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荻原作品と万葉集~「RDG」天地の…(概要)

パルミジャーニ・フルリエ「トンダPF ヒジュラ パーペチュアル カレンダー」~ヒジュラ暦、夏暦、グレゴリオ暦を読むカレンダー複雑機構の最前線

「TONDA PF HIJRI PERPETUAL CALENDAR」~人類の歴史と文明における暦の重要性

暦は、人々の歴史、信仰、哲学を反映しています。社会生活や宗教生活を構成し、時間の流れに印をつけ、属する社会において重要な行事の節目をつくります。パルミジャーニ・フルリエは、時計が担う主要な役割を認識し、時計を精密機械としてだけではなく、歴史と伝統を庇護するものとして製作することを心がけています。世界を見る窓としてのウォッチメイキングのビジョンウォッチメイキングは、歴史、文化、哲学を表すものであるとするミシェル・パルミジャーニの信念にインスピレーションを受けて、メゾンではすべての時計を世界に向けて開かれた窓として製作しています。「トンダ PF ヒジュラ パーペチュアルカレンダー」は、メゾンの時計製造の伝統のゆたかさへの想いと、多様な文化における時間の神聖さに対する敬意を完璧に体現しています。

スーパーコピー 代引き

『私たちパルミジャーニ・フルリエは、単なる時間の計測を超えた、文化的、歴史的多様性の本質に触れるというビジョンを抱いています。このビジョンがメゾンの全クリエーションを形づくり、時代や文明をわたる時間の多様な在り方を理解し、尊重することへの深い献身を表しています。』

ミシェル・パルミジャーニ(創設者/修復師 )/グイド・テレーニ(パルミジャーニ・フルリエCEO)


多文化的アプローチと多様性
暦とは、計測器であるだけでなく、その暦を育んだ文明を映しだす鏡であるとパルミジャーニ・フルリエは考えます。設計の工程は、暦が文化的多様性の表現であるという認識によって導かれていて、それぞれの社会の特性をタイムピースに組み込んでいます。それは、「時間」という概念をつくり出しだ、それぞれのユニークな文化への賞賛を表します。このビジョンをさらに推し進め、パルミジャーニ・フルリエはインクルーシブな視野を大切にし、文化の多様性のみならず、多岐にわたる人間の体験を表現することを目指しています。メゾンにとって、インクルーシブであるということは、違いを尊重し配慮することと、あらゆる伝統が可視化され評価されるプラットフォームを提供し、文化間の対話をゆたかなものにすることを意味します。




ヒジュラ暦、夏暦、グレゴリオ暦を読むカレンダー複雑機構の最前線 - トンダ P F
パルミジャーニ・フルリエは、歴史に根ざした繊細なカレンダーコンプリケーションのパイオニアです。複雑カレンダー機構とは、天文学的精度と詩的な表現が出会う領域であり、天体と太陽と月の動きに基づいて歴史と文化が形づくられる世界です。
トンダ PFコレクションには、カレンダーコンプリケーションの三つの傑作、中国暦、西洋グレゴリオ暦、そして新たに誕生したヒジュラ暦モデルがあります。技術的、文化的な側面を網羅する前例のないこれらの時計は、文化の多様性や私たちをつなぐ「時間」の概念の複雑さへの深い敬意の表れです。


TONDA PF HIJRI PERPETUAL CALENDAR~大いなる文明を讃えて
ロレックス 時計 コピーミシェル・パルミジャーニは、自身が修復したイスラム暦の懐中時計からインスピレーションを受け、2011年にヒジュラ暦の置き時計を製作しました。さらに、腕時計へと小型化されたヒジュラパーペチュアルカレンダーは、2020年のジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリ(GPHG)でイノベーション賞を受賞。2023年には、プラチナ製のケースに収められたトンダ PF ヒジュラ パーペチュアルカレンダーが発表されました。トンダ PF
コレクションの一部となったこのプラチナモデルは、よりシンプルなダイヤルデザインに一新され、PFコレクションのデザインコードを継承しています。



