Entry

本歌取と万葉集(前置き)

はじめにお返事いたします!

りんこさん

>「荻原作品と万葉集」の語りをありがとうございました。
>何度も読みにお邪魔しております。


何とうれしいお言葉!
書き手冥利に尽きます(感涙)
古墳&フォウチェックもいつもありがとうございます!フォウ!

>100分de名著で学んだこと
「勝ったものは歴史を作るけれども負けたものは文学を作る」 
>おおぉぉぉかっこいい~~~
>いつも解説の先生が素敵です。
>いじゅういんさんもするどくて素敵です。


実は「100分de名著」はまだ見てないんですよ。
4回揃ったら一気に見ようと思ってます。
「勝ったものは歴史を作るけれども負けたものは文学を作る」
ものすごい名言ですね・・・!ドキッとしました!
早速メモ帳に書き込みます。
解説の佐佐木幸綱さんは佐佐木信綱さんのお孫さんなのですね。
私が初めて万葉集そのものに触れたサークルで、
「現代の万葉集の本は佐佐木信綱さんの『校訂万葉集』が元となって、そこに新たに研究結果を加えたり訂正したりしています」
と紹介しておられたので、ずっと頭の片隅で気になっている人でした。
良い機会だと思ったので、幸綱さんの方の著作を数冊買い物かごに入れてみました。
たまったらまとめて購入しようと思います。
拍手のみのお方もありがとうございます!
すごく、すごくうれしいです!
一緒に楽しんで頂けそうな面白い話題をたくさん見つけていこうと思っております!
今後ともよろしくお願いします!


さて、それでは新たな話題を書こうと思います。

「本歌取りと万葉集」

「本歌取り」は「本歌取」と書かれることもかなり多いですが、ここでは「本歌取り」と書かせていただきます。読みは同じ「ほんかどり」です。
ここでは、万葉集の歌に由来するものに限定してご紹介いたします。
ところで、「本歌取り」ってそもそもどんな意味なのか?
確か中高生時代に習った時は、「元の歌の一部を使って新しい歌を作ること」みたいな意味だったような・・・?というあいまいな記憶だったので、調べてみました!
「本歌取り」の定義は意外と厳密なものでした。
例えば、以下のような歌は「本歌取り」には当てはまりません

あしひきの 山のしづくに
 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに  (大津皇子)

吾を待つと 君が濡れけむ
 あしひきの 山のしづくに ならましものを  (石川郎女)

大まかな意味は
大津「いとしい君を待っていたら、山の雫に濡れてしまったよ(※待ちぼうけしたことを意味している)」
石川「私を待っていたあなたを濡らした山の雫になってしまいたいわ」

ちょっとドキドキする歌ですね。
万葉集に載っている恋のやり取りをしている歌です。
一見、「あしひきの 山のしづく」「待つと」「濡れ」などのキーワードが共通しているので、「本歌取り」といえそうな気がしますが、違います。

定義その一
意識的有名な古歌(本歌)の言葉、思想、趣向などを自作に取り入れて歌を作る方法。


まず「本歌取り」とは、あくまでも「有名な古歌」であることが必要です。
上記の恋歌は当然同時代の二人が個人的にやり取りしているので、「本歌取り」には含みません。
恋の歌は、もらった歌の一部を引用して返歌しているものが非常に多いです。
恋歌の返歌のお決まり表現なのです。
「本歌取り」はこのような表現とは定義を異にしています。
また、偶然同じような表現になっているものも、当然ですが含みません。
必ず「意識的」に引用しているものです。
※「偶然」とか「有名」とかは定義がちょっと難しいですが、私の時間と力量の都合上ここではそれには言及しません。
さらに、もう一つ重要な定義があります。

定義その二
・オリジナルの存在とそれに対する敬意を持った上で、独自の趣向をこらしている。


オリジナルをそのままコピーしている歌は当然ですが該当しません。
大体本歌の一~二句を引用しているものがほとんどです。
万葉集の歌が百人一首で少し形を変えて収録されていることは有名ですが、

(万葉集)
春過ぎて 夏来るらし
 白妙の 衣乾したり 天の香具山

(百人一首)
春すぎて 夏来にけらし
 白妙の ほすてふ 天の香具山

(万葉集)春が過ぎて夏が来たようだ。真っ白な衣が天の香具山に乾してある。
(百人一首)春が過ぎて夏が来たらしい。真っ白な衣を天の香具山に乾すという。

元の歌の大部分が引用されているのでこれも「本歌取り」には含まれません。


さて、「本歌取り」の定義が分かったところで、次の記事から具体的な例を挙げていきます!

