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万葉時代メモ

「ころも片敷く」

・旅などの最中に「ころも片敷く」という表現をする歌がある
・ころも・・・所謂「肌着」や「下着」の意。「上衣」は「きぬ」と発音した
・旅に出る場合、夫婦で「ころも」を交換してそれぞれ身に着けていた
・この時代、寝る時は「ころも」を敷いてその上に人が寝ていた
・男女で寝る場合は当然双方の「ころも」を敷いて寝た
・それゆえ、「ころも片敷く」とは、片方だけ(一人分)の「ころも」を敷く、という状態
・男の場合、妻(恋人)の「ころも」を敷いて寝ている
・つまり「ころも片敷く」とは、旅などで伴侶(恋人)と離れている悲嘆を表現する言葉
※当時はその人が長く使っているものや肌に直接触れているものなどには、使っている人の魂や思いが宿り、預けた相手を守ってくれるという信仰があった※


「霧」

・この時代、悲しい思いや、辛い気持ちは、募ると外に「霧」となって現れると信じられていた
・いとしい男を遠くの新羅の国に旅立たせようとしたある女の歌
―君が行く 海辺の宿に 霧立たば 我(あ)が立ち嘆く 息と知りませ
※訳※あなたのおいでになる旅の、その海辺の宿に、もし霧が立ったならば、それは家で待っている私の嘆く息だとお知りくださいませ
他多数の「霧」を嘆きの象徴として使用する類似表現あり


「心」

・この時代、人々は心を「緒(お)」(ひも)のようなものと考えていた
・根元があって、そこから数条の「緒」が伸びており、普段はぴんと張っている
・しかし、平常心を失くすとそれが揺れたり、絡まったり、萎れたりする
・この「緒」は肝の向かい側にあると考えられていた
・つまり、現代人の考えるは「心」は体全体を支配する抽象的なものだが、当時の人々にとっての「心」は臓器の一つに属するものという感覚だった
・「心も解けず」「心も萎(しの)に」などの表現あり


こんな辺りまで読んでます。
大体半分くらいまで来ました。
新書は読むのが楽で助かる!
あと、「愚者の賦」一冊を読んだお陰で、伊藤先生のテンポが少しずつつかめてきて進めやすくなってきたのもあるかもしれません。
この調子でどんどんいくぞ!

あ、因みに上に書いているメモは、創作で使えそうかなと思った部分だけ抜粋してます。
ホントはもっとたくさん面白いことが書いてあるんですよ!

「萬葉のいのち」を読んでいます

「愚者の賦」を読み終わって、次の「萬葉のいのち」を読んでいます。

※スミマセン!下で書いた「萬葉のこころ」はこの本の中の一小節の副題でした!図書の名前は正しくは「萬葉のいのち」でした!お詫びして訂正いたします!※この間から間違いすぎだ私・・・ううう、ごめんなさい

「愚者の賦」は全体を通して伊藤先生の万葉集に対する思いがひしひしと伝わってくる名著でした!
古代文学に対して殆ど知識の無い状態で読みましたが、物凄く興味を持ってしまいました。
さすが伊藤先生!さすが日本古典文学!楽しそう過ぎる!!
ぜひ私も仲間に入れてください!という気持ちになりました。(←おこがましくも)
これからますます万葉集および関連文献の探求に勤しみたいと思います。

そして現在読んでいる「萬葉のいのち」ですが、これは「愚者の賦」よりも更に万葉集の内容についての詳しいお話が書かれています。
その中で大変興味を持ったのが、「かなし」という言葉の説明の部分。
現代日本では「かなしい」といえばもちろん「悲しい」です。
古代でも「悲しい」という表現がされていました。
今月の始めの頃に書いた家持の挽歌にもこの表現がありましたが、意味は現代と同じです。

「ま幸くと いいてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも」

の「悲し」です。
ただ、古代は現代と違って、もうひとつの「かなし」がありました。
それが皆様よくご存知の「愛し」ですよ!
現代では「いとし」といいますが、古代では「かなし」と読みました。
意味は現代とは少し違って愛しいというより「かわいい」というような意味合いで使われていたようです。(というか私はそう習いました)
拍手コメントから頂いた阿苑的萌えを連想してしまう東歌の

「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの子の ここだ愛(かな)しき」

はまさに代表格ですね!
で。
「萬葉のいのち」の中でこの言葉が取り上げられておりましたよ。
また、同じように恋人に対する思いを表す言葉に「恋し」というのがありますが、これと「愛(かな)し」は明確な使い分けがあるそうです。
先に顕著に分かる例を挙げますので、ご覧下さい。

「愛(かな)し」の例
――高麗錦(こまにしき) 紐解き放(さ)けて 寝(ぬ)るがへに あどせろとかも あやに愛(かな)しき
※訳※高麗製の錦のようなこの子の紐を解き放って寝ているその上にも、さらにどうしろというのか、かわいくって堪らない

ちょww藤太自重ww
藤千の歌ではありません。東歌の一つです。藤千っぽい
続けていってみます。

「恋し」の例
――秋の夜の 月かも君は 雲隠り しましく見ねば ここだ恋しき
※訳※秋の夜の月のような貴女。月が雲に隠れてしまったかのように(貴女の姿が)少しでも見えないとひどく恋しいのです。

