Entry

【補足】荻原作品と万葉集~「空色勾玉」旅人の…

拍手ありがとうございますフォオオオウ!
返信不要の拍手もお返事したい気持ちを抑えてぐぬぬぬしつつやっぱりすごくうれしいです!
ありがとうございます!
学んでいて一番うれしい瞬間というのは、学んだ内容と実生活で実際に出くわした瞬間とか、今まで全然関係ない記憶だったものがピタッとつながった瞬間だったりすると思っているので、山吹のお話を聞いて私は勝手に胸が熱くなってました!
ああ、やっぱりちょっと返信してしまった!許して下され・・・どうしてもこれだけお伝えしたくて!
あ、あと、16連パチかフォウ連パチのお方はあなたでしたか!(フォウ連パチの方かな?)
うすうすそんな気がしてました!
我々の間はもはや言葉など超えているのですね!フォウフォウ!(一人で盛り上がる兼倉)


この勢いで続きいきます!

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
 ()が子()ぐぐめ (あめ)鶴群(たづむら)(遣唐使随員の母)

旅人が仮寝をする野に霜の降る夜には、どうか我が子を羽で包んでやっておくれ。天翔り行く鶴の群れよ。(訳:伊藤博)

この歌は分かりやすいのでたくさんの方が本の中で取り上げておられるのですが、分かりやすいがために、みなさん説明が簡単に終わらせてあって、あまりそれぞれの方で大きな違いはありませんでした。
まあそうはいってもせっかくなので載せておきますね!

伊藤博さん
(この時の遣唐使の)中に独り子の青年がいた。
その子の旅の安全を祈った母親の歌である。
当時、渡唐の船はしばしば難破した。
渡唐は命の保証を期しがたい危険な旅であった。
この長反歌には、愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である。
母親としてまた女としてなしうる神祭りに精魂を傾けることで子の幸いを祈る(※これは長歌に詠まれています)だけでは足らず、天の鶴群に呼びかけて鎮護を願っているところがいたましい。
「我が子羽ぐくめ天の鶴群」には、我が身を鶴になして常に子の周辺にいたいという母親の身を切るような愛情がにじみ出ている。
ちなみに、この時の遣唐使一行は天平七年に帰朝した。
むろん全員が無事であった保証も記録もない。
帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは残酷に過ぎる。


最後の一文に胸を突かれました。
伊藤さんならではの読み方かもしれませんね。

斉藤茂吉さん
この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫するの意だが、転じて養育することとなった。
母親がひとり子の遠い旅を想う心情は一通りでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧をすぐ連想するし、実際また詩的に表現しているのである。
けれども当時の人々は我々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。
ものいいに狐疑が無く不安無く、子を思うための願望を、ただそのままに言い表しえたのである。


「当時の人々は我々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない」という一文がとても好きです。
きっと本当にそうだったに違いない!と胸が熱くなります。

中西進さん
(この)歌における「野」は平坦な「原」とちがい、山の傾斜地をいうから、この歌は険しさをもった風景をふくんでいる。
このときの遣唐船は難波を四月三日に出港しているから、母親はもっと先の季節の、冬の中国の地に野営する折のわが子の身の上を思いやったことになる。
霜のおく寒夜には「わが子を羽ぐくんでくれ」と、大陸に帰翔する鶴の群れに呼びかける。
「羽ぐくむ」は、羽のなかにつつむと解するのがよい。
だから、この歌は、直接につつむ状態を想像している、母性愛のシンボルのようなうたである。
『万葉集』には母性愛を歌った歌はめずらしい。
『万葉集』に詠まれる母は、せいぜい恋の監視役として子の立場からネガティブに歌われるのがふつうなのである。
この子が無事に帰れたかどうかはしるされていない。
その第一船は、翌六年十一月種子島に漂着、第二船は二度目に帰航に成功して天平八年に帰国した。
しかし第三船の一行は四人のみが六年後の天平十一年に帰国しただけで、第四船はついに姿を見せなかった。


「大陸に帰翔する鶴の群れに呼びかける」というところにほほぅ、と思いました。
鶴が実際に中国に渡るのかどうかは分かりませんが、海を越えて渡っていくのは事実なので、その鶴に願いを託すということなのですね。
なお、この当時の「たづ」は今の鶴だけではなく、大型の白い鳥の大部分を含んでいたようです。