小説と家持さん

先日消費税対策と称して大量の本を買った私でしたが、その中に家持さんが登場する小説も複数購入しておりました。
家持さんが主人公のものから脇役のものまで様々です。
まだパラパラ見ただけできちんと読んだものは少ないですが、それぞれの印象として、家持さんの妻・大嬢への対応が天と地ほど差があって驚いています。

一番冷たい家持さんは、大嬢が越中に連れていってと泣きながらお願いしても、正直なところ、顔を見るだけでうっとうしい・・・という理由で断ったりしてます。酷すぎる・・・!
この小説では家持さんと大嬢の贈答歌はすべて「恋歌の練習」という一言で片づけられています。
ちょっと待ってもらおうか。それは納得いかないよ私は。
夫婦になってからも贈答歌あるのに、どうして練習なんですか。なんの練習のつもりなんですか。
家持さんに冷たくされた大嬢は、家持さんが越中に赴任中に昔の恋人の大伴古麻呂と不倫して身籠るとか・・・まあこれは百歩譲って作家の創作の範囲内(歴史的に大きな矛盾をきたしていない範囲)と思ってもいいですが。
その後、家持さんが万葉集作りのやる気を失っているという理由で大嬢は自殺します。
無かったことにしようと思いますこの小説。(超展開すぎてついていけそうにないのですが、一応最後まで読む予定です)

かと思いきや、別の作品では越中で別れ別れの間家持さんは大嬢が恋しくてたまらなくてたくさん歌を贈るのですが、大嬢から返歌がほとんどこなくて、休暇(←この時代の国守に休暇…?)で奈良に帰った時に

「どうしてほとんど返事をくれないのか」
「ごめんなさい、私は歌が苦手だから書かなかったのです」
「なら仕方ない」

それでいいのですか家持さん!?
妻に可愛く謝られて瞬時に許す現金な家持さんは、これはこれで衝撃的でした。

あとは、越中で招かれた宴で若い遊行女婦(うかれめ)に舞を断られたことに腹を立てた家持さんが彼女の家はどこかと尋ねるのですが、先輩の遊行女婦に「慣れない場で緊張しているのです。どうか許してやってください」とたしなめられたのに対して「おまえが言わなくても、私はそれを知ることができるのだよ」とか堂々と職権乱用する悪党っぷりをみせつけてくれました。
でもこの家持さん、それが妙に似合っていて私はこのセリフに一瞬ときめいてしまった・・・。
チョイ悪家持さん、いいかもしれない(新たな扉)

とはいえ、「大伴家持」という人物像は全体的には落ち着いていて思慮分別のある知識人(ちょっと疲れている)という感じの描かれ方が多そうです。

さて、次もまた万葉関連の語りを考えています。
万葉集は万葉時代に編纂されたものですが、調べてみると、その後の時代の人たちにいろんな場面でちょっとずつ影響を与え続けているようです。

「本歌取りと万葉集」

という内容でちょっと書いてみる予定です。
またまったりとお付き合いいただけると嬉しいです。

万葉集の読めない歌(後編)

続きの前にお知らせです!
今日25日の新日本風土記は「神話の森 中国山地」がテーマです!

1300年前にまとめられた「古事記」をはじめ様々な神話の中で、多くの神々が活躍した中国山地。この地では、神と共に生きる暮らしが今も続いている。古代と現代とが交差する七つの物語。(公式サイトより引用)

なななななんと面白そうな話題なんだ!!!
これは見逃せません!
私の自宅はテレビが映らないので(地デジ対応しなかったため)、実家に早速録画を依頼しました。
私が見るのは来月以降になりそうですが、皆様はぜひライブでご覧ください!
BSプレミアムにてPM9時から1時間の放送です!

ちなみにこのページで予告動画を見ることができます。
「ここは全土が "ひのき舞台"」
この台詞に心臓が鷲掴みされること間違いなしです。


さて、それでは前回の続きです!

<万葉集の読めない歌が詠まれた背景>

○書き下し文(未完成)
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 我が背子(せこ)が い立たせりけむ 厳樫(いつかし)(もと)

この歌が詠まれた背景を調べてみました。
万葉集には、歌自体の他に「題詞」と呼ばれる歌の簡易的な説明が付けられている場合があります。
この歌の題詞はどのような内容かというと

紀伊()温泉()(いでま)す時に、額田王が作る歌

と書かれています。
これは日本書紀で「冬十月庚戌朔甲子 幸紀温泉」と書かれているものです。
書き下し文で書くと「冬十月(かむなづき)庚戌(かのえいぬ)(ついたち)甲子(きのえねのひ)に、紀の温泉()(いでま)す。」となります。
つまり「冬十月十五日、紀の湯に行幸された」ときに、この歌は詠まれたのではないかと思われるわけです。
以下、伊藤博さんの「萬葉集釋注一」のP.74から引用します。