新しいトンダ PF ヒジュラ パーペチュアルカレンダーは、ステンレススティール製のケースに、鮮やかなビリジアングリーンのダイヤルを備えています。
トンダ PF ヒジュラ パーペチュアルカレンダーは、八世紀のムスリムの学者や天文学者によってつくられた表形式のイスラム暦を、時計学に基づいて表現したものです。このシステムにより、歴史学者がイスラム暦の日付をグレゴリオ暦の日付に変換することができるようになり、ヒジュラ暦の永久カレンダーの実現も可能になりました。ヒジュラ暦の最初の年は、預言者ムハンマドによるメッカからメジナ(現在のサウジアラビア)へのヒジュラ(アラビア語で「移住」の意)を記念して定められ、グレゴリオ暦の622年に相当します。



太陽暦のグレゴリオ暦や太陰太陽暦である中国の夏暦とは異なり、太陰暦であるヒジュラ暦は月の周期に基づいています。そのため、ヒジュラ暦は30年周期の暦であり、一年が29日か30日の12ヶ月で構成されています。この30年周期は、19の平年(一年は354日間)と、11の閏年(一年は355日間)からなります。


神聖なる時間
一年に四つ、暴力や悪行を行わない神聖な月があり、その期間中は新たに、そしてより高い集中力をもって信心を深めて善行を積むことに重きが置かれます。
このうち三つの神聖な月は、ズー・アル=カアダの11番目の月(月のサブダイヤルには「١١」と表示)、それに続くズー・ル=ヒッジャ(月のサブダイヤルに「١٢」と表示)、そしてムハッラムと呼ばれる一番目の月(月のサブダイヤルに「١」と表示)の順番で連続しています。このように三つの月が連続している理由は、ズー・ル=ヒッジャは聖地メッカに集う大巡礼ハッジの月であるため、メッカへの往復が穏やかな旅となるよう、ハッジの前後の月が神聖なものとされたからです。最後の神聖な月は、ラジャブ(月のサブダイヤルに「٧」と表示)という七番目の月です。一年の真ん中に位置するラジャブ月は、ラマダン月に向かう平和と内省の期間であり、ウムラと呼ばれるメッカへの自発的な巡礼が行われる時期でもあります。

トンダ PF ヒジュラ パーペチュアルカレンダーでは、月のサブダイヤルに赤色で強調された「٩」の文字がラマダン月を表します。イスラム教徒はラマダン月に29日間または30日間、日の出から日没まで断食を行います。ラマダン月は、イード・アル=フィトルの大祭に終わります。イード・アル=フィトルは、イスラム教の二大祝日のうち最初の祝日で、もう一方の祝日イード・アル=アドハーは、つねに一年の最後の月の十日目として定められています。


ステンレススティールとビリジアングリーン
新しいトンダ PF ヒジュラ パーペチュアルカレンダーは、100メートルの防水機能を備えたステンレススティールケースに収められ、サテンとポリッシュで交互に仕上げられています。メゾンのシグネチャーであるローレット加工のベゼルは、プラチナ950製で、フォールディングクラスプ付きのステンレススティール製ブレスレットと組み合わされています。


ビリジアングリーンのダイヤルはバーリーコーン(麦の穂)パターンの手彫りのギョーシェで飾られています。アプライドのアワーマーカーと、デルタ型スケルトンの時針と分針は、ロジウム加工の18Kゴールド製です。秒針とカレンダーのサブダイヤルの針は、ロジウム加工のステンレススティールでつくられています。




暦のカレンダー
トンダPF ヒジュラパーペチュアルカレンダーは、28,800振動/時(4Hz)で駆動し、48時間のパワーリザーブを備えたキャリバーPF009の自動巻きムーブメントを搭載しています。この複雑なムーブメントのブリッジは、隅々まで面取りされています。スケルトンのローターは、プラチナから削り出され、ポリッシュ仕上げとサンドブラスト仕上げが施されています。ケースやダイヤルと同様に、ムーブメント全体がコート・ド・ジュネーブとペルラージュで装飾されています。

