で書いた講演の場所を間違えていました!!
正確には「島根県民会館大会議室(3F)」でした・・・。
間違えたため20分遅刻(30分余裕を持って出ていたのでこのくらいの遅刻で済みました)で後ろからこっそり入らせていただきました。
とはいえ始めの部分は概説だったので結構聞き流していられて一安心。
そして終わりの20分がかなり面白かったです。
まず、出雲国風土記が二回作られた(一回作ってもう一回作り直した)説があるなんて知りませんでした!!
そうだったんだ!
確かに他の国の風土記と違ってかなり地元視点の風土記になってますよね。
作り直していたとしたら納得のクオリティーと思いました。
・・・まぁ証拠がないので確かなこととは言い難いですが、中々気になる説です。
風土記製作指令(笑)が出されて(713年)から、完成までに20年も掛かってますし(733年)、この間に何があったか妄想するのは大変楽しいですね。
それから、他国の風土記の成立年予測について。
出雲国風土記以外の現存する風土記4つは成立年については分かっていませんが、各々の「天皇」の扱いについて注目するとある程度絞ることが出来るのではないかとのことです。
現在の天皇が確定しているのは、古代に関してはそもそも日本書紀が元になっているわけですが、常陸国風土記には日本書紀には天皇とされていない「倭武天皇(=ヤマトタケル命)」と「息長帯比売天皇(おきながたらしひめのすめらのみこと=神功皇后)」の記載があり(さらにヤマトタケル命の妃の一人の弟橘姫に使われている敬語は皇后に使われる敬語になっている)、播磨国風土記では「聖徳天皇(=聖徳太子)」の記載があるそうです。
風土記はあくまでも公文書であり、国に正式に提出するものなので、間違いがあった場合は受理されないはず。
と、いうことは、常陸国風土記と播磨国風土記はまだ天皇が確定していない(=日本書紀が出来ていない)713~719年の間に作られたのではないだろうか?
そして、それぞれが天皇かそうでないかを明確に分けて記載している肥前国風土記と豊後国風土記は721年以降(=日本書紀が編纂されて以降=間違った記載では受理されない時代)に成立したと考えられるという説があるそうです。
これは中々信憑性があるような気がしますね!面白い!(有名な説だったらすみません、勉強不足でした)

この他にも色々と興味深い説がたくさん紹介されていて大変面白かったです。
また行きたいですね!

さて、ちょっと早いですが今週日曜の更新をしてしまいます。
今回は無題ものを3つ。
質より量ということで(痛)
無題ものは気ままで書きやすいのでつい色々と書いてしまいます。
もっとちゃんと話を練る才能と気力が欲しいなぁ!(無茶)

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