題詞にいう、斉明女帝の紀伊の湯行幸は、斉明四年(658年)十月十五日から翌五年一月三日までの長い旅であった。
その間、十一月三~十一日に有間皇子の謀反事件があった。
留守官蘇我赤兄(あかえ)の手の者によって捕らえられて、紀伊の湯に連行された有間皇子は、中大兄皇子の訊問をうけてからの大和への帰途、紀伊の国の藤白坂で絞殺された。
齢十九。
この歌の上二句に定訓を得ないそもそもの原因は、ひょっとしたら、この事件に関係があるのではなかろうか。


ご存じない方のために「有間皇子」について簡単にご説明いたします。
ご存知の方は飛ばしてください。
「有間皇子」とは

有間皇子は、先代の大王「孝徳天皇」の息子です。
孝徳天皇は斉明天皇の同母の弟です。
つまり、有間皇子は先帝の息子で当時の天皇の甥でもあり、中大兄皇子の従兄弟でもある人物というわけです。
このあたりはかなり入り組んでいて非常にややこしい人間関係や思惑が渦巻いているわけですが、簡単に説明すると、中大兄皇子は自分が大王になるために邪魔になりそうな有間皇子をなんとか排除しようと画策していました。(※有間皇子の父であり先代の大王「孝徳天皇」は中大兄皇子と激しい対立関係にありましたが、このときにはすでに亡くなっています)
それを知っていた有間皇子は狂人を装ってその画策から何とか逃れていたのです。
しかし、斉明女帝が紀の湯行幸で中大兄皇子らがそれに付き従って都を留守にしているとき、留守を預かっていた蘇我赤兄が有間皇子に「天皇の政には三つの過ちがある」と天皇批判を語りました。
有間皇子はこれで蘇我赤兄は自分に好意を持ってこれを語ったのだと喜んで信じ「私の人生で初めて兵を用いる時が来た」と言いました。
しかし、これは罠だったのです。
蘇我赤兄はこの発言を以って有間皇子を「謀反の心あり」として捕らえ、紀伊に連行しました。
紀伊に向かう道中に有間皇子が詠んだとされる歌が万葉集に二首残されています。(※後年別の人物が有間皇子に仮託して詠んだ歌という説も有力)
・磐白の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また帰り見む
(磐白の浜の松の枝を結んで、幸いにも無事に帰ってくることができたらまた見られるだろう)
・家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいたならば立派な器物に盛ってお供えする飯なのに、その飯を、今旅の身である私は椎の葉に盛る)
※どちらも旅の無事を祈る神事(松の枝を結ぶ・椎の葉に飯を盛ってお供えする)を表していると伊藤博さんは書いておられました。
こうして紀伊の湯に連れて行かれた有間皇子は中大兄皇子に訊問されます。
このときの台詞はあまりにも有名ですね。
有間皇子は中大兄皇子に何を聞かれても答えず、ただ一言
「天と赤兄と知る。吾れ(もは)()らず」
とのみ語ったと日本書紀には記されています。
有間皇子はここでいったん都に帰されることになりますが、その道中の藤白坂で中大兄皇子が放った刺客に襲われて殺されてしまいました。
その時わずか数えの19歳(満年齢なら18歳)の若さでした。
では、ここで再び伊藤博さんの「萬葉集釋注一」を引用します。

歌が有間皇子事件のあった折のものである以上、第三句の「我が背子」には、当の有間皇子を擬する道がありそうである。
有間皇子は、斉明女帝にとって同母弟孝徳天皇の子である。
古代では同母のきょうだいは、生母のもとで仲良く育てられる。
だから、異母きょうだいの結婚は認められるけれども、同母きょうだいの結婚は固く禁じられた。
そして、同母きょうだいの結束が、現代人の想像を絶して緊密であったことを示す資料は多い。
とりあえずは、天武天皇の子、大伯皇女と大津皇子を思うだけで充分であろう。
有間皇子は、斉明女帝にとってその同母弟の子である。
時の実権をにぎる中大兄皇子にとって、孝徳天皇やその子有間皇子がどういう存在であろうと、斉明女帝の心には、別途の、言い知れぬ感慨が秘められていたであろう。
そこで、この歌を、斉明女帝側近の御言持(みことも)ち歌人である額田王が、その女帝の心底を察し、女帝になりかわって詠んだ歌と見てはどうか。
そう推測すれば、この歌の「我が背子」は、斉明女帝の、弟や甥に対する複雑微妙な心情をこめた言葉として浮上する。
そして、結句にいう「厳橿」は、紀伊の湯から藤白坂に至る、有間皇子がたどった大和への道筋にあった霊木で、歌そのものは、斉明五年正月の還幸時にその霊木を見つつ詠まれたと推測できることになる。
「厳橿」に寄り立って、その霊力の感染を願い身の安全を祈ったけれども、かいなく終わった薄幸の皇子に思いを寄せることは、旅の歌の常として、同時に、通過する地の荒魂を慰撫してみずからの無事なる還幸を祈ることにもつながったと思われる。
まして、斉明女帝は、八番の熟田津の歌の左注が引く「類聚歌林」にいうように、また、七番の宇治の歌の深い回想の思いが示すように、過ぎ去った者への愛情を格別に強くいだく(さが)の持ち主であった。
伝来途上で入りまがう面もあったかもしれないが、一首の上二句は、本来斉明女帝とその側近たち数名にしかわからない謎の表記だったのではあるまいか。
以上の空想を前提に、旅の歌における「見る」ことの伝統を思いつつ、あえていうなら、古来の諸訓の中では、『万葉集注釈』の一案、

