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ちょっとだけ感想@暁のヨナ

大したこと書いてませんが、ほんの僅かでもネタバレは嫌だという方はご覧になりませんように。
しかしネタバレというほどのことは全く書いてません。
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スサノヲとアマテラス~天の岩屋戸神話(後編)~

3.和解と決別の続きです!
前回から大分間が空いてしまいました。スミマセン^^;

前回は遂にスサノヲにキレたアマテラスが「あめ岩屋いはや」(洞窟)に籠ってしまい、高天原たかあまのはら(天の神様が住む世界)と葦原中国あしはらのなかつくに(地上世界)が真っ暗になって災いが満ちて大変なことになったというところまででした。
では早速続きの本文を見てみます!

ここをもちて、八百万やほよろづの神、天の安の河原に神集かむつどひ集ひて、高御産巣日神たかみむすひのかみの子、思金神おもひかねのかみに思はしめて、常世とこよ長鳴鳥ながなきどりを集め、鳴かしめて、(略)伊斯許理度売命いしこりどめのみことおほせ、を作らしめ、玉祖命たまのおやのみことに科せ、八尺やくさの勾玉五百津いほつ御統みすまるの玉を取りけ、中つ枝に八尺の鏡を取りけ、下つ枝に白丹寸手しらにきて青丹寸手あおにきてを取りでて、(略)天宇受売命あめのうずめのみこと、(自分の身を様々に飾り立てて)、天の岩屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸りして、胸乳を掛き出だし、をほとにれき。しかくして、高天原とよみて、八百万の神、共にわらひき。

楽しそうだな八百万の神さまたち(笑)
「咲」の字で「わらう」という状況を表現をするのもまた素敵ですよね。
私も是非混ざってみたいです!(無理)
古事記では八百万の神さまたちはいつも、高天原がピンチになると全員集合します。
この八百万という数はもちろん実際の数ではなく、たくさんという意味で使われています。
また、一般的にも「八百万の神々」という表現をしますが、古事記に限ってはこの「八百万の神」は全員集合した時にしか使われていません。
つまり、全員集合の比喩表現とも取ることができます。
で。
全員集合して話し合った結果「思金神」に意見を求めることに決まりました。
何とも考え深そうな名前の神様です(笑)
この「思金神おもひかねのかみ」が指示したことを下にまとめてみます。

①.常世国(=永遠不変の国)のニワトリを集めて鳴かせる
②.鏡を作らせる
③.勾玉を長く連ねた玉飾り(=御統みすまる)を作らせる
④.さかきの枝を取ってきて、上に御統を取り付け、中ほどに鏡を取り付け、下に白と青の布を取り付ける
⑤.身を様々に飾り立てたアメノウズメが、天の岩屋戸の前で激しく踊る
⑥.激しい踊りで衣が肌蹴るなどしたアメノウズメを見て、八百万の神々が大笑いして盛り上がる

という感じです。
山田永先生の説明を引用させていただきます。

まず鶏を鳴かせる。
夜なのに鶏を鳴かせて、「夜が明けた」と勘違いさせるのではありません。
おそらく、鶏鳴が朝をもたらすとみなされていたのでしょう。
しかも永久不変で不老不死の国といわれている常世国とこよのくにから連れてきた鶏なので、いかにも長鳴きしそうです。
「常世」と「常夜」、音が近い(当時は発音が少し異なる)のも面白い。
「常夜」には「常世」で対抗するつもりなのでしょうか。

次に、鏡と玉を作らせ、榊を準備させ、飾り付けをさせ・・・と続きます。
その一つ一つに、誰に鏡を作らせ、どんな玉で、どこの榊か云々の詳しい説明が付いています。(※上では場所の説明は省略してます@兼倉)
アメノウズメが身につける植物の描写も、一見するとわずらわしいほどです。(※これも省略してます@兼倉)

でも、こういう表現が、神話の神話たる「装い」なのです。
何しろアマテラスを石屋から誘い出すという大事な祭りですから、そこらあたりの榊ではまずい。
「装い」を加えて、由緒正しさを現しているのです。


長々と説明することで、由緒正しいことを証明するというのが、古事記神話の常套手段ということだそうです。
確かに今でも例えば「なんでも鑑定団」で鑑定品を紹介する時、ただその物だけを紹介するのではなく、それを作った人物の生い立ちやその物が作られた経緯、果てはそれが依頼者の元にたどり着いたエピソードまで語られて、視聴者にいかにも価値のあるものだと思わせますよね。
その物自体の価値は、一部の人を除いて、物を見ただけでは分からないのですから当然です。
この手法は何と神話が書かれた時代から引き継がれてきた由緒正しい●●●●●方法だったというわけですね。

話がずれました。
戻します。
さて、こんなドンチャン騒ぎを岩屋の中で聞いていたアマテラスはどうしたのかというと。

ここに天照大御神、あやしとおもひ、あめ石屋いはやの戸を細く開きて、内にらししく、
こもすによりて、あまの原おのづかくらく、また、葦原中国も皆闇けむと思ふに、何のゆゑにか天宇受売はあそびをし、また、八百万の神はもろもろわらふ」
とのらしき。

アマテラス
「私がこもってるから高天原も葦原中国も暗いはずなのに、どうしてみんな楽しそうにしているのかしら・・・?」

アマテラスといえでも、当然気にならないはずがない(笑)
「戸を細く開きて」という表現が妙にかわいいですね。
気になるけど、まだ警戒している感じです。
さあ!ここからが大事ですよ!
続きを見てみます!

天宇受売がまをしてはく、
が命にして貴き神のすが故に、歓喜よろこわらあそぶ」
と、かく言ふあひだに、天児屋命あめのこやのみこと布刀玉命ふとたまのみこと、そのし出だし、天照大御神にしめたてまつる時に、天照大御神、いよよあやしと思ひて、やをやく戸より出でて、臨みす時に、そのかくり立てる天手力男神あめのたぢからをのかみ、その御手みてを取り引き出だすに、すなは布刀玉命ふとたまのみことしりくめ縄をもちて、その御後方みしりへわたして、まをして言ひしく、
「これより以内うちかへり入ること得じ」
といひき。かれ、天照大御神の出でしし時に、高天原たかあまのはら葦原中国あしはらのなかつくにと、おのづから照りあかること、得たり。

アメノウズメ
「アマテラス様よりも貴い神様がいらっしゃるので、皆は喜んでいるんですよ!」
アマテラス
「え!?」
アメノコヤ・フトタマ
「(アマテラスの前にを差し出す)」
アマテラス
「(身を乗り出して覗き込む。にはアマテラスの姿が映る)」
アメノタヂカラヲ(←隠れてた)
「捕まえた!!」
アマテラス
「あ!」
フトタマ
「(岩屋にしめ縄を張って)もうこの中に入っちゃ駄目です」

アマテラス捕獲作戦は大成功しました!
それにしてもアメノウズメの受け答えからフトタマのしめ縄を張って宣言をするまでの流れがあまりにも完璧というか、絶妙のタイミングで皆が動いていますね。
これも全て「思金神おもひかねのかみ」の作戦通りということでしょうか。
頭脳派な神様です!(ドキドキ)(←頭脳派に弱い兼倉)
因みに天津神の頭脳派担当がこの「思金神おもひかねのかみ」なら、国津神の頭脳派担当は何と言っても「久延毘古くえびこ」というカカシの神様です。
カカシなのでその土地から動けないのですが、この世のことなら何でも知っている博識な神様なのです!
・・・おっと、また話がずれてしまいました。
久延毘古についてはまたいつか機会があったら語りたいです。
あ、あと余談ですが(またか)、この時、アマテラスの姿を映したは後の天皇家の三種の神器の一つとなります。
ご存知、「八咫鏡(やたのかがみ)」ですね。

さて、長々とやってきました「スサノヲとアマテラス」はこれで終了です。
このあとスサノヲは八百万の神たちに「ひげ」と「手足の爪」を切られて追放(=かむやらひ)されます。
追放された先は・・・そう、出雲国の斐伊川のほとりです。(※本当は追放された直後に別の神話がちょっとだけ挟まってますが)
ここからスサノヲはクシナダ姫と出会って夫婦となり、オロチを倒して出雲国に安寧をもたらすのです。
スサノヲとクシナダが新居を構えた土地「須賀(すが)」で詠んだという歌は大変有名なあの歌ですね。

八雲やくも立つ 出雲八重垣やへがき
 つまみに 八重垣作る その八重垣を

平安時代に書かれた古今和歌集の序文で紀貫之は、この歌を「日本最初の三十みそひと文字もじだ」と言っているそうです。
まぁこれはあくまでも神話なので、それが真実ということではないのですが。

何はともあれ、ここまで付き合ってくださった方(もし奇跡的にいらしたら)本当にありがとうございました!
こんなに長々とするつもりではなかったのですが、気付いたらこんなことに・・・。
次にやる時はもう少し簡潔にできるように頑張りたいです。

スサノヲとアマテラス~天の岩屋戸神話~

3.和解と決別です!

<前回までのあらすじ>
イザナキの怒りに触れて「神やらひ(追放)」されたスサノヲは姉アマテラスに別れの挨拶に赴くが、アマテラスはスサノヲが高天原を奪いに来たと誤解して、完全武装で迎え討つ。
スサノヲはアマテラスの誤解を解くため、「ウケヒ(誓約)」によって己の清明心の証明をしようと提案した。
ウケヒの方法は互いの持ち物から神(子)を生まれさせることにする。
アマテラスはスサノヲの剣から「女神を三柱」、スサノヲはアマテラスの勾玉から「男神を五柱」化成させた。


遂に天の岩屋戸神話の序章が始まります!
天の岩屋戸神話とは、スサノヲの蛮行にアマテラスが怒って洞窟(天の岩屋戸)に籠ってしまい・・・というあれですね!
早速続きの本文を見てみましょう!

ここに天照大御神、速須佐之男命はやすさのをのみことらししく、「の、のちめる五柱の男子をのこは、物実ものざねが物にりて成れるがゆゑに、おのづかが子ぞ。める三柱の女子めのこは、物実なむちが物に因りて成れるが故に、すなはち汝が子ぞ」と如此詔かくのきき。

アマテラス
「私の勾玉から生まれたから五柱の男神は私の子、あなたの剣から生まれたから三柱の女神はあなたの子よ」


アマテラスの一方的な宣言により、持ち物の主が子どもの親となることになりました。
生んだほうじゃないんですね。
古代では息よりも物実の方が重要だったということでしょうか。
因みにここで生まれた「五柱の男神」の長男「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」・・・略してオシホミミは後に天下る天孫ニニギ(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)の父親であり、初代神武天皇にとってはひーひーおじいさんになります。
では続きを読みましょう。
恐らくこのシーンは皆様が大変よくご存知のシーンかと思いますので、ちょっと長いですが一気に進みます。

 しかくして、速須佐之男命、天照大御神にまをさく、「が心清くあかきがゆゑに、我が生める子は、手弱女たわやめつ。これにりて言はば、おのづかあれ勝ちぬ」と、云ひて、勝さびに、天照大御神の営田つくりたのあをはなち、その溝を埋み、また、その、大嘗おほにへきこしめす殿とのくそまりらしき。かれしかすれども、天照大御神は、とがめずしてらさく、「くそごときは、ひて吐きとこそ、がなせのみこと如此為かくしつらめ。又、田のあをはなち、みぞむは、ところをあたらしとこそ、如此為かくしつらめ」と、りて直せども、なほしきわざ、止まずしてうたたあり。天照大御神、忌服屋いみはたやして、神御衣かむみそを織らしめし時に、服屋はたやいただき穿うかち、天の斑馬ふちうま逆剥さかはぎに剥ぎて、(皮を)おとし入れたる時に、天の服織女はたおりめ、見驚きて、陰上ほときて死にき。

 かれここに、天照大御神、かしこみ、あめ石屋いはやの戸を開きて、しこもりしき。

しかくして、高天原皆暗く、葦原中国ことごとくらし。これによりて常夜とこよきき。ここに、よろづの神の声は狭蝿さばえなす満ち、万のわざはひことごとおこりき。

スサノヲ
「私の心が清らかだったので、手弱女を得たのです。私の勝ちです
アマテラス
「・・・!」


そんな前提いつ決まったんだ・・・!?
とちょっと面食らいますね。
古事記に否定的な人たちはよく「古事記は矛盾が多い」といいますが、ここもその引き合いに出される中で有名な場面の一つです。
「ウケヒ」は、それを行う前に必ずその勝利条件を宣言しないといけません(例えば「女神が生まれたら勝ち、男神が生まれたら負けとする」など)が、前回でも触れたとおり、それが行われていないのです。
では古事記を(否定している人たちよりは好意的に)研究している人たちはどう解釈しているかというと、大まかに分けて次の3通りです。

A. 当時の祭祀行為においては女尊男卑の感覚があったため、前提が無くとも女性優位な結果で問題なかった

B. 古事記は持統天皇(女性天皇)を意識して書かれたため、女性優位な話を作った

C. 勝敗がはっきりする完全な形のウケヒを行うと、スサノヲが勝ちならアマテラスが負けということになってしまうので、絶対神を汚さないためにあえて不完全な形のウケヒ(前提の言葉が無い)を行うことによりそれを回避させた


大体私が読んだ本ではこんな感じでした。
それぞれに「なるほど」と思う部分と、「それはどうなんだろう」と思う部分がありますけれども・・・。
個人的な感覚を述べると、B.C.はともかくA.はちょっと難しいかなぁと思っています。
あくまでも個人的な感覚ですが、古事記が書かれた当時(奈良時代)においては、祭祀行為の重要性は弥生時代なんかと比べるとかなり低くなっていたのではないかと思います。
古墳時代末期(飛鳥時代)に仏教が入ってきて更に追い討ちをかけている気もしますし。(仏教は女性優位ではない)
仏教の隆盛はもう少し後の聖武天皇(奈良の大仏を作ったり、全国に寺を作る命令を出したりした)からだとは思いますが、それでもこの当時もかなり普及していたでしょうし、それを考えるとちょっと無理が出るのでは?と思っています。
ただ、この神話がもしもっと昔の感覚を引き継いで語られてきたのだとしたら別ですが。
まぁ無理に結論を出す必要はありません。
私たちは学者ではないので古事記の色々な解釈を楽しめばいいのです。
で。
スサノヲはウケヒによって勝ちを宣言して「勝さび」という行為を行います。
「勝さび」とは古事記の造語で、意味は「勝った者に相応しい行為を行うこと。また、その行為自体をいう」そうです。
スサノヲの蛮行としてよく絵本なんかにも書かれていますが、アマテラスはそれを「詔りて直」します。
「詔り直し」も古事記の造語です。
当時は「言霊(ことだま)」と呼ばれる「話した言葉が現実にも影響を与える」という考え方がありました。
アマテラスが「言霊」によってスサノヲの蛮行を善行に変えようとしたと考えられます。
スサノヲの「勝さび」とアマテラスの「詔り直し」を並べてみます。

①. アマテラスの田の畦道を破壊する
⇒土地が勿体無いと思って溝を埋めた

②. 収穫感謝祭(※大嘗)の御殿に糞便を撒き散らす
⇒糞便ではなく酔って仕方なく嘔吐してしまったもの

③. 斑馬を逆剥ぎにしてその皮を忌服屋に投入する(結果的に服織女が死亡するが、これはスサノヲが行ったわけではない)
⇒「詔り直し」せず(できず)天の岩屋戸にこもる

概ねこのような感じです。
始めは何とか「詔り直し」ていたアマテラスですが、最後の最後でキレてしまいます。
天津神は「死」とは隔絶された神様です。
高天原の天津神は「死ぬ」ことも「老いる」こともありません。
それゆえに最後の③.「詔り直し」をしなかったのではなく、出来なかったのでしょう。
折角ウケヒによって清明心を証明してアマテラスと和解できたスサノヲが、なぜこのような「勝さび」を行ったのか。
これは前回までの2.でも書いた「すれ違い」による解釈が一番しっくりきましたのでご紹介します。

 ウケヒに勝って証明された身の潔白、つまり、高天の原を我がものとするような異心は無いという清明心は、根の国を志向するスサノヲの心情と重なり合うことがわかる。スサノヲの内性は根の国と強く結合している。(略)
 勝さびとはスサノヲがその本来の内性を発露する行為であった。そのようなスサノヲとは根の国を志向し、根の国の主として振舞う神である。だから、勝さびの勢いで引き起こされる事態は、きわめて根の国的なものといえる。(略)(スサノヲの勝さび行為やアマテラスが天の岩屋戸にこもった後に出現する世界)は、大祓や道饗祭の祝詞に、罪と災いの源泉とされる根の国のイメージと重なり合う響きがある。(略)
 アマテラス大神とスサノヲのかみ合わない関係の背後には、高天の原と根の国のぬきさしならぬ対立がある。
(西條勉説)

つまり、スサノヲの「勝さび」は根の国に相応しいスサノヲにとって適した行動であり、それを蛮行という解釈に歪めてしまうのは高天原世界の秩序と根の国の秩序がかみ合わないためという解釈です。
スサノヲもアマテラスも自分自身はお互いに対立を回避して何とか融和と親愛の関係を模索しているように見えますが、それぞれの属する世界の秩序がそれを邪魔してしまっているわけです。
まさに「すれ違い」ですね。
そう解釈すると、この二柱の姉弟神の関係はどことなく切なさを感じさせるものになります・・・。
あと、最後の「ここに、よろづの神の声は狭蝿さばえなす満ち、万のわざはひことごとおこりき。」という一文、ご記憶にございますでしょうか?
これはスサノヲが泣きわめいていたときの状況を説明する文章とそっくりです。
神としての厄災の起こし方が似ているところから、やはりこの二神は姉弟なんだなぁと感じます。(※これは私が勝手に思ってるだけで根拠はありません)
なお、②.に関しては、「屎」が「嘔吐物」に変わっても大した違いは無いような気がしますが、実はこれは酔う事は神を迎えることであり、それによって嘔吐することは咎められることではないという解釈があります。(三浦佑之説)
また、③.に関しては皮を剥いだ「馬」の方か剥いだ「皮」の方かで議論がありますが、本文に「斑」や「逆」とあるのを効果的に使うならやはり「皮」の方が正しい気がします。(山田永説)

さて、今回はここまで。
次回はついに天の岩屋戸神話のメイン!
岩屋戸にこもるアマテラスとそれを引っ張り出そうとさまざまに苦心する他の神々との白熱した攻防です!

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