さて、古事記の作者には意図的に(?)消されてしまったオホナムチとスクナヒコナの活躍を、当時の他の書物から抜粋してみようと思います。
万葉集は前々回ご紹介しましたので、ここでは風土記の記述をご紹介します。
・・・とはいえ、私は風土記の書き下し文が載っている資料が1冊しかなく、その1冊もかなり省略されてしまっているのでここでは現代語訳のみご紹介させていただきます。(現代語訳だけの本も1冊しかないのですが・・・)
その旨ご了承下さい。(風土記の原文や書き下し文が載ってるおススメの資料がございましたら是非ご一報下さい!)
<播磨国風土記>
・ハニ岡の里の地名起源説
ハニ岡の里。土品は下の下。
昔、大汝命と小比古尼命が、言い争って
「ハニ(粘土)の荷を肩にかついで遠くに行くのと、屎をしないで遠くに行くのと、この二つのうちどちらがやり通せるだろうか」
とおっしゃった。大汝命は
「私は屎をしないで行こう」
といい、小比古尼命は
「私はハニの荷を持っていこう」
といった。そしてこんなふうに争っていたが、数日過ぎて大汝命は、
「私はもう我慢できない」
とおっしゃった途端、その場にしゃがんで屎をなさった。その時、小比古尼命が笑っておっしゃったことには
「そのとおりだ。私も苦しかったのだ」
とおっしゃって、これまたそのハニをこの岡になげつけられた。だから、この岡を「ハニ岡」と名付けた。(後略)
(一口メモ)
この里の土は粘土で「土品は下の下」とあるように、農耕には適さない。しかし、土器を作るのには適しており、工芸品製作がここの大切な産業であった。最後に賭けに勝つのが粘土を負う神であることは、粘土の荷を負って歩く苦しさを体で知っている村人ならばこその誇らかな感情が読み取れる。
・稲種山の地名起源説
大汝命と小比古尼命の二柱の神が神前の郡のハニ岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、
「あの山には稲種を置くことにしよう」
と仰せられ、ただちに稲種をやってこの山に積んだ。山の形もまた稲積に似ている。だから名づけて稲種山という。
<出雲国風土記>
・多禰の郷の地名起源説
多禰の郷 ここは郡役所に続いている。
天の下をお造りなされた大神大穴持命が須久奈比古命と天の下を巡って歩かれたとき、稲の種をここでこぼされた。だから種という。(神亀三年に字を多禰と改めた。)
<風土記逸文>
※現在風土記は常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五国しか残っていません。
しかも完本として残っているのは出雲国風土記のみで、他の国の風土記はその一部のみが今に伝わっています。
また、上記五国以外の風土記は、他の文献にその引用という形でその存在を確認できるだけです。
風土記逸文とは、その引用されたものを出来る限り集めて復元を試みたものです。(完全に復元できるものはありません)
<伊予国風土記逸文>
・伊社尓波の岡の温泉説話
湯の郡。
大穴持命が後悔するほどはずかしめられ失神していたところ(失神・死に至るまでの前文が省かれている)、宿奈比古那命が、大穴持命を蘇生させるために、大分の国の速見の湯(別府温泉)を暗渠を通して伊予まで持ってきて(道後温泉の由来)、宿奈比古那命が大穴持命に温泉浴させたので、少しの時間の後に蘇った。そうして、声を引いて「暫くの間、寝たことよ」と口ずさんだのであった。蘇って雄たけびし踏みつけた跡は今も温泉の中の石の上に残っている。(略)
(一口メモ)
道後温泉は当時から都人に知られた温泉の一つ。冒頭にはスクナヒコナの治療神・蘇生神としての性格と温泉の効能とが活写されている事物の起源譚である。
<伯耆国風土記逸文>
・粟嶋の地名起源説
伯耆国風土記にいう、――相見の郡。郡役所の西北方に余戸の里がある。粟嶋がある。少日子命が粟を蒔いてよく実ったとき、そこで粟に乗って常世の国に弾かれて渡りなされた。それ故に粟嶋という。
他にもありそうなんですが、とりあえずこんな感じで。
さらっと見ただけでもかなり広範囲にわたってたくさんの説話がありました。
本当に当時は広く親しまれていたんでしょうね。
たくさん面白いことが分かって楽しかったです!(自己満足・・・)
あ、上の中の一口メモは植垣節也さんの「風土記」から引用してます。
約二ヶ月間かなり神話に偏った日記になってました。
それも今週の水曜日の古事記発表のための下準備という部分がありました。
流石に今回は飛ばされないだろうとは思うのですが、どうでしょうね。
とりあえず、お付き合い下さった方は本当にありがとうございました。
これに懲りず、また古事記や他の古代史で面白そうなネタがあったら語ってしまうかもしれませんが、その時はまたよろしくお願いします。