「静まりし 浦波見さけ」(静まった浦波をはるか遠くに見やって)

の訓に、最も心ひかれる。
歌人斉藤茂吉は、『万葉秀歌』の中で、「私は、下半の『吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本』に執着があるので、この歌を選ん」だと書いている。
たしかに、この下三句は、どこかしら荘重で、神秘で、強く人を魅了する味わいがある。
これが尋常な背景を持つ歌でないことだけはたしかであろう。


かなり長い引用になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
この伊藤博さんの説の通りに考えると、この歌は以下のようになります。

○書き下し文
静まりし 浦波見さけ 我が背子(せこ)が い立たせりけむ 厳樫(いつかし)(もと)

訳:静まった浦波をはるか遠くに見やって私の愛しい甥がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元よ。

たった19歳でこの世を去った甥がどんな気持ちでこの浦波を見晴るかしたのか。
聖なる橿の木は斉明女帝に教えてくれたでしょうか。

ここで上げている訓読は、実は「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」をそのまま読んだものではありません。
伝来途上に書き間違いがあったと仮定して「莫囂圓隣之大相七見謁爪氣」と書き換えています。
これで
シズマリシ  ウラナミミサケ
莫囂圓隣之 大相七見謁爪
となるそうです。
この訓読を行ったのは「澤瀉久孝」さんです。
伊藤博さんの恩師に当たる方です。
伊藤博さんは「愚者の賦」の中で澤瀉久孝さんを「六十年にわたる研究生活を"訓詁一筋"を以て生き抜かれた」と回想しておられました。
文字に対して誰よりも真摯に取り組む姿勢を持った方であり、だからこそこの書き換えは自分の都合に寄り安易に書き換えたのではないと信じられます。
また、この他「莫囂圓隣之 大相七」で「シズマリシ ウラナミサワケ」という訓も与えていらっしゃるそうです。
これだと訳はどうなるんでしょうか。
「静まっている浦波よ、音を立てて騒げ」とでもなるのでしょうか?(間違ってたらすみません・・・情報・訂正お待ちしております!)
後は他にも訓読しているものがあります。
鎌倉時代に書かれた万葉集の注釈書「仙覚抄」では「ユフツキノ アフギテトヒシ」と訓読されているそうです。
澤瀉さんと全然違うじゃないか・・・(唖然)
これは漢字仮名混じりだとどう書くんでしょうか。
素直に「夕月の 仰ぎて問ひし」と書くと、では訳は・・・「夕月をふり仰いで訪れた、きっと私の愛しい甥がお立ちになったであろう、この聖なる橿の木の根元」という感じでしょうか?
細かい助詞やら助動詞やらの知識に著しく自信が持てませんが、手元の辞書やら参考書やらをフル活用してみました。

いかがでしたでしょうか。
万葉集の未だ読むことができない歌を伊藤博さんの説を手がかりに迫ってみました。
手がかりというか、ほぼ引用ばっかりですが・・・!(スミマセン!)
万葉集に関しては古事記ほどは資料が手元に揃えられていないところもあり、かなり偏った内容になってしまいましたが、まだまだこれからもっとたくさん勉強したいと思っておりますので、今後ともぜひお付き合いよろしくお願いします!

Page

Utility

簡易メニュー

薄紅語り
(過去の日記の薄紅天女の妄想語り一覧)
古代史語り
(過去の日記の古事記とか万葉集とか他)
Web拍手
(お気軽に頂けると嬉しいです)
拍手は別窓、語りは同窓で開きます。

日記内検索

カレンダー

< 2024.11 >
S M T W T F S
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
- - - - - - -

コメント一覧