トンダPF ヒジュラパーペチュアルカレンダーは、すべての情報をダイヤルに表示しています。30年のサイクルを示す12時位置のサブダイヤルでは、355日間の閏年がベージュ色の文字で、通常の354日間の平年が白色の文字で表示されます。3時位置のサブダイヤルは、イスラム暦の月番号を示し、9番目のラマダン月は鮮やかな赤で強調されています。9時位置のサブダイヤルは日付を示し、円形の開口部から30日の月であるか、29日の月であるか読み取れます。
開口部が白色の場合は29日の月で、ベージュは30日の月を表し、さらに30の数字はベージュ色のアラビア語の文字「٣」で示されます。最後に、6時位置のサブダイヤルは、ブルーアベンチュリンのムーンフェイズディスプレイを備えており、南半球および北半球から見た月の位置を示しています。



『ウォッチメイキングは、私たちの時間に対する認識を形成してきた人々の
歴史、文化、哲学を知る窓であるべきです。』
ミシェル・パルミジャーニ(パルミジャーニ・フルリエ創設者・時計師) 


ダイヤルの表示
12時位置のサブダイヤル・カウンターは30年周期のヒジュラ暦を表示。
ヒジュラ暦の一周期の構成:平年19回/閏年11回
この30年のうち、閏年は2、5、7、10、13、16、18、21、24、26、29年目に置かれる。
平年は白色の線、閏年は金色のアラビア文字で表示。
インデックスはヒジュラ暦の周期における現在の年を表示 。

6時位置のサブダイヤル
ムーンフェイズ表示
上部分は北半球のムーンフェイズ、下部分は南半球のムーンフェイズを表示。

【補足】荻原作品と万葉集~「空色勾玉」旅人の…

拍手ありがとうございますフォオオオウ!
返信不要の拍手もお返事したい気持ちを抑えてぐぬぬぬしつつやっぱりすごくうれしいです!
ありがとうございます!
学んでいて一番うれしい瞬間というのは、学んだ内容と実生活で実際に出くわした瞬間とか、今まで全然関係ない記憶だったものがピタッとつながった瞬間だったりすると思っているので、山吹のお話を聞いて私は勝手に胸が熱くなってました!
ああ、やっぱりちょっと返信してしまった!許して下され・・・どうしてもこれだけお伝えしたくて!
あ、あと、16連パチかフォウ連パチのお方はあなたでしたか!(フォウ連パチの方かな?)
うすうすそんな気がしてました!
我々の間はもはや言葉など超えているのですね!フォウフォウ!(一人で盛り上がる兼倉)


この勢いで続きいきます!

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
 ()が子()ぐぐめ (あめ)鶴群(たづむら)(遣唐使随員の母)

旅人が仮寝をする野に霜の降る夜には、どうか我が子を羽で包んでやっておくれ。天翔り行く鶴の群れよ。(訳:伊藤博)

この歌は分かりやすいのでたくさんの方が本の中で取り上げておられるのですが、分かりやすいがために、みなさん説明が簡単に終わらせてあって、あまりそれぞれの方で大きな違いはありませんでした。
まあそうはいってもせっかくなので載せておきますね!

伊藤博さん
(この時の遣唐使の)中に独り子の青年がいた。
その子の旅の安全を祈った母親の歌である。
当時、渡唐の船はしばしば難破した。
渡唐は命の保証を期しがたい危険な旅であった。
この長反歌には、愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である。
母親としてまた女としてなしうる神祭りに精魂を傾けることで子の幸いを祈る(※これは長歌に詠まれています)だけでは足らず、天の鶴群に呼びかけて鎮護を願っているところがいたましい。
「我が子羽ぐくめ天の鶴群」には、我が身を鶴になして常に子の周辺にいたいという母親の身を切るような愛情がにじみ出ている。
ちなみに、この時の遣唐使一行は天平七年に帰朝した。
むろん全員が無事であった保証も記録もない。
帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは残酷に過ぎる。