もうお分かりいただけたでしょうか。
「萬葉のいのち」の言葉を引用します。

 「愛(かな)し」は肉体的な愛情、いわゆる性愛を表わすことばであって、その点、男女が離れているときの精神的な愛情を示す「恋し」とは対照的であった。

ほほう。先生はかなり直接的な表現をなさってますが、つまり「愛(かな)し」はスキンシップを伴う場合の言葉なわけですね。
で、こうも書かれていました。

 ところが、この「愛し」は萬葉集においてかたよりがある。総数四十数例。そのうち四十例近くが東歌や防人歌、すなわち東国人の歌に集中する。

これを読んで思わず「ちょww東国の人イチャつき過ぎwww」ってツッコミ入れたのは仕方ないですよね!
反対に「恋し」=離れている恋人を思う表現は、東国の人は殆ど使っていないそうです。
好きになったら即アタックですか!
古代東国の人はまるで藤太の様ではないですか!
そして恋が成就したらしたでスキンシップしまくりというわけですね、分かります。
もし本当にそんな風土だとしたら、阿高のような性格は相当浮いてたでしょうね。
でも阿高も東国の男の血が流れているわけだから、鈴と一緒になってからはそれまでの反動があったりなかったりあったりあはははははは!(壊)
風神の草十郎の豹変も納得ですね。
草十郎のチュー好きは東国の男の血が流れている証ですね!ひゃっほー!伊藤先生は萌を分かっていらっしゃる!(誤解)


///////////////
更新しました。
ギャグは書くのが大変楽しいですね!
そしてギャグは阿高悲惨オチが一番たのsがほがほがほ!
というかいつも以上に山もオチもそもそも意味も無い話でスミマセンでした!
次はもう少し・・・何とかオチくらいはある話にしたいです。(希望)

終わり間近

読書モードに入ると途端に日記の頻度が落ちる兼倉です。
もし万が一この日記の更新を気にしてくださっている奇特で心優しいお方がおられましたら大変申し訳ございません!(いや、思い込みだとは思ってますが、ね、念のために!)
本を読むのは大変好きなのですが、読む速度が非常に遅いため中々進めません。
昔、私の本を読む速度があまりにも遅いため、友達から「お前が京極を読破するのは一生無理だ」とからかわれたことがあります。よ、余計なお世話だ!(実際読んだことは無いですが)

で、「愚者の賦」をまだ読んでいます。
やっと終わりが見えてきました。
あとがきまで含めて全部で299ページですが、現在261ページまで読み終わりました。
あとちょっと!

※因みに下の記事で「Ⅰ随筆」としていたのは「Ⅰ随想」の誤りでした。
後ほど修正しておきます。
あしからずご了承下さい。※

今読んでいる内容と致しましては「Ⅱ書評」を終えて「Ⅲ講演」の全3項目中2項目めまでを読み終えました。
まず「Ⅱ書評」についてですが、大方は前の記事で書いているので省略するとして、全体を通してかなり兼倉殺しの章でした!
だって紹介されてる本全部欲しくなってしまうんですもの!(兼倉破産フラグ)
どんなに辛口でこき下ろされていようとも(←ホントに結構凄い批評がされているものもある)、興味を持たされてしまうのは流石は伊藤節と言ったところでしょうか。
伊藤先生はホント罪なお方だ・・・!
お金が貯まったら少しずつ集めたいと思います。
また、本書の中で以下のようなことを述べられていて、はっとさせられました。

――「批評」は常に生産性に参与するものでなければならぬ。そのためには批評は「肯定」の精神を根底に置くべきである。「ある対象を批判することは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、そのあるがままの性質を、積極的に肯定することである」とは小林秀雄の言葉であるが、味わうべきものがある。

この文章を念頭において見返してみると、先生がかなりキツイことを書いておられるものは、少なくともその当時それを書いた人が「生きていた」場合に限られていたことに気付きます。
優しい書き方をされている書の殆どは、著作者の方が既に鬼籍に入っておられました。(一人例外もおられましたが、それはその文章を発表された場に拠るものと思われます。=批評よりも宣伝を目的とするような場)
考えすぎといわれればそれまでかもしれませんが、私はここに伊藤先生の学問に対する厳しさと先達に対する畏敬(恭敬?)の姿勢を感じました。
普通生きている人に対しては誰しも筆を緩めてしまうものだと思います。
逆に死人にくちなしではないですが、すでに亡くなられている方に関しては多少の私見を披露したところで、相手から文句を言われる恐れも無いはずなのです。
それを伊藤先生はなさらなかった。
相手の更なる向上と、その先の学問の発展をひたすらに願って、あえて忌憚ない意見を述べられたのでしょう。
普段相手との衝突を避けて可もなく不可もなくの話しかしなくなっていた自分が恥ずかしく思いました。
伊藤先生の著書は万葉集目的で読み始めたのですが、それを越えて普遍の内容が詰め込まれています。
出会えて本当に良かったと思いました。

そして現在読んでいる「Ⅲ講演」ですが、これは前章までの「文章として書かれた文章(=文語調)」と違って、先生が講演された内容が、「話し言葉(=口語調)」そのままに収められています。
読み進んでいくごとに、まるで紙面の中で先生が拳をふるって熱弁なさっている姿が目に浮かぶような、熱気の漲った文章となっています。
読んでいて大変胸を熱くさせられますよ!
そしてますます万葉の世界に惹き込まれていきますよ!
うわあどうしよう!(手遅れ)

恐らくは明日中には読み終わると思います。
といっても読み終わったらまた次の本があるわけですが。
この本だけで6日掛かってしまったことになりますが、図書の貸し出し期間が二週間で残り9日(返却日を含めて)で後3冊というのは、単純計算しても全く間に合いません。
え、どうしよう・・・(ゾ)
が、頑張ろう・・・!

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