土屋文明さん
天平五年に遣唐使が遣わされて、船が難波を立ってこぎ出す時、母が子に贈った歌である。
『羽ぐくむ』は、親鳥がひなを羽の下に抱えることであり、今は転じて単に養い育てることに用いるが、ここでは原義に用いているのである。
親の子を想う心を「夜の鶴」などにたとえることはあるが、この歌はそういう理知的な根拠から作られたのではあるまい。
船出を送る母の目には難波の港のあたりを群れて飛ぶ鶴がまず目についたのであろう。
巣の中に子をはぐくむ鶴の姿はまた当時にあって、この一首の歌のできてきた筋道は、そう不自然なものではなかったろうと思う。


土屋文明さんは技巧を凝らした歌よりも、純粋な感性が脊髄反射してできたような素朴な歌を好んでいらっしゃるようです。
この解説からもそれがうかがえますね。

坂口由美子さん
天平五年、遣唐使の船が難波を出航する時、随員の一人の母がその子に贈った歌。
作者は随員の母であるということ以外はわからない。
遣唐使の出発は四月、初夏であったが、遠い異国の冬の、厳しい寒さの中での野宿を思いやる。
すっぽりと鶴の羽に包まれるという所、いかにも母親らしい思いである。


角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックのシリーズの「万葉集」から。
採録されている歌の数こそ少ないですが、文章もわかりやすく選ばれている歌も名歌中の名歌なのでとても楽しめます!
私もこんな風に余計な言葉を廃して簡潔に分かりやすく説明できるようになりたいものです・・・。

久松潜一さん
この歌は遣唐使の船が出発した時、その一行の中の、一人の母がよんだ歌で、母性愛のよく表れた作である。
ことに反歌はその心情をよく表している。
遣唐使に従ってゆくほどであるから相当の年配であろうが、幼子に対するような愛情が見えている。
天ゆく「たづ」に「わが子はぐくめ」というあたり、浪漫的な情緒の中に母性愛が滲み出ており、『万葉集』のなかでもすぐれた歌の一つである。
古日(※「ふるひ」幼くてし死んだ子の名)を悼む長歌の反歌「若ければ道ゆき知らじ幣はせむしたへの使ひ負ひて通らせ(905)」が父性愛をうたった歌と相ならぶ歌である。
当時、船で唐に行くのは海上の危険も多かったので、それを送る母にとっては、子の名誉を喜ぶとともに切ない思いもあったのであろう。


久松さんは類型歌や比較する歌を例によく挙げて説明しておられるのが特徴だと思うのですが、ここの例もまた好対照だと思いました。
ここで挙げておられる歌は山上憶良の歌です。



とりあえずこんなところで。
母性愛のよく出ている歌であるという解説が主ですが、それぞれの研究者の方々の言葉選びや方向性が少しずつ違っているのがまた面白いと思います。

荻原作品と万葉集~「空色勾玉」旅人の…(概要)

ものすごくゆっくり更新にもかかわらず拍手をくださるお方がいらっしゃることに感謝の涙を禁じ得ない兼倉です!
こんばんは!
特に16連パチのお方とフォウ連パチのお方はきっと私に何かしら伝えたいことがある気がしました!フォウフォウ!(「生きているのか、兼倉」的な)

それではさっそく続きです!
今度の歌は空色勾玉の第五章「影」の冒頭につけられた歌です。

旅人の 宿りせむ野に 霜降らば
 ()が子()ぐぐめ (あめ)鶴群(たづむら)(遣唐使随員の母)

旅人が仮寝をする野に霜の降る夜には、どうか我が子を羽で包んでやっておくれ。天翔り行く鶴の群れよ。(訳:伊藤博)

古語ですが意味が分かりやすい歌ですよね。
辛い旅をする我が子を思う母親の優しい気持ちがあふれている素敵な歌です。
実はこの歌は前にある長歌の反歌なのですが、長歌からこの母親には子供が一人しかいないということが分かります。
遣唐使に選ばれるのはかなり秀でた人たちだったはずなので、選ばれること自体は非常に名誉なことですが、やはり母親としてはたった一人の我が子を死ぬかもしれない旅に出すということは非常に辛いことだったでしょう。
当時の旅は辛いものだったということはいろんな記述からわかりますが、とりわけ海を渡って外の国にいくという旅は相当危険なものです。
そんな旅に一人息子を送り出す母の、ただただ無事と安息を祈る歌なのです。