最後の一文に胸を突かれました。
伊藤さんならではの読み方かもしれませんね。

斉藤茂吉さん
この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫するの意だが、転じて養育することとなった。
母親がひとり子の遠い旅を想う心情は一通りでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧をすぐ連想するし、実際また詩的に表現しているのである。
けれども当時の人々は我々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。
ものいいに狐疑が無く不安無く、子を思うための願望を、ただそのままに言い表しえたのである。


「当時の人々は我々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない」という一文がとても好きです。
きっと本当にそうだったに違いない!と胸が熱くなります。

中西進さん
(この)歌における「野」は平坦な「原」とちがい、山の傾斜地をいうから、この歌は険しさをもった風景をふくんでいる。
このときの遣唐船は難波を四月三日に出港しているから、母親はもっと先の季節の、冬の中国の地に野営する折のわが子の身の上を思いやったことになる。
霜のおく寒夜には「わが子を羽ぐくんでくれ」と、大陸に帰翔する鶴の群れに呼びかける。
「羽ぐくむ」は、羽のなかにつつむと解するのがよい。
だから、この歌は、直接につつむ状態を想像している、母性愛のシンボルのようなうたである。
『万葉集』には母性愛を歌った歌はめずらしい。
『万葉集』に詠まれる母は、せいぜい恋の監視役として子の立場からネガティブに歌われるのがふつうなのである。
この子が無事に帰れたかどうかはしるされていない。
その第一船は、翌六年十一月種子島に漂着、第二船は二度目に帰航に成功して天平八年に帰国した。
しかし第三船の一行は四人のみが六年後の天平十一年に帰国しただけで、第四船はついに姿を見せなかった。


「大陸に帰翔する鶴の群れに呼びかける」というところにほほぅ、と思いました。
鶴が実際に中国に渡るのかどうかは分かりませんが、海を越えて渡っていくのは事実なので、その鶴に願いを託すということなのですね。
なお、この当時の「たづ」は今の鶴だけではなく、大型の白い鳥の大部分を含んでいたようです。

土屋文明さん
天平五年に遣唐使が遣わされて、船が難波を立ってこぎ出す時、母が子に贈った歌である。
『羽ぐくむ』は、親鳥がひなを羽の下に抱えることであり、今は転じて単に養い育てることに用いるが、ここでは原義に用いているのである。
親の子を想う心を「夜の鶴」などにたとえることはあるが、この歌はそういう理知的な根拠から作られたのではあるまい。
船出を送る母の目には難波の港のあたりを群れて飛ぶ鶴がまず目についたのであろう。
巣の中に子をはぐくむ鶴の姿はまた当時にあって、この一首の歌のできてきた筋道は、そう不自然なものではなかったろうと思う。


土屋文明さんは技巧を凝らした歌よりも、純粋な感性が脊髄反射してできたような素朴な歌を好んでいらっしゃるようです。
この解説からもそれがうかがえますね。

坂口由美子さん
天平五年、遣唐使の船が難波を出航する時、随員の一人の母がその子に贈った歌。
作者は随員の母であるということ以外はわからない。
遣唐使の出発は四月、初夏であったが、遠い異国の冬の、厳しい寒さの中での野宿を思いやる。
すっぽりと鶴の羽に包まれるという所、いかにも母親らしい思いである。


角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックのシリーズの「万葉集」から。
採録されている歌の数こそ少ないですが、文章もわかりやすく選ばれている歌も名歌中の名歌なのでとても楽しめます!
私もこんな風に余計な言葉を廃して簡潔に分かりやすく説明できるようになりたいものです・・・。

久松潜一さん
この歌は遣唐使の船が出発した時、その一行の中の、一人の母がよんだ歌で、母性愛のよく表れた作である。
ことに反歌はその心情をよく表している。
遣唐使に従ってゆくほどであるから相当の年配であろうが、幼子に対するような愛情が見えている。
天ゆく「たづ」に「わが子はぐくめ」というあたり、浪漫的な情緒の中に母性愛が滲み出ており、『万葉集』のなかでもすぐれた歌の一つである。
古日(※「ふるひ」幼くてし死んだ子の名)を悼む長歌の反歌「若ければ道ゆき知らじ幣はせむしたへの使ひ負ひて通らせ(905)」が父性愛をうたった歌と相ならぶ歌である。
当時、船で唐に行くのは海上の危険も多かったので、それを送る母にとっては、子の名誉を喜ぶとともに切ない思いもあったのであろう。


久松さんは類型歌や比較する歌を例によく挙げて説明しておられるのが特徴だと思うのですが、ここの例もまた好対照だと思いました。
ここで挙げておられる歌は山上憶良の歌です。



とりあえずこんなところで。
母性愛のよく出ている歌であるという解説が主ですが、それぞれの研究者の方々の言葉選びや方向性が少しずつ違っているのがまた面白いと思います。

荻原作品と万葉集~「空色勾玉」旅人の…(概要)

ものすごくゆっくり更新にもかかわらず拍手をくださるお方がいらっしゃることに感謝の涙を禁じ得ない兼倉です!
こんばんは!
特に16連パチのお方とフォウ連パチのお方はきっと私に何かしら伝えたいことがある気がしました!フォウフォウ!(「生きているのか、兼倉」的な)

それではさっそく続きです!
今度の歌は空色勾玉の第五章「影」の冒頭につけられた歌です。

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
 ()が子()ぐぐめ (あめ)鶴群(たづむら)(遣唐使随員の母)

旅人が仮寝をする野に霜の降る夜には、どうか我が子を羽で包んでやっておくれ。天翔り行く鶴の群れよ。(訳:伊藤博)

古語ですが意味が分かりやすい歌ですよね。
辛い旅をする我が子を思う母親の優しい気持ちがあふれている素敵な歌です。
実はこの歌は前にある長歌の反歌なのですが、長歌からこの母親には子供が一人しかいないということが分かります。
遣唐使に選ばれるのはかなり秀でた人たちだったはずなので、選ばれること自体は非常に名誉なことですが、やはり母親としてはたった一人の我が子を死ぬかもしれない旅に出すということは非常に辛いことだったでしょう。
当時の旅は辛いものだったということはいろんな記述からわかりますが、とりわけ海を渡って外の国にいくという旅は相当危険なものです。
そんな旅に一人息子を送り出す母の、ただただ無事と安息を祈る歌なのです。

さて、この歌を冒頭に冠する第五章「影」がどんな内容だったか覚えておられますか?
おそらく多くの方が衝撃的な印象と共に覚えておられるでしょう。
前章での怪我から立ち直った稚羽矢は明星と共に一日中駆け回ったり狭也を松虫草の咲いている窪地に誘ったりして束の間の安息を得ます。
しかし、進軍途中で再び襲ってきた国つ神によって明星や柾が死に、さらには少女に扮した照日王によって奈津女が殺され、ついに稚羽矢は暴走して姿を消してしまいます。
狭也はぎりぎりの状況で稚羽矢を見放してしまった自分を責め、伊吹王の遺言と岩姫の助言を胸にもう一度稚羽矢に会う決意をする・・・というのがあらすじです。
この章はたくさん名言があって読み返すとついつい夢中になってしまいます。
万葉集のこの歌と合わせると、より一層感情移入してしまいますね。
この「旅人」とはいったい誰を指しているのか。
傷ついて一人海の底に沈んでいた稚羽矢のことなのか、それともそんな稚羽矢を探すために旅立つ決意をした狭也のことなのか、または女神のもとへ旅立った人たちのことなのか、狭也に振られて衝撃を受ける科戸王のことな・・・わけはないか。(科戸は私がぜひ羽ぐk・・・ガハッ)
いろいろ考えても胸が締め付けられます。
それではもはや恒例ですが、次の補足でこの歌を少々詳しく見てみたいと思います!

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