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日向神話~神武天皇の誕生~

日向神話もいよいよ最後となりました。
神武天皇の誕生です。

()(あま)津日(つひ)(たか)日子(ひこ)波限(なぎさ)(たけ)鵜葺草(うがや)(ふき)不合(あへず)命、その(をば)玉依(たまより)毘売(びめ)命を(めと)りて、生みませる御子の名は、五瀬(いつせ)命。
次に稲氷(いなひ)命。
次に御毛沼(みけぬ)命。
次に(わか)御毛沼(みけぬ)命、(また)の名は、(とよ)御毛沼(みけぬ)命、亦の名は、(かむ)(やまと)伊波礼毘古(いはれびこ)命。

故、御毛沼命は、波の穂を踏みて常世(とこよ)国に渡り()し、稲氷命は、(はは)の国と()て海原に入り坐しき。

四人兄弟の一番最後に生まれた(かむ)(やまと)伊波礼毘古(いはれびこ)命」初代天皇とされる「神武天皇」です。
ニニギもホヲリもイハレヒコも、みんな兄弟で一番下の弟です。
これは「末子相続」の風俗の名残ではないかといわれることもあります。
「末子相続」はいろいろな視点から解説されることがありますが、簡単にいえば、先に生まれたきょうだいはどんどん独立していって、最後に残った末子が親の財産を相続するという形式です。
家督よりも財産の相続が大きな意味を持つ風習です。
家督の継承に重点が移ると「長子相続」の傾向が強くなるようです。

いきなり話がそれましたね。
スミマセン、戻します。

ウガヤフキアヘズはなんと自分の母の妹(叔母)と結婚してしまいました!
このタマヨリ姫という方は、前回最後のところで姉のトヨタマ姫が夫のホヲリと別れた後も忘れられなくて詠んだという歌を届けてくれたお方です。
タマヨリ姫は実は歌を届けるだけでなく、ある重要な任務を授かっていたのです。
それは、陸に残された姉の子ウガヤフキアヘズを養育するという任務だったのです。
その部分だけ本文を載せます。
上の本文の直前の話です。

(しか)くして(のち)は、その(うかか)ひし(こころ)(うら)むれども、()ふる心に()へずして、その御子を治養(ひた)(よし)によりて、その(おと)玉依(たまより)毘売(びめ)()けて、(ホヲリに)歌を(たてまつ)りき。

というわけで、ウガヤフキアヘズは自分が赤ん坊のときから面倒を見てくれていた叔母さんに妻問いをしたわけでした!
玉「立派に育ったわね。きっと姉上もお喜びになるでしょう。私も自分の息子のように思って心を込めて育てた甲斐があったわ」
ウ「叔母さん、折り入って話があります」
玉「あら、何かしら。好きな子でもできたの?」
ウ「叔母さん、おれのお嫁さんになってください!」
玉「え、えぇー!?」

この二人のロマンスが激しく気になって仕方ない。(正直)

また脱線しかかっててスミマセン。
萌えと興味がいろいろ入り混じっていまして(汗)

そうそう。
イハレヒコはこの後、長兄五瀬命とともに東を目指して旅立ちます。
それが中巻冒頭を飾る「神武東征」のお話です。
大分前にこの日記で「長髄彦(ながすねびこ)は可哀相なやつだ」みたいなことを書いたことがありましたが、その「長髄彦」が出てくるのもこの「神武東征」です。
いよいよヤマト統一に向けて歩みだします。

さて、これをもって日向神話の本文の語りは終わりです。
この後補足として「神武天皇がアマテラスの五世の孫である意味」と「常世国に渡ったはずの兄・御毛沼命が高千穂で鬼退治をした話」について書く予定です。

日向神話~ウガヤフキアヘズの誕生~

※隼人と隼人舞に関しては下の記事に書いておりますので、ご興味のある方はご参照ください!

さあ!豊玉姫出産話です!
兄を服従させたホヲリ(山幸彦)のもとに、妻の豊玉姫が綿津見の宮からやってきました。

ここに、海の神の(むすめ)豊玉(とよたま)毘売(びめ)命、自ら(ホヲリのもとへ)()ゐ出でて(まを)ししく、

(あれ)は、(すで)妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、これを(おも)ふに、天つ神の御子は、海原に生むべくあらず。(かれ)()ゐ出で到れり」

とまをしき。

豊「できちゃった(照れ)」
山「マジで!?やったぁ!」
豊「天つ神様の御子だから、やっぱり海で生むわけにはいきませんものね。だから陸にきちゃいました」

妻の訪れを喜ぶホヲリ(予想)。
父の轍は踏みませんでした。
さっそく子どもを生むための産屋を作ることにします。
しかし、ここで事件が。

(しか)くして、即ちその海辺の波限(なぎさ)にして、()()(もち)て(屋根を()く)葺草(かや)()て、産殿(うぶや)(つく)りき。
ここに、その産殿を未だ()()へぬに、()(はら)(には)かなるに()へず。
故、産殿に()()しき。

山「もう少しで産屋が完成しそうだね」
豊「うっ」
山「え?」
豊「産まれる」
山「ええええ!!!」

なんと産屋がまだ完成していないのに豊玉姫が産気づいてしまいました!
仕方ないので未完成の産屋に入ることに。
ここで、豊玉姫はホヲリにお願いをします。

(しか)くして、まさに産まむとする時に、その日子(ひこ)(=ホヲリ)に(まを)して()ひしく、

(およ)(あた)し国の人は、産む時に臨みて、本つ国の形を(もち)産生()むぞ。(かれ)(あれ)、今本の身を以て産まむと()(ねが)ふ、(あれ)を見ること(なか)

といひき。

豊「あなた、私のような国が違う者たちは、子を産む時に元の姿に戻ってしまいます。だから、私が産屋にこもっている間は決して中を覗かないでくださいね
キター!
もう分りますよね。
こんなこと言われたら、絶対覗きます。
フラグってやつですね。
見るなと言われたら見るんです。
言うなと言われたら言うんです。
食べるなと言われたら食べるんです。
日本神話だけではありません。
世界中の神話・物語でそれはもう決定付けられています。(一般に「見るなのタブー」と言われることがあります)
もうこれは避けられない運命なのです!

ここに、(ホヲリは)その(こと)(あや)しと思ひて、ひそかにそのまさに産まむとする(様子)を(うかが)へば、八尋(やひろ)わにと()りて、腹這(はらば)ひもごよひき。
即ち(ホヲリは)見驚き(かしこ)みて、逃げ退()きき。

腹這(はらば)ひもごよひき・・・腹這いで体をくねらせていた
山「(豊玉姫はあんなこと言ってたけど、やっぱり心配だよね。ちょっと覗いてみよう)(ゴソッ)ね、ねぇ、大丈夫かい?」
―とても大きいワニが腹ばって身をくねらせているのを発見―
山「(バサッダッ)おれは何も見ませんでした☆」

やっぱり見ちゃった!
どうせそうだと思ってたけど!
そして、「見るなのタブー」の決まりとして、もう一つ。
見たことは確実に相手にバレます。

(しか)くして、豊玉毘売命、その伺ひ見るを知りて、心(に)(はずか)しと思ひて、(すなは)ちその御子を生み置きて、(ホヲリに)(まを)さく、

(あれ)は、(つね)(うみ)(みち)を通りて(地上世界に)往来(かよ)はむと(おも)ひき。(しか)れども、()が形を伺ひ見つること、これ(いと)(はずか)し」

とまをして、即ち海坂(うなさか)を塞ぎて、(ヒメは自分の国へ)返り入りき。

山「や、やぁ豊玉姫!無事に生まれて何より・・・」
豊「見たわね」
山「え」
豊「見たわよね(怒)」

やっぱりバレたー!
豊「ひどい・・・これからも海の道を通ってこようと思ってたのに・・・」
山「ご、ごめ・・・」
豊「あなたにはもう二度と会いたくないわ!さよなら!(バッ)」
山「豊玉姫ー!」
子「おぎゃー」

大国主の元を去る八上姫もそうでしたが、ここでも夫の元を去る妻は子どもは置いていきます。
この時代(古事記が書かれた時代)は随分と男系制が浸透してきていましたが、子どもは母親の元で育てられるのが一般的でした。
それゆえ、普通の感覚なら母親は子どももいっしょに連れていってしまうはずなのです。
なぜ子どもを置いていくのか?
いろいろ検討の余地がありそうです。
とりあえず続きを見てみます。

ここを以て、その産める御子を(なづ)けて、(あま)津日(つひ)(たか)日子(ひこ)波限(なぎさ)(たけ)鵜葺草(うかや)葺不合(ふきあへずの)(みこと)()ふ。

生まれた子どもは、産屋の屋根の葺草がまだ葺き終わらないうちに生まれてしまったという意味の「ウガヤフキアヘズノ命」と名づけられた。
ウガヤフキアヘズ!
これで日向三代全員登場しましたね!
「ニニギ」「ホヲリ」「ウガヤフキアヘズ」の三代をあわせて日向三代と呼んでいます。
この後、海に帰った豊玉姫は、やはり夫への思いを断ち切ることができず、妹の玉依姫に歌を託します。
玉依姫は姉の思いを携えて、陸へやってきます。
ホヲリは玉依姫から受け取った歌に心を込めて返歌をしますが、二人が再び会うことはなく、ホヲリは580歳でこの世を去ります。
御陵は高千穂の山の西とのみ、古事記には記されています。
スゴイ年齢だ!とお思いかもしれませんが、実は上巻で唯一記されている天つ神の死の記述です。
ご存知の通り、天つ神は死にません。
しかし、コノハナノサクヤ姫とニニギの結婚のところで出てきたように、これ以降の代は寿命を持つことになります。
段々と人に近づいていくのです。

さて、本文は本当はここまでの予定だったのですが、折角なのであと1回だけごく短いものを書きます。
上巻最後の締めとなります。
中巻冒頭の英雄にして初代天皇とされる神武天皇の誕生です。

日向神話こぼれ話~隼人と隼人舞~

海幸彦(ホデリ)の子孫とされている隼人(阿多隼人)と隼人舞について、いろいろな方のご意見を載せてみました。

<山田永さん>
隼人は海洋民族です。
ホデリはウミサチビコなのです。
ということは、泳ぎは得意なはずです。
それなのに溺れさせられたのは、ホデリにとって屈辱的なことでしょう。
ならば、その仕草を隼人がずっと「今(古事記成立当時)」に伝えるのはなぜでしょうか?
自分の得意業を前面に出すことが自己アピールにつながります。
ところが、隼人はまるで逆の事を考えたのでしょうか。
得意分野での失敗(溺れること)を演じ続けるのです。
私は以下のように考えます。
この話は明らかに、ホデリがホヲリに降伏した場面です。
隼人が長い間朝廷に屈しなかったという歴史的事実はともかくとして、隼人が皇室に対して行う大事なことは、「祖先神ホデリがそうしたように服従し奉仕します」と示すことなのです。
隼人の仕事は、天皇が溺れた時に得意の泳ぎで助けることではありません。
だから、自分の得意業ではなく、滑稽さを示すことでアピールしたのではないでしょうか。
サルタビコの条でお話したように、これはやはり滑稽な所作なのです。
海洋民族なのに溺れるといういわば弱点を相手に示すことは、「敵意は全くありません。誠心誠意あなた様にお仕えします」ということの表れだと思うのです。


<三浦佑之さん>
隼人が服属儀礼として天皇の前で演じる舞は「隼人舞」と呼ばれて宮中に伝えられていた。
隼人に限らず、服属した一族は、定期的に大君(天皇)の前で服属のいわれを語ったり演じたり、贄を献上したりすることによって、服属の誓いを再確認しなければならない。
それが服属儀礼である。
隼人の服属は比較的新しかったのではないかとみられており、七世紀後半の天武天皇の時代あたりから、こうした儀礼が行われ、天皇の行幸の際には犬の遠吠えをしたりして仕えたということが記録に残されている。



<西郷信綱さん>
この神話は隼人が宮廷守護の役につくに至った因縁をいったものだが、その中身が問題である。(略)
日本書紀一書に「汝に事へまつりて奴僕(ヤッコ)と為らむ」とあるごとく、それは実は下僕の役に任ずることであった。
同じ一書にまた次のようにある、「火酢芹命の苗裔(ノチ)、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻(ミカキ)(モト)を離れずして、(ヨヨ)吠ゆる(イヌ)して奉事(ツカヘマツ)る者なり」と。
これを「狗人(イヌヒト)」ともいう。(略)
大伴氏ひきいる親衛隊が武人であるとすれば、隼人は番犬に近い。
そして元旦即位とか大嘗祭とかにさいしては応天門で、また行幸の駕が国界や山川道路の曲り角に来た時など、隼人はこの吠声を発した。
それが印象的なものであったことは、万葉に「隼人の、名に負ふ夜声、いちしろく」とあるによっても分る。
おそらくその異様な声が悪霊を払う呪力をもつとされていたのだろう。
だがむろん、隼人は奴隷とは範疇を異にする。
隼人の祖のホデリ(日本書紀ではホスセリ)はホノニニギの子であり、ホヲリの兄とされているが、奴隷がこのように系譜づけられるはずがない。
雄略天皇の葬りにさいし、「隼人、昼夜陵の側に哀号(オラ)ぶ。食を与へども食はず。七日にして死ぬ」という記事があり、(略)これは隼人が文字どおり天皇のヤッコ(家つ子)であった消息を語っている。(略)
神話は現実の制度や習俗や信仰の由ってくるところを起源的に説明しようとする働きをもつ、とよくいわれる。
これをしかしたんに因果的と解してはならぬ。
その関心はかつてあったことにではなく、むしろある諸関係に向けられる。
というのも、ある諸関係はそれぞれイハレがあったからで、つまりそのイハレが神話なのだ。
古事記じたい、それはある王権という秩序を、神代以来の不易なもの語ろうとするものである。
ここで隼人の服属を「今に至る云々」というのも、その関心はに向けられていたはずである。
奈良朝にも隼人が氾濫して大隅国国司を殺すというような事件が起きている。(略)
そういう隼人の服従のイハレが神代にあり、しかもその祖ホデリ(またはホスセリ)は皇孫ホヲリの兄弟に他ならぬゆえんを語ったのがこの海幸・山幸あるいは海宮訪問の話である。
しかし、隼人舞がそもそも「その溺れ苦しびし状」をまねて作られたものかどうかは疑問である。
(略)フンドシ姿になり、掌や顔に赤土を塗ったのを、日本書紀では「吾、身を汚すこと此の如し」としているが、これは踊りのための変身を、かく解釈したまでであろう。
以下、「初め潮、足に漬く時には、足占をす。膝に至る時には足を挙ぐ。股に至る時には走り廻る。腰に至る時には腰を捫ふ。(以下略)」は、この踊りがきわめて道化たものであることを示しているが、これも特定の国ぶり踊りをかく解釈し、かく解釈することによってそのしぐさが溺れるさまを現にまねたものであるかのように固定していったものと思われる。
何れにせよ、これが宮廷に対する隼人の服従のしるしであることは間違いない。
服従には何かのしるしが必要であった。
隼人の場合それは、天皇の代替わりごとの大嘗祭で隼人舞を奏するという形で表現されたのである。
そしてそれは王と道化の関係として祭式化されているといえる。

なお、(略)いわゆる天孫降臨が偏狭の南九州の地になされたのは、少なくともそこに隼人が蟠踞していたことと無関係でないとする私の持論は、天皇が誕生する大嘗祭という儀式の場で、隼人服従のしるしであるこの隼人舞が演じられることを一つの根拠としていることをいっておく。


ちょっと西郷さんだけ長すぎましたでしょうか。
これでもかなり省略しています。
本文はかなり詳細に説明されておりますので、よろしければ「古事記注釈第四巻」をご参照ください!

それでは、次はトヨタマ姫の出産話です!

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Re:当サイトは11歳になりました
2021/12/09 20:35 兼倉(管理人)
Re:当サイトは11歳になりました
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2021/05/09 13:07 兼倉(管理人)
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Re:お返事です!
2021/05/03 11:19 兼倉(管理人)