さて、この歌を冒頭に冠する第五章「影」がどんな内容だったか覚えておられますか?
おそらく多くの方が衝撃的な印象と共に覚えておられるでしょう。
前章での怪我から立ち直った稚羽矢は明星と共に一日中駆け回ったり狭也を松虫草の咲いている窪地に誘ったりして束の間の安息を得ます。
しかし、進軍途中で再び襲ってきた国つ神によって明星や柾が死に、さらには少女に扮した照日王によって奈津女が殺され、ついに稚羽矢は暴走して姿を消してしまいます。
狭也はぎりぎりの状況で稚羽矢を見放してしまった自分を責め、伊吹王の遺言と岩姫の助言を胸にもう一度稚羽矢に会う決意をする・・・というのがあらすじです。
この章はたくさん名言があって読み返すとついつい夢中になってしまいます。
万葉集のこの歌と合わせると、より一層感情移入してしまいますね。
この「旅人」とはいったい誰を指しているのか。
傷ついて一人海の底に沈んでいた稚羽矢のことなのか、それともそんな稚羽矢を探すために旅立つ決意をした狭也のことなのか、または女神のもとへ旅立った人たちのことなのか、狭也に振られて衝撃を受ける科戸王のことな・・・わけはないか。(科戸は私がぜひ羽ぐk・・・ガハッ)
いろいろ考えても胸が締め付けられます。
それではもはや恒例ですが、次の補足でこの歌を少々詳しく見てみたいと思います!

【補足】荻原作品と万葉集~「空色勾玉」海ゆかば…

だいぶ間が開いてしまいました!
拍手をくださった方ありがとうございます!
連パチや単パチや、うわあもう本当にありがたや!
いっしょに楽しみましょうね!


というわけで、前回さらっとご紹介した「海ゆかば……」ですが、念のため空色勾玉でどんな章に当てられているのか復習しておきます。

空色勾玉第四章「乱」
岩姫と科戸王、そして配下の男二人という闇の氏族のしのびの一行は、首尾よく狭也と稚羽矢、鳥彦をつれだしたのち、いかだをすてて山中にわけ入った。尾根づたいに進んで峯で一夜を明かし、さらに歩き続けた翌日の午後、斜面を下る彼らの眼下に、行く手の景色が開けた。(本文より抜粋)

こんなシーンから始まる「乱」は、このあと稚羽矢がわだつみの神の言葉を聞いたり、闇の里で奈津女たちにもてなされたりして束の間の平穏を得ます。
しかし岩姫によって稚羽矢が「風の若子」だと宣され、さらに進軍の最中に犠牲を払いながらやっと解き放った「国つ神」から襲撃を受け、それを稚羽矢が切り殺してしまう……という波乱の展開になっています。

そこでもう一度歌を見直してみましょう。

海ゆかば 水漬(みづ)(かばね) 山ゆかば 草むす屍
 大君(おほきみ)の ()にこそ死なめ 長閑(のど)には死なじ

古から続く武の名門大伴家とその分家の佐伯家に伝わる戦歌という説が強いこの歌。
繰り返し読めば読むほど、この歌の凄惨さと勇ましさが強く伝わってきます。
本文中の柾のセリフ「ひるむな。王の名にかけて姫をお守りするのだ」がより一層雄々しく響き渡るような気がします。

さて、このシリーズでは「万葉集」という切り口で荻原作品を見ていく試みなので、家持さんが詠んだこの歌を含む長歌を、万葉集の研究者の方がどう評しているのか覗いてみようと思います。
しかし、ここで一つ問題が。
私の持っている本は基本的にあまり研究色の強くない一般向けの本がほとんどなのですが、そういう本はもっぱら長歌を取り上げていない。
本のはじめのところで大体以下のようなことが書かれています。

A.「万葉集」の中に収められた歌は、かならずしも短歌形式のものばかりとはかぎららないが、紙面のつごうもあって、残念ながら、こちらは省略した。
B.選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数はまず全体の一割ぐらいを見込んで、長歌はやめて短歌だけにした。

という感じなのです。
そんなわけで、今回取り上げるのは多田一臣さんの「大伴家持」と、伊藤博さんの「万葉集釋注」の二冊のみから見てみることにします。
ちょっと少なすぎて偏った見方になってしまうかもしれません。お気を付け下さい。

多田一臣
きわめて長大な作である。
万葉集中三番目の長さをもつ。
もちろん、家持にとっても最大の作である。
この長歌が詠まれた理由は、(聖武天皇の)詔の中で大伴・佐伯の二氏が、祖先以来の忠勤を特記されたことに家持が感動したからである。
しかし、一方でなぜ、聖武がこの二氏に対する格別の信頼を、詔の中で表明せざるをえなかったのかが問題となる。
積極的な理由としては、武門の家柄としての両氏のもつ潜在的な軍事力が、当時の政治動向を左右しかねないような影響力を保持していたことを挙げることができる。
その具体的なあらわれは、皇太子阿部内親王を廃そうとする謀議が、二氏の軍事力を頼みとするかたちで企てられたことである。
佐伯全成(またなり)は、この時「全成が先祖は、清く明く時をたすけき。全成、愚かなりといへども、何ぞ先迹(せんしゃく)を失はむ」と述べて、不同意の旨をあきらかにしたという。
この全成のことばには、大伴・佐伯二氏に通ずる「内兵(うちのいくさ)」としての自覚があらわれている。
聖武が、陸奥国出金詔書の中で大伴・佐伯二氏の名を挙げたのは、動揺する政治情勢の中で、二氏があくまでも「内兵」としての覚悟を保ち、聖武の身辺を離れることのなかった、その忠勤ぶりを嘉みしたかったからであろう。
そうした二氏の姿勢に対する褒賞の意味を、聖武の詔に見ることができる。


もっとたくさん面白いことが書いてあるのですが、これくらいで。
興味のある方は多田一臣さんの「大伴家持」をぜひご一読ください!


伊藤博
家持の作としては最大の雄篇で、深い感動がこもっている。
第十三詔は、「続日本紀」宣命中最大の長篇。
その宣命において、先祖以来今日に至る功績を特記されたのは大伴・佐伯氏だけで、その称揚の言辞は県犬養橘夫人(聖武天皇の妻光明子の母)についで長い。
(さらに家持みずからは)従五位上に昇叙されたことでもあり、家持の感激のほどは察して余りある。
長歌は冒頭で神の命たる天皇の治める葦原の瑞穂の国に貢の宝が満ち満ちていることを述べ、黄金産出に対する天皇の望外の喜びを引き立てている。
陸奥の小田なる山に黄金の発見されたことから説き起こして、大伴・佐伯の両氏こそ、神代以来、絶えることなく、このめでたき世に至る皇室を守り通してきた名族であることをうたう。
(そして続けて)大君の御門の守り手は我が大伴一族以外にはないという思いが、宣命の言葉を聞くにつけてたち優ることをうたう。


というわけで、この歌は大伴・佐伯両氏の覚悟を高らかに歌い上げた戦闘歌謡だったということ、そしてそれを家持さんが心底誇りに思っていたということが分かりましたね!
家持さんは武門の家柄で、その武門とは今の自衛隊のようなものではなく、皇室警察のような、天皇の身辺警護に特化した武門です。
家持さんにとってその守るべき神である聖武天皇から直々に言葉を頂いたことがどれほど誇らしかったか。
ちなみにこの直後に家持さんは長く離れて暮らしていた妻の大嬢を越中国へ呼び寄せているようです。
二人の間の初めての子どもが出来たのはこのあたりだったという推測が各所でなされています。
私の中では家持さんの息子たちは二人とも池主さんの子どもを養子として引き取ったという脳内設定があるんですが、まあどうでもいいですねこれは!(ホントにな)
家持さんまさに人生の春ですね!
この歌は家持さんのその後の人生をいろんな意味で象徴する歌にもなっている(という気がする)ので、見逃せません。
いつかそのことについて書くことができる日は来るのか…どうなのか…(頑張れ自分)

何はともあれ、古代の戦闘歌謡の中ではもっとも勇壮ではないかと(私が思っている)この歌が、空色勾玉で「乱」の章に配された意味をじっくり考えるのは非常に楽しいひと時になることと思います!

Page

Utility

簡易メニュー

薄紅語り
(過去の日記の薄紅天女の妄想語り一覧)
古代史語り
(過去の日記の古事記とか万葉集とか他)
Web拍手
(お気軽に頂けると嬉しいです)
拍手は別窓、語りは同窓で開きます。

日記内検索

カレンダー

< 2024.11 >
S M T W T F S
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
- - - - - - -

コメント一覧