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重要キーワード

続きを書く前にひとつだけ。
聞いてください!
いろいろ読み返していたら私、凄く重要なことに気づいてしまったかもしれない!
とりあえず重要部分を以下に引用します。

阿高は、ややあきれたように苑上の顔を見た。
「おまえってやつは、妙なところでおもいきりがいいな」
「そう?」
自分をかえりみて、苑上はいった。
「たぶん、わたくしは、皇の闇ほどにはあなたが怖くないの。あなたは自分が怖いのでしょうけど」
変なやつだ」(文庫下p.199)


これ、阿高が自分を表すのに使ってた言葉と同じじゃないですか。
前回部分で阿高が自嘲気味に言ってたやつです。

阿高はうなずき、少しゆがんだ顔でほほえんだ。
「ああ。いつかは・・・・・・・つれて帰ってほしい。ごめん」
「何がごめんなんだ」
「おれがこんなに変なやつで。(後略)」(文庫上p.321~322)


なんということだ!
同じ表現をしているというのは凄く重要な気がします!
阿高は無意識かもしれませんが、無意識にでも苑上が自分と近い性質を持っていると察しかけているんじゃないのかこれは!と思いました。
少なくとも、今まで阿高のそばにいた人たちとは違うと思っているような気がします。
なお、阿高が苑上を「変なやつ」と表現しているところはこの前にも一箇所ありますが、そっちは少し意味が違うかなと思って引用しませんでした。
とりあえず、ここは私の妄想メモの中で赤ペンで線を引いて花丸をつけておくことにします。
今回はいつもより丁寧に読み返しているお陰で、いろんな発見ができました。
読み返しはやっぱり重要な萌え活動ですね。





分かってるよ!
完璧に自己満足だって分かってるよ!


・・・考察もどきの続きは後ほど投稿します。

阿高の心の「死」と「再生」【その三】※補足追加

前回書いたことまとめ
・「心」が生まれるのは両親(もしくはそれに変わる存在)の愛情から
・「心」が生まれると「信頼関係」に育っていく
・子どものころから「自分の存在が家族に迷惑をかけている(かも)」とぼんやり察し始めた阿高。健全に生まれた「心」は歪さをはらんで育っていった


こんな3行で書けることを私はなんであんなにネチネチ書いているのか・・・という気持ちにもなりますが、力はなくても書きたいことがあるのでしょうがないと諦めます。
繰り返し書くことで、少しは成長できたらいいなと思います。

それでは続きです!

【「心」のそれぞれの段階の「要因」と「結果」】後半戦スタート

・「心」が死ぬということ、「心」が死んだ「身体」(前半)

「心」が死んだ状態とはどんな状態のことなのか。
一般的には様々な状態が考えられると思いますが、薄紅天女のとりわけ阿高に限って考えてみたいと思います。
定義は中々難しいのですが、ここでは「心」の定義を「自分が必要とされていると感じること」=「自分の存在意義」としていたので、それが死んだ状態とは

「心」が死んだ状態=「自分の存在が誰からも不要になったと感じること」=「存在意義の喪失」

と仮定して話を進めたいと思います。
まず、阿高が本物の死を意識した場面を見たいと思います。
それはどこかといえば、やはりニイモレに矢を向けられた場面ではないでしょうか。

(こいつにとって、おれは最後までチキサニなのか・・・・・・)
チキサニとして死にたくはなかった。
自分が自分で負ったことにおいて死にたかった。
だが、ニイモレの矢から逃れるすべはほとんどなかった。
ねらいすます矢を凍りついて見つめる阿高の前で、無常に弓弦が鳴った。(新書p.205)


阿高にとって、人生で初めて他人から直接明確な殺意を向けられた体験です。
そして直後にリサトとニイモレの死に接します。
二人とも阿高をチキサニと思って死にました。
人の命が失われるという衝撃。
それがチキサニという存在によって引き起こされたということ。

陸奥へ来たことで、阿高は大きく変わらざるをえなかった。
とり返しがつかなくなるような、苛酷な方法で阿高は試されたのだ。
もどってくることができたものの、阿高はもとの阿高ではない。
そして、追ってきた藤太もまた、無傷ではいられなかったのだ。
今後も阿高のそばにいると決心したからには、今もこれからも、自分たちはさらに変わらざるをえないのだと、暗雲に似た予感を感じとる藤太だった。


はじめは混乱していた阿高でしたが、体調が回復すると今度は冷静に分析をはじめます。
リサトの墓の前で、藤太に父勝総の死の本当の原因を語り、藤太に問いかけました。

「不当だと思わないか」
「うん。不当だ」
藤太が認めると、阿高はふりむかずにたずねた。
「倭の帝が悪いと、そう思うかい」
「倭の帝って・・・・・・都におられる帝のことか?」
少々たじろいで藤太はたずね返した。
自分たちの家に、皇の血をひくといういい伝えがありはするものの、武蔵で育った藤太にとって、帝とは、よい悪いを考えたことすらないはるかな支配者だったのだ。
阿高は藤太をちらと見て、ため息をついた。
「やっぱりな。この感情はチキサニのものなんだ。おれの中には、チキサニの感じたうらみがうずまいている。チキサニは、もっとはっきり自分のかかわりを知っていたんだ。チキサニの力に関係しているらしい・・・・・・帝が彼女を蝦夷から奪おうとして、彼女が拒んだことで、ことのすべてが持ち上がったんだ。知らないほうがよかったのかもしれない。けれど、今さらもとにはもどせない。藤太、おれは怖いんだ。チキサニの怒りに流されるのが」
ぽつりといった阿高を、藤太は見つめた。(新書p.217)


自分は一体誰なのか。
自分の感情とは。
母の怒りがあまりにも鮮烈で、阿高は自分が飲まれていることを感じています。
自分の存在意義が霞むほどに。

リサトの墓を見つめ、阿高はいくらかぼんやりつぶいた。
「リサトが生きていたら、たずねることができたのに。アベウチフチの見せた記憶は、勝総が死んだときでとぎれてしまっている。けれども、彼女はその後おれを産んで、倭の陣営にとどけさせたんだ。うらみに思っていたなら、そんなことはできなかったはずだ。どうしてなんだろう・・・・・・」


この阿高の疑問に答えた藤太の言葉は見事に簡潔でした。

「武蔵へ来たかったからだろう」
藤太があっさり答えたので、阿高は驚いたようにふり返った。
「おまえがいったんだぞ。チキサニは兄貴と約束したって。彼女はきっと約束を守って、自分のかわりにおまえが武蔵へ行くことを望んだんだよ。チキサニは心のやさしい人だったという気がする。でなければ、勾玉を返したりできない。彼女、最後にはうらんだりしていなかったんじゃないかな」
「リサトのように?」
「うん。リサトのように」


阿高はきっとこの藤太の言葉に物凄く救われたでしょうね。
うらみの果てに生まれたのかと思っていたのを、こうもあっさり否定されたら、もう言葉もありません。
藤太の言葉は、ましろという人物を直接知っていたからこそ言えた言葉ではあると思いますが、それ以上に藤太にとって阿高の存在が好ましい気持ちがあったからこそ、何の迷いもなくチキサニの行動を肯定的に受け取ることができたのだと思います。

「おれにはわかる。チキサニの本性はうらむ人ではないよ。リサトが慕っていたのは、チキサニが強力な女神だからではなかった。彼女には、人に愛されるものがあったからだよ」
阿高はしばらくだまっていたが、小声でたずねた。
「それならおれは武蔵で暮らしていいんだろうか」
「当然だ。おまえは帰るべきなんだ。武蔵へもどらなくてはならないんだ。チキサニがそう望んだように」
藤太は声に力をこめた。
「彼女の望みをかなえるために、お前が生まれたんじゃないか。おまえが女神でなく阿高だということは、そういうことだろう」


チキサニは女神として自分の子どもに復讐を託したのではなく、人として幸せになってほしいとだけ望んで、だからこそ阿高を女神として産まなかったんだなぁと思いました。
なにより、自分の母親がうらみを持って死んだのではなく、やさしい人だったと言ってもらえたことが、とても大事な意味があるのではないかという気がします。
人は本能的に、母親にはやさしさを求めるものだと思うのです。(父親には勇敢さかと思っています)
阿高は一度は見失いかけていた自分の存在意義を、藤太のお陰でもう一度持ち直すことができました。
この直後に田村麻呂が現れて、阿高を都に連れていくという話になります。
阿高は自分の中にある異形の力(雷の力)の存在にけりをつけるため、都に行くことを決めました。
もちろん藤太も一緒に。

「今はお前と都へ行くよ。そうすることが早道に思えるからだ。お前は、そのチキサニとの決着をつけるといい。おれはどんなところでもついていってやる。だけど、ことのすべてが終わったら、おれといっしょに武蔵へ帰るんだ。そのためにも、おれはおまえのそばを離れないからな」
阿高はうなずき、少しゆがんだ顔でほほえんだ。
「ああ。いつかは・・・・・・・つれて帰ってほしい。ごめん」
「何がごめんなんだ」
「おれがこんなに変なやつで。どうしてこんなことになったんだろうな。今でもなんだかわからなくなるよ。チキサニのいったこと、チキサニのしたこと・・・・・・そういうものを思い出せるおれは、いったいだれなんだろう」
「それならおれがいってやる。おまえは阿高だ」
阿高の髪をひっぱって藤太は告げた。
「教えてやろうか。おまえが寝こんでいるあいだ、夜も昼も、おれはずっとついてやったんだ。正直いって、ましろが出てくるものとばかり思っていたよ。おまえはすっかりまいっていたし。けれども、彼女は現れなかった。おれが思うに、ましろはもう二度と現れないんじゃないかな。いままでお前は彼女を知らずにいたが、今はもう思い出すことができる。だから勝手な一人歩きはしなくなったんだ」
「本当かな」
まばたきして阿高はつぶやいた。
「その記憶を大事にしろよ。おまえが阿高という器に彼女を受け入れたんだ。たぶん、それではじめてお前は実の阿高になったんだ。おれはけっこうましろが好きだったけれど、今のおまえでもいっこうにかまわない。わかるか?」
「わかるけど、変ないい方だな」
「それは、おまえが変なやつだからだ」
二人は体のうちにあたたかさを感じながら帰路についた。


藤太はなんていいやつなんだ!!
阿高はまだ心の中に膿むものを抱えていますが、それでもこれで立ち直りました。
阿高編の最後を引用します。

どうやら、一人でくよくよしているひまはなさそうだった。
藤太がいる。
広梨も茂里もいてくれる。
彼らがにぎやかに阿高を支えてくれる。
(大丈夫だ・・・・・・)
ひと呼吸して空を仰ぎ、阿高は思った。
何が起ころうと、きっと切り抜けることができるだろう。
仲間たちの信用に応えているかぎり、見失うものはないはずだった。


「仲間」の「信用に応え」るというのが大事ですね。
「心」=「自分が必要とされていると感じること」は、その期待に応えるということで満たされるものだと思うからです。
そして逆に「人に期待する」=「人を信じる」ことで、相互関係が構築されていくのでしょう。
他人同士であれば当たり前の関係ですが、阿高はようやくこれで学んだのだと思います。

藤太とは他人同士であること、そして間に信頼関係を築くことで強く結びついていけるということ。

会話せずとも行動を合わせることすらできるほどの藤太と阿高が、改めてお互いが違う人間だと認識したこと。
このことは彼らが大きく成長する上で重要な要因となりました。
同じだから一緒にいるのではなく、違う部分を受け入れあって更に共にあることをお互いに選んだという意識は、今までとは比較にならないくらい強固な結びつきになったと思います。
これで何も憂うことはなくなった!・・・・といいたいところですが、ご存知のとおりそうは簡単に物事は進みません。
今までは藤太と同じだと思うことでふたをされていた(見ずに済んでいた)もの(=上で阿高が「変」と表現しているもの)は、この後の阿高を確実に蝕んでいくことになります。

・・・ここで次回に続きます。
というか、本来は次回に書く予定の阿高の心の「死」の部分(もちろん藤太を失いそうになって阿高がショックを受けるところ)が、この話の一番のメインなわけです。
ではどうしてこんな前の話を書いているかというと、前々から何度か書いていたとおり、私は「阿高編」と「苑上編」が構成としてとても似ている(=対になっている)と思っているからです。
つまり、本来メインのはずの「苑上編」の最後の戦いの話に相当するのが、今回書いた「阿高編」のこの部分なのです。
「阿高編」と「苑上編」は全体的に同じような展開やキーワードも出てきているので(阿高が竹芝を出奔したり、自分を失って化け物になっていたり、墓の前でリサトとニイモレのことを「忘れない」と言っていたり、他にも諸々「苑上編」と被るシーンがあると思っています。こじつけも多いですが)、「苑上編」のあのシーンを語るためにはこのシーンを語ることが必要だったのです。
うまく結びつけて語れるかどうかは自信がないのですが、書けるところまで書きたいと思います。
次回も何卒よろしくお願いしますm(__)m

あ、3日の15時台に拍手を下さった方ありがとうございます!
少しは何かを思いついたり考えたりするきっかけになれているでしょうか?
これが絶対に正しいと思って書いているものではなく、むしろ「違う!」とか「もっとこういう感じ」とか感じてもらえるのが一番の望みです。
何か思うことがございましたらお気軽にお知らせください。
拍手ありがとうございました!


【補足】
また追加してスミマセン。
藤太が阿高の母ましろを「やさしい人だった」と言ったことについて、もう少し。

阿高の罪悪感(家族に迷惑をかけているかも)という意識の根底には、母親の存在がありました。
後に帝に「母が~(略)~修復を」と言っているのもそのあたりを意識している気がします。
母親が放ったという悪路王の正体は結局わかりませんが、阿高はそのことに対して強い不安感をもっていたのは原作にある通りです。
しかし、人として例え死んでしまっていたとしても、母親のことを悪いものとは思いたくないもの。
母という人への愛着もあるかもしれませんが、何より自分のルーツたる人です。
自分の存在の始まりが「うらみ」という悪意からであったと感じるのはとても辛い。
それを藤太が「やさしい人だった」と言ったことは、阿高の罪悪感や不安感を少しでも軽減することになったのではないかと思いました。
少なくとも、自分の身近な人が母のことを悪く思っていないということは阿高にとっては言葉にはできない嬉しさがあったのではないでしょうか。
親を肯定的に捉えることは、自分の存在意義を肯定することにも繋がる大事なことだと思います。

阿高の心の「死」と「再生」【その二】※補足追記

前回までのおさらい

・心に「死」があるなら「生」「育」などもあるはず
・今回語る「心」とは特に「自分の存在意義」として考えてみる


このあたりを前提としてお読みいただけるとより分かりやすいと思われます。
「心」の「生」「育」を見ながら、阿高の「孤独」は何が原因だったのか、「死」「再生」を見ながら、阿高は「孤独」をどう克服したのかを探るのを最終目的と考えています。

それではいきます!


【「心」のそれぞれの段階の「要因」と「結果」】

・「心」はどうやって生まれるのか、「心」が生まれたらどうなるのか

「心」が生まれるというのは、今回の「自分の存在意義」という視点からいうなら「自分が必要とされているという初めの自覚をどうやって得るのか」と言い換えることができますね。
この自覚はどうやって生まれるのか。
それはやはり乳児~幼児の時期の「両親の愛情」によって生まれるんだと思います。
人が人生で一番初めに認識する他人は両親です。
「愛してるよ」とか「かわいいね」とか「生まれてきてくれてありがとう」とか、あとは笑顔とか優しい声とか。
そういう「愛されている」と自覚することが「心」が生まれる瞬間ではないかと思います。
逆にこの段階で親から十分な愛情が得られないと、のちのちまでトラウマとして残るでしょう。
「クレプトマニー」という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、この時期に原因があるとされているようです。(スミマセン、詳しくは分かりません)
人の子どもは他の生き物に比べて非常に未熟(非力)な状態で生まれてくることが知られています。
立って歩くことすら生後1年程度必要な人の子どもは、絶対に親(もしくはそれに代わる存在)の助けなしでは生きることができません。
無条件で自分を預けることができる存在(信頼できる人)が強制的に必要な時期です。
逆に言えば、この時期に親の愛情を十分に得ることで、自分という存在を確かに自覚するとともに、他の人間との信頼関係を築く第一歩にもなると思います。

※「心」が生まれる段階のまとめ
・要因:親の愛情
・結果:他人との信頼関係の始まり


阿高の場合はどうだったでしょうか。
阿高は親はいませんが、原作に
もの心ついたときには、もう藤太とともに育てられていた。(略)すべて同じにして大きくなった(略)(新書p.16)
藤太の母に不満はなかった(新書p.106)
という記述があります。
親はいなくても、親の代わりになる人はいたのです。
阿高の孤独感は確かに「親の不在」が大きく関わっていますが、ただ「いないこと」だけが原因ではなかったと思います。
私は阿高の生育に関して、この時期は何も問題はなかったと考えています。



・「心」が育まれる環境、両親の死に対する家族のタブー視が阿高に与えた影響

その後阿高は跡目を継ぐきゅうくつさを持たず、年長者の中で放任されて大きくなりました。(新書p.8)
隣には常に叔父の藤太がいて、他にも若衆宿の同期の仲間と徒党を組んで人の役に立つことや迷惑になることを行いながら、笑いあったりふざけあったりしていたわけです。
原作にも坂東のごくふつうの若者と変わりなくと書かれています。
明らかに変わっているところといえば恋をするより鼻歌歌って鳥や雲を見ているようなところくらいのものです。
このくらいなら、周りから浮いてしまうほどのことはありません。
信頼できるたくさんの仲間の存在は阿高の「心」をよりよく育てていったことでしょう。
・・・ただ、この時期の阿高は心の中に一つだけ淀みのようなものを持っていたようです。
それは普段は考えないようにしていること。
原作から引用してみます。

(親父さまは、忘れてはいないのだ・・・・・・語らないだけだ)
阿高の父、勝総を忘れてはいない。
彼が死んだ戦地へは、総武も後からおもむいていた。
最初の息子を供養し、そして、忘れがたみの阿高を竹芝へつれて帰ってきたのは、この総武だったのだ。
以前、阿高がまだ七つか八つだったころ、祖父に「とうさんのことを話して」とたのんだことがある。
たしか、今上帝の最初の軍隊が北へ向かったことに触発されてのことだった。
だが、総武は首をふり、待てといった。
阿高が二十歳を迎えたら話してやるから、それまでは待て、と。
(なぜ、待つのだろう・・・・・・)
重苦しさが阿高の胸をふさいだ。

それははじめて考えることではないが、いつもなるべくさわらないようにし、大急ぎでふたをしてしまう考えだった。
(なぜ、親父さまは、それ以来、家から一人も兵士を出さないことを誓ったのだろう。裕福さをかさにきてと非難されるのを承知で、兵役免除を買い取っている。ふつうならば、もっと蝦夷を憎むのではないだろうか。殺された息子のかたきをとりたいと考えるのではないだろうか・・・・・・)
うすうす察する、察せずにはいられない結論はひとつだった。
(おれが生まれたせいなのか・・・・・・)
阿高の母親については、父親以上にこの家で語られたことがない。
まったくないといってもいい。
あまりの沈黙に、阿高自身がたずねてはならないことを覚えこんでしまったほどだ。
ばかでないなら、沈黙もひとつの答えであることがわかるものだ。
だが、これまで阿高は、そのことをさほど気に病んで暮らしてはこなかった。
母親がどこのだれであっても、あまり関係のないことだと思っていた。
顔など知らない人なのだし、重要なのは彼に竹芝の血が流れていることであり、その一族に囲まれて暮らしていることなのだから。(新書p.20~21)


阿高は自分が蝦夷の血を引いているから、総武が兵を出さないのではないかと考えていました。
実際は、勝総を殺したのが仲間のはずの大和の人間だったことが原因だったのですが、何も知らない阿高は悪いほうに考えてしまってもしょうがないですね。
しかし、私はこれこそが阿高が孤独を抱え込む原因になったと思っています。
誰が悪いというのではありません。
幼い阿高に話すことが出来ない内容だったこともとてもよく分かります。
ただ、阿高はそのことで自分の存在が家族に迷惑をかけていると考えているのです。
美郷の言葉を借りれば、柄ばかり大きくなっただけの大人になっていない=子どもの阿高にとっては、どんなに信頼できる仲間がいたとしても、やはりもっとも大きな存在なのは家族であり、彼らにとって自分の存在が迷惑をかけていると感じることは「心」が育つ段階においては相当なストレスだったことでしょう。
特に十代の多感な時期にそう感じていたことはおそらく阿高の「心」が育つ段階で歪さをはらむことになったはずです。
この歪さが修正不能な「孤独感」を引き起こしたのではないでしょうか。
これが例えば「寂しさ」程度なら誰でも感じるはずで、阿高はそれを紛らわすにはうってつけな半身が常に傍にいました。
本来ならばそれで段々と埋められていくはずなのです。
しかし、苑上が

(だれがそばにいようと、たとえ藤太のような人がそばにいようと、この人は孤独なのに違いない・・・・・・)(新書p.363)

と察するような深すぎる孤独感は、簡単には埋まらないでしょう。
ここまで深くなってしまったのはもちろん展開が進む過程で、母と父のことを知ったり、オオカミの化け物になったり、雷の力をもったりなどなどの影響があってこそですが、しかし阿高はこうなるまえにすでに自分のことを異質であるとどこかで承知していたのです。

「藤太、おれは、だれなんだ」
先ほどの千種の問いが、阿高の中でこだまをくり返していた。
今の今まで、阿高は自分を竹芝の一族であり、総武の孫であり、藤太の甥だと信じていたはずだった。
けれども砕け散ってはじめて、その確信がどれほどもろいものかを、あらかじめ知っていたことに気がついた。
父につながる血を打ち消す大きな流れが、阿高自身の中にある。
阿高の体には、藤太が決して持ちえないものがある。
本当は阿高にも、そのことがわかっていたはずだったのだ。


このあと七~八歳のころからずっと抑えてふたをしてきたものが、一気に爆発するのは、みなさまご承知のとおりです。
阿高が藤太にこそ思いのたけをぶつけたのは、阿高が藤太をある意味親代わりの人(総武や藤太の母)以上に親の不在を埋める存在としていたからでしょう。
確かに藤太の裏切り(誤解)が直接の原因ではありますが、ここに到るまでにすでに限界状態に近かった可能性が高いのではないでしょうか。
健全な形で生まれた「心」が、歪さをはらんで成長していく段階で、とうとうその負荷に耐えられなくなったのだと思います。
阿高の心にどれ程の痛手を負わせるものだったかと想像すると胸が痛くなります。
しかし、これはまだ致命傷を負わせるほどのものではないと私は思っています。
まだ、この段階では阿高の「心」は死んでいません。
なぜなら、まだここではわずかな希望が残っていたからです。
やけっぱちな希望ではありますが、阿高はこのとき「蝦夷」という希望がありました。
竹芝には不要な存在となった自分でも、もしかしたら母の家族である蝦夷なら居場所があるかもしれないと阿高は考え、陸奥へ向かいました。

※「心」が育まれる段階のまとめ
・要因:親の愛情・仲間との信頼関係・・・阿高は親の愛情を信じられなくなり心に傷を負う
・結果:不要な存在と思い込んで出奔


今回はここまでです。
阿高の「孤独感」の要因を私なりに書いてみたつもりです。
次は

・「心」が死ぬということ、「心」が死んだ「身体」
・「心」が再生するには、その結果阿高が得たもの


を書く予定です。
どうぞよろしくお願いします!


【追記】
2日の22時台に3連パチくださった方ありがとうございます!!!
きてくださる方が一人でもいると分かると俄然元気が出てきます!!!
毎日妄想たぎりまくりでスミマセン・・・!
好きなことを好きなように語りつくしたいと思っておりますので、お暇がございましたらお付き合いいただけると嬉しいです!
拍手ありがとうございました!!!

【補足】
上の記事についてちょっとだけ補足です。

阿高が孤独感を抱え込むことになった要因は、「両親の死」そのものではなく、「家族がそれをタブー視したこと」ではないだろうかと書きました。
それについてもう少しだけ。

私の勝手な思い込みですが、例えば阿高の両親の死因が「事故死」や「病死」だったとしたら、おそらく阿高はここまで孤独感を抱え込むことにはならなかったのではないかと思っています。
両親の代わりになる存在があるといっても、やはり本当の両親の存在は大きな意味があるのではないでしょうか。
自分のルーツたる存在、自分がここにいる一番の理由はどうしたって産みの親です。
その部分をネガティブにとらえてしまったことが、阿高の心に歪な部分が生まれてしまう原因になったと思います。
そういえば、人間は二十歳までは人生の中でも非常に感受性が強い時期という研究結果(心理学)もあると、いつかのディスカバリーチャンネルの犯罪心理学特集でいっていたのを思い出しました。
この結果が正しければ、この時期までに受けた影響がその後の人生に大きな影響を与えるということになります。
総武が「二十歳まで待て」といったのは、実は大事な判断だったのかもしれないと思いました。

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