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弥生時代の風景

5月29日に鳥取県の妻木晩田遺跡にいって、考古学講座を聴講してきました!
凄くすごく楽しかったです!

今年度の妻木晩田遺跡考古学講座は年間通じて「むきばんだの景観を考える」を共通テーマに全5回行われるそうです。
「景観=ムラの姿+自然環境」とのご説明でした。
これを聞いて物凄く興奮しましたよ!
なんせ私が一番興味のあることですから!
弥生時代の人々はどんな景色の中で、どんなことをしながら、何を考えて生きていたのか。
もちろん個人個人や弥生時代の中でも時期によって大きく違いがあることですが、大まかに迫ることくらいなら出来るのではないかと常日頃から思っています。

で。
今年度第一回の講座は

「妻木晩田遺跡の植生環境と弥生時代の植物利用」

というタイトルで行われました。
内容は大まかに

1. 過去の植生環境を知るには?
⇒遠い遠い遥かな昔を私たちが垣間見る魔法

2. 弥生人の植物利用
⇒弥生時代の人たちが傍らに置いていたモノ達

3. 妻木晩田遺跡周辺の植生環境
⇒妻木晩田のムラの人たちが愛した風景

夢見がちな副題は私が勝手につけました(笑)
歴史やってくには夢(ロマン)が大事なんですよ!(言い訳という名の照れ隠し)

ではではまず1.から見てみます。
当時は今のようなコンクリートやアスファルトは当然ながらありません。
弥生時代は今よりもずっとずっと自然の近くでそれを利用しながら(=依存しながら)生きていたのです。
よって、弥生時代の風景を知るにはまず、当時生えていた植物を調べることになります。
でも二千年も昔に生えていた植物をどうやって調べるの?
そもそもそんなこと本当に出来るの?
と、思う方もいらっしゃると思います。
結論から言うと、出来ます!
その方法をご紹介。
主に以下のようなプロセスを踏みます。

① 発掘調査
 ⇒土器や木器、建物の部品などの大物を掘り出す
② 地質調査
 ⇒地下数十メートルの深さの土を取り出して花粉や種子
などの微小な物を取り出す
③ 化学分析
 ⇒①②で得られたものを科学的に分析する

な、なるほどねー!
これまで他の講座ではこのあたりで出てきた花粉がどうの使われてた建築部材のスギがどうのみたいな話が突然出てきていましたが、このような段階を踏んで得られたものだったんですね!納得!
講座ではこれらの方法についてそれぞれ細かく説明してくださいましたが、専門的な話なのにとても分かりやすくて(分かったつもりになっているだけなんですが^^;)面白かったです!

では次。
1.の方法で2.の弥生人がどんな植物を利用して生活していたのかが分かりましたのでご紹介。
当時の植物の利用方法としては大きく分けて2種類です。

① 生活資材
 ⇒木器(食器、農具、狩りの道具など)、建築材、土木材、燃料、染料
② 食料
 ⇒自生植物(採集)、栽培植物(農耕)

これも講座ではそれぞれ詳しくこの道具にはこれ、この建築部材にはこれ、みたいなものを詳しくご紹介いただきましたが、いやー、驚くほど豊富な種類がありました!
しかもそれを用途によって細かく使い分けているんですよね。
ちょっとご紹介すると
<建築材>
⇒シイ、クリ、ケヤキ、スギ(堅く重い、湿気に強い)
<農工具>
鋤、鍬⇒カシ(堅く非常に重い)
木包丁⇒ケヤキ(堅く非常に重い)
斧の柄⇒サカキ(堅く緻密)
槌、鎌、匙(さじ)⇒ヤブツバキ(堅く緻密)
高杯、椀⇒クワ(堅く重い、木目が美しい)
曲物の底板、蓋(ふた)⇒ホオノキ(柔らかい)
<武器>
楯(たて)⇒モミ(白色で美しい、適度な堅さ)
弓⇒カヤ(緻密で弾力性がある)



などなど
・・・いやぁ。
覚えられない(爆)
それぞれの道具で使う材料が違うのが凄いです。
重なってるの殆ど無いし。
弥生時代の人々は本当に自然に対して豊富な知識と知恵をもっていて、それを生かしながら生活してたんですね。
この他、木の皮で編んだかごの写真も紹介していただきましたが、かなり高い完成度のカゴでした。
絶対千種レベルで手先の器用な人じゃないと作れないと思います。
凄すぎるぜ弥生時代の人・・・。
当時はカゴつくり名人とかいたのかなぁ・・・。
木包丁つくり名人とか。

※※妄想※※
<パターンA>
男「おい、昨日木包丁作ったけど、作りすぎちまったから欲しいなら一つやるよ」
女「え、本当!?(←不器用)ありがとう!」
男「(照れ)・・・お、おぅ」(←実は片思い)

とか

<パターンB>
女「ね、ねぇ。カゴがうまく作れないの。その・・・だから、また作り方を教えてもらえないかしら」(←実は片思い)
男「またか。まったくおまえはいつまで経っても下手くそだな。・・・ほら、貸してみよろ」(←まんざらでもない)
女「ありがとう!」

とかね!(止まらない妄想)

まぁ私の妄想はどうてもいいとして、妻木晩田遺跡は全体的に広葉樹が多かったようです。
針葉樹はマツが目立つくらい。
実はこれ、現在の妻木晩田遺跡の自然とかなり近いようです。
つまり、あの遺跡の景色は弥生時代の人々が見ていた景色と同じ(かもしれない)わけですよ!
そう考えると遺跡を見る目が変わるではないですか!
今までは復元建築物や四隅突出型墳丘墓なんかの遺構を主に見ていましたが、これからは周りの木々も萌え対象というわけですね!大興奮!イエア!

では最後!3.妻木晩田遺跡周辺の植生環境とは!?
レジメをそのまま転記させていただきます。
<特徴>
居住域外の森林部は、アカガシ亜属、コナラ亜属等の広葉樹を含むアカマツ林(マツ属)。林床部にササ類。
居住域縁辺の林縁には、カラスザンショウ、アカメガシワ等の先駆種。
居住域内は、明るい乾燥した草地で、キク亜科、イネ科、タンポポ亜科、ヨモギ属、ササ類等。

⇒ある程度伐採され二次林化した森、先駆種が生える林縁部、切り開かれた明るい居住区、の3つを推定
⇒激しい体積や浸食など荒地で人為的なとち改変が推定


弥生時代は今とは比べ物にならないくらい森林(木材)に依存して生きていました。
よって、木々は伐採され、森は今よりももっとまばらで、かなり明るくなっていたことが推定されるそうです。
弥生時代は花粉の残りも悪いらしく、明るくなった結果、花粉が紫外線で消滅したのではないかとのことでした。
なるほどー!
講座では<縄文時代><弥生時代><古墳時代~中世><近世~現代>がそれぞれ当時の様子を描いたイラストで説明されていてとても分かりやすかったです!
やっぱり文字で説明されるよりも、目で見るほうがよほど分かりやすいですね!
というわけで、撮影した写真を掲載させていただきます。
写りが極端に悪い上に斜めっててスミマセン(汗)
全部私の席位置と腕の問題です。


<縄文時代>

※噴出し内は「カシ類やコナラなどの木が多い森」と書かれています。
また、この時代の地層からは何千もの落とし穴が見つかっているそうです。
ということは、縄文時代のこの場所は、人間ではなく動物などが多く暮らす深い森だったということなのでしょうか。

<弥生時代>

※噴出し内は「居住域周辺 クリ、コナラ、アカマツなどの林、林床にはササ類」「居住域内 タンポポやヨモギなどの草地」と書かれています。

<古墳時代~中世>

※噴出し内は「コナラやカシ、アカマツなどが生える林」と書かれています。

<近世~現代>

※噴出し内は「アカマツ林、畑などに利用されていた」と書かれています。

やっぱり目に見えるのっていいですねー!
一気に当時の情景に心が飛んでしまいます。
もうホントにホントに楽しかったです!
私の説明は大変下手で分かりにくいかと思いますが、講座自体は凄く分かりやすくて楽しかったんですよ!本当です!
上の内容はかなり省略しています。
実際はもっとたくさんご説明いただきました。
・・・いつも説明が下手でスミマセン・・・。
きっと私のつまらない文章をここまで読んでくださった方はいらっしゃらないと思いますが、もし万が一いらっしゃった場合は本当にありがとうございました&お疲れ様でした!

一秒ごとに新たな表情を見せる、ライカWatchの新作「ライカZM 11」

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 卓越した技術と比類なきクラフツマンシップを体現した「ライカZM 11」は、150年以上にわたってライカが革新とデザインにおいて新しい視点を生み出すために果敢に取り組んできた成果の賜物と言えます。一秒ごとに新たな表情を見せる「ライカZM 11」コレクションは、見るたびにその姿を変えているかのようです。「ライカWatch」コレクションに今回新たに加わる3つの個性溢れるタイムピースは、ブラックとレッドの文字盤を備えた250本限定の「ライカZM 11 Titanium Launch Edition」、温かみのあるブラックの文字盤を備えた「ライカZM 11 Titanium Coffee Black」、ブルーとブラックの文字盤を備えた「ライカZM 11 Steel Midnight Blue」で、3種類のバンドの中からお選びいただけます。

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ライカZM 11
ケース径:41mm
ケース厚:13mm
ケース素材:ステンレススチール(316L)またはチタン(グレード5)
ストラップ:加硫処理のラバーストラップ、または、コーデュラファブリック製ストラップ、または、ステンレススチール(316L)製またはチタン(グレード5)製の一体型ブレスレット、イージーチェンジシステム(ストラップ交換)
防水性:100m/10ATM(ISO 2281準拠)
ムーブメント:自動巻、Cal.ライカLA.3001(スイスのクロノード社との共同開発)、約60時間パワーリザーブ、毎時28,800振動(4Hz)、35石
仕様:時・分表示、センターセコンド、日付表示(クイック調整機能付き) 、ねじ込み式リューズ(クイック日付変更と時刻合わせモード)、二層構造のダイヤル(インナーベゼル、印刷のミニッツトラック) 、5年間の国際保証

https://www.aimaye.com/

継体天皇!(完成)

継体天皇の人気にあやかって、継体天皇についてちょっと詳しく書いてみたいと思います!
継体天皇は今から千五百年前の天皇(大王)です!
その謎に包まれた魅力的な人物像とは!?

<継体天皇の基本>
・5C~6C頃(古墳時代)の天皇
・越前国(福井県)出身
・応神天皇5世の孫

※ちなみに応神天皇は3C~4Cの天皇で、ヤマトタケルの孫にあたるお方です。実在が濃厚な最古の天皇(この時代は大王)といわれています。

<注目の話題>
・王朝交代説
・磐井の乱
・今城塚古墳

継体天皇で最も注目度の高い話題はやはり「王朝交代説」でしょうか。
この「王朝交代説」について、私がいろいろ集めた俄か知識をメモ程度の内容で記述してみたいと思います!

<ロマンあふれる色々な「王朝交代説」>
・騎馬民族征服説
・三王朝交代説

「騎馬民族征服説」とは、「東北ユーラシア系の騎馬民族が、南朝鮮を支配し、やがて弁韓を基地として日本列島に入り、4世紀後半から5世紀に、大和地方の在来の王朝を支配ないしそれと合作して大和朝廷を立てたという説」です。(wikipediaより引用)

王朝交代説とは、戦後になって皇室の万世一系の思想にメスを入れた画期的な説です。
「騎馬民族征服説」という説が出されて学会に大きな論争を巻き起こしました。
これは1950年代に出された説なのですが、その後数十年にわたって賛否両論を含む大きな影響を与え続けたようです。
この学説が正しいか正しくないか以上に、それ程の内容を発表なさったという点において「江上波夫」さんは本当に偉大なお方だったのだと思います。
因みに手塚治虫さんの『火の鳥・黎明編』 は、この「騎馬民族征服説」を採用しているそうです!びっくり!
そして、この説の論争から生まれたのが次の「三王朝交代説」です。
この説を簡単に説明すると古代の王朝は「古王朝(4C)」「中王朝(5C)」「新王朝(継体天皇以降~)」となるという説です。
これを始めに唱えたのは「水野祐」さんという方なのですが、その後何人もの学者の方に受け継がれて大きく発展していきます。
この「古王朝」「中王朝」についても色々説はあるようですが、今回は継体天皇を中心に語らせていただくために、他の話題は省かせていただきます。
で、「中王朝」から「新王朝」への移行。

<「中王朝」から「新王朝」への移行はスムーズだったのか、波乱に満ちたものだったのか>
・簒奪による王位継承
・近隣の豪族の協力を得たスムーズな王位継承

武烈天皇の死後、(中略)中央に対する地方の動乱が生じた。この形勢に乗じ、風を望んで北方より立った豪傑の一人が、応神天皇五世の孫と自称する継体であったのではなかろうか。彼は徐々に(中略)勢力を培い、ついに大伴氏をも味方につけることに成功し、これを先導として大和に突入し、物部氏をも服さしめて反勢力の中心を打倒し、磐余玉穂にはいって、名実ともに皇位を継いだのではないかと考える。(「継体朝の動乱と神武伝説」直木孝次郎・岡田精司より引用)

風を望んで北方より立った豪傑・・・!
かなりロマンを掻き立てられる表現ですね!
歴史系の論文はたまにこういう小説にでも出てくるような表現がされててとても楽しい!(大半難しすぎて読めませんが)
で、これを読む限り、直木さんと岡田さんは継体天皇は簒奪によって旧王朝から王位を継承した、という立場のようです。
しかし他の立場の方もいます。

武烈が亡くなったあと、大伴金村大連によって、継体は擁立された。しかるに、大和や河内の豪族の一部にこれを快く思わなかった一派があり、継体の大和入りは阻止された。継体が樟葉や筒城・乙訓の地を転々としたというのも、おそらくそうした事情を語っているものと推察される。(「継体大王家の成立」山尾幸久より引用)

これはさっきの説とちょっと違いますね。
さっきのはほぼ100%簒奪での王位継承でしたが、こちらは大和内の豪族の協力を得ての王位継承のようです。
ただ内部に反乱分子もあったので割合的には50%くらいでしょうか。
あ、因みに云うまでも無いかもしれませんが上に出てくる大伴金村大連は万葉集の大伴旅人・家持のご先祖様ですよ!(家持にハマって以来大伴一族にかなり興味が出てきている今日この頃)
この他「雄略天皇没後、仁賢を擁立しようとする勢力と継体を擁立しようとする勢力の間に分裂が生じたが、最終的に継体が仁賢の娘と婚姻することによって妥協が成立した(「日本古代の王権と氏族」大橋信弥)」とする説や「継体の即位は大伴氏、物部氏によって承認され、平和裡に迎えられたものであって、地方豪族の武力による王位簒奪などではない(「応神王朝の衰亡」加藤謙吉)とする説など、様々な論が出されていていますが、未だに定説らしいものはないようです。

<継体天皇が後の時代に与えた影響の大きさ>
・天皇は皇族出身者しか即位できない
・天皇は臣下が擁立することが出来る

継体天皇の即位が実際どのようなものであったにしろ、その経緯は大変特異なものであったのは間違いありません。
これは後の時代の様々な場面で大きな影響を与えました。

継体天皇の即位は、その後長く王位継承が混乱するたびごとに思い返されてきた。とりわけ、正当性に問題のある天皇が即位するときには、必ずといっていいほど先例とされてきた。(中略)継体の即位は、その後の王位継承に二つの規定をしているようにみえる。
ひとつは(中略)かれのような遠い傍系の天皇の存在が、かえって何時いかなる場合でも王族しか天皇にはなれない、という原則を強調する効果をもっているのだ。
ふたつめに、(中略)臣下によって天皇が推戴された先例として継体の即位はとらえらえられている。王位継承の混乱時に臣下らが次の天皇を決定することは、一見王位を私する不敬なふるまいのようにもみえる。しかし臣下が君のため世のため、世を治める方向で君を立てたものであれば、それは正当化されるのである。(中略)これはのちには、臣下による天皇擁立を無原則に容認する方向に向かっていく。(「謎の大王 継体天皇」水谷千秋)

この後は皆様ご存知の通り、天皇の即位について段々と臣下(貴族や武士など)が介入してくるようになり、江戸時代にはついに武士の承認が無くては天皇は即位も退位すらもできなくなってしまうというところまでいってしまいます。
もちろんそれはもっともっと複合的な要因があってのことだとは思いますが、やはり継体天皇はその先例として各時代、各人物によって都合よく引用されたようです。

とりあえず、私が約2週間程度で得た知識を簡単に書いてみました。
いろいろツッコミどころは多いかと思いますので、ご意見ご感想などございましたらお気軽にお知らせ下さい。
なお、今回は端折りましたが「磐井の乱」「今城塚古墳」についても凄く面白そうですよ!

◎「磐井の乱」は壬申の乱に並ぶ古代の大戦乱です。
九州の豪族「磐井氏」と継体天皇時代の大和政権指揮する「官軍」との二十年に及ぶ戦です。
日本書紀にはその経緯がかなり詳しく書かれていますが、古事記には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけ、「筑後国風土記」には「官軍が急に攻めてきた」と記述されていることから、かなり大きな謎があるように思われます。

◎「今城塚古墳」はやっぱり私が初めて訪れた「きちんと保存された本物の古墳(復元じゃなくて)」なので勝手に愛着が(むしろ地元の古墳よりも←ェ)湧いていて、帰ってきてからも過去に買い集めた考古学資料をひっくり返しては色々調べてニヤニヤしてます。
ここで発掘された家型ハニワは日本最大級の高さ170センチだそうですよ!
私の身長が176センチなので、ほぼ目線の高さです!ひえー!

あ、結構いろんな説を引用させて頂いていますが、ほとんどが「謎の大王 継体天皇」から孫引きさせて頂いてます。
とても読みやすい本でした!

古代は楽しいです!
これからももっと色々調べていきたいと思います!
ここまで私のつまらない文章を読んでくださった方(いらっしゃるのかどうか・・・汗)、お付き合い下さってありがとうございました!

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