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(後編)木梨之軽王と軽大郎女(禁断の兄妹愛)・その3!本文ファイナル!

これでホントに終わりです!
兄と別れていることに堪えられなくなった妹が、ついに伊予に渡ります。