大阪旅行実況
- 2011/05/15 07:19
- Category: 趣味>古事記
枚方市なう!枚方市なう!(大興奮)
枚方市の皆さんこんにちはあああ!!!
現在牧野公園です!!
アテルイとモレの碑にお参りしてきました!!うわああああ!!
朝からテンション高くてスミマセン!
遂に来た大阪古代史旅行!
朝の3時から起きだして4時に出発して3時間。
大阪は意外と近かった!
これから小休憩を挟んでいよいよ高槻市の今城塚古墳に行きます。
待ってて継体天皇様!!
大阪イエーイ!!
枚方市なう!枚方市なう!(大興奮)
枚方市の皆さんこんにちはあああ!!!
現在牧野公園です!!
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朝からテンション高くてスミマセン!
遂に来た大阪古代史旅行!
朝の3時から起きだして4時に出発して3時間。
大阪は意外と近かった!
これから小休憩を挟んでいよいよ高槻市の今城塚古墳に行きます。
待ってて継体天皇様!!
大阪イエーイ!!
さて、昨日はまた因幡の兎の話を聞きに鳥取県立博物館に行ってまいりました!
今回はさらにつっこんで、白とは書かれていなかったはずの兎が、いつの間に白兎と言われるようになったのか、というお話でした。
♪大きな袋を肩にかけ~だいこくさまが来かかると~♪
♪こ~こに因幡の白兎~か~わを剥かれて赤裸~♪
有名な童謡、因幡の白兎です。
これは完璧に「白兎」となっています。
もちろんこれは現代に作られた歌ですが、ではいったいこの「白兎」と言われだしたのはいつからなのか?
まず、もっとも古い記述は古事記の「素兎」です。
前回も書きました通り、これは何と読むのか分かりません。
今回お話を伺った学芸員の方は「すうさぎ」と読んでおられました。(前回も書きましたが)
結論から言うと、江戸時代に書かれた「因幡志」の中に「白兎」の記述がでてきて、これが最も古い記述のようです。
しかし!騙されてはいけません!これはまだ「しろうさぎ」ではないのです!
これは「あおうさぎ」と読みます。
な、なにー!!??
「白」と書いて「あお」と読むんです。
これは「白馬の節会」を「あおうまのせちえ」と読むのと同じこと・・・と、因幡志に説明されていました。
おお!「白馬(あおうま)の節会」なら知っている!
無駄に出雲に行きまくっていろいろ調べている時に、年始の宮廷行事の中に出てきたからね!
鈴も皇女時代は見ていたのかな~。
で、この因幡志によって因幡国では神社や伝記などの表記を「白兎」に統一したところ、読みまで「しろうさぎ」になってしまったということでした。
なるほどね~。
しかし、ここで新たな疑問が出てきます。
この「あおうさぎ」という読み方は、そもそもいったいどこから出てきたのか?
これには実は変遷があります。
そもそも兎の変遷が、
素兎(古事記。読み方不明)
↓
老兎(おいたるうさぎ・おいうさぎ)
↓
大兎大明神(おおうさぎだいみょうじん)
↓
あおうさぎ
↓
白兎
となっているのです。
読み方だけ追ってみると、
「おいうさぎ」
↓
「おおうさぎ」
↓
「あおうさぎ(白兎)」
↓
「しろうさぎ(白兎)」
という変遷。
いったいどうしてこんなに記述がころころ変わったのかといいますと、まず「老兎」が出てくるのが鎌倉時代に書かれた「塵袋(ちりぶくろ)」の中の「因幡ノ記」。
そこでは古事記には書かれていなかった、①兎がどうして沖ノ島にいたのか②兎がどうして因幡に渡りたかったのか、が記述されています。
<塵袋の記述>※鎌倉時代※
①兎がどうして沖ノ島にいたのか
⇒元々因幡国にいたが、洪水で沖ノ島まで流されてしまったから
②兎がどうして因幡に渡りたかったのか
⇒元いた場所に戻りたかったから
※ここで重要なことがあります※
この二つの①②の記述はあくまでも「塵袋」の記述です。
古事記に書かれた因幡の素兎神話の原型とは限りません。
というより、恐らく古事記の因幡の素兎神話を元にこの時代に創作されたのではないかと考えられるとのことでした。
で、ここに「老タル兎」の記述が出てきます。
因みにこの「老タル兎」さん、因幡の「竹草郡(もしくは高草郡)」にいましたが、洪水が起こって「竹の根」に乗って沖ノ島まで流されます。
その後ワニと駆け引きをして、沖ノ島から因幡国の「気多の岬」まで並ばせて渡っていきます。
ご存知の通り渡りきる前に嘘がばれて毛をはがされてしまうわけですが、その後通りかかった大国主命(大穴牟遅命)に教わって蒲の穂に包まっていたら元に戻ります。
ここの記述が以下のようになっています。
ヲシヘノママニスルトキ、多ノ毛モトノゴトクイデキニケリト云ヘリ。
多ノ毛・・・毛が多い・・・毛多
何が言いたいかというと
「竹(タケ)草郡(もしくは高(タカ)草郡)」
「竹(タケ)の根」
「気多(ケタ)の岬」
多ノ毛⇒毛多(ケタ)
という、言葉遊び的な要素が見え隠れしているわけです!
大体兎さんは元々「竹(タケ)草郡(もしくは高(タカ)草郡)」にいたくせに、どうして戻ってくる場所が「気多(ケタ)の岬」になってるのか甚だ疑問なわけですが、これも「塵袋」の作者が毛が増える(毛が多くなる)のに適した舞台を「気多(ケタ)の岬」と考えたとしたら、結構すんなり納得できます。
おおお!おもしろい!!!
どうせ「塵袋」の作者さんは因幡には来ていないでしょうから、ちょっとくらい地理がおぼつかなくてもしょうがないです。
学芸員の方はちょっと自信なさ気でしたが、私はこれは凄く面白い観点だと思いました!!
あ、話が脱線しました。
兎の色の話に戻します。
で、次に兎さんが出てくるのは江戸時代初期に書かれた「因幡民談記(いなばみんだんき)」です。
実はここで「白兎」の記載は出てくるのです。
しかし、ここの「白兎」は神話の兎ではなく、地元の豪族の夢に出てくる兎です。
<因幡民談記の記述>※江戸時代初期※
ある日因幡の一人の豪族が夢で白い兎に会います。
兎は夢の中で「われは白兎(しろうさぎ)と云ふものなり、吾かすむべき社なし、本の所に社を建て給はるべし」と一方的に神社を建てることを要求してきました。
で、何だかんだあって結局神社を建立するわけですが、その建てた神社を「大兎大明神」として祭るのです。
「因幡民談記」の作者はこの「大兎」は「塵袋」に出てくる「老兎」のことかな?(疑問)と書くに留まっています。
決して「老兎」=「大兎」とは云ってません。
が、とりあえず道筋が出来ました。
「老兎(おいうさぎ)」⇒「大兎(おおうさぎ)」?
次に出てくるのが始めに書いた「因幡志」(江戸中期)です。
<因幡志の記述>※江戸中期※
ここではさっきの「因幡民談記」では疑問視されていた「老兎」⇒「大兎」?が勝手に断定的に引用されています。
さらにこの「大兎」は「白兎(あおうさぎ)」の転訛したもので、もともとは「白兎」であった、と言い切っています。
か、かなり強引だな!
「白兎」を「あおうさぎ」と読む理由は始めにも書いたとおり「白馬の節会」を「あおうまのせちえ」と読むことから分かるとおり『「白」の字、「靑」とよみかゑるは和訓の故實(こじつ)と云へり。』とのことでした。
おおおお、かなり強気な態度です。
こうして因幡志の作者の主張を受け入れる形で、「大兎大明神」を「白兎大明神」と書き改めた結果、読み方まで「しろうさぎ」となって現在に至るわけです。
<ついでの作者メモ>
「塵袋」・・・編者不明
「因幡民談記」・・・小泉友賢(ゆうけん)
「因幡志」・・・阿部恭庵(きょうあん)
か、かなり長くなってしまいました。
誰も読みませんよねこんな話・・・。
まぁ私の備忘録ということで。
つまらないことばっかりやっててスミマセン(汗)
現在図書館で来月の大阪旅行のために継体天皇の勉強中なう。
継体天皇を中心に書いてある本から古代史全般について触れてある本までさまざまですが、やはりどの書籍も「王朝交替説」について言及があります。
継体天皇を論じるときのメインテーマの一つですね!
応神天皇五世の孫という、普通に考えたらほぼ他人も同然の血縁から天皇になった継体天皇。(ちなみに母親筋では垂仁天皇八世の孫)
しかも即位したときは御年五十七というご高齢。(日本書紀)
加えて元々住んでいたのは畿内から遠く離れた越前国(福井県)。
遠縁、高齢、遠方という3つもの負の要素を越えるどのような魅力がこの継体天皇にはあったのか。
そして今月初日に晴れて一般公開が再開した継体天皇陵とされる「今城塚古墳」。
公園の整備や資料館の設置など、かなり手が尽くされているようです!
遥かな時を越えて今も地元の方々及び多くの日本古代史ファンから愛されている継体天皇。
その魅力についていろいろ知りたくて堪らないわけです!
ていうか、やっぱり地元の人に愛されてるのが一番ですね。
色々な遺跡に行って、地元のガイドさんなんかがすごく生き生きと解説なさってる様を見るたびこっちまで嬉しくなってしまう!
お土産物屋さんもこれでもかってくらい遺跡関連グッズを販売してたりするとすごく微笑ましく思えてしまう!
交通標識とか駅に置いてあるフリーマップとかに載せてあったりするとついふらふら行ってしまう!
まあ古代史好きで旅行好きなら大体誰でもこんな感じですよね(ェ)
まだまだ勉強始めたばかりであまり語れませんが、ある程度ネタがたまったら自分の備忘録もかねてここで吐き出されていただこうと思います。
お、お暇な方だけでもお付き合いいただけたら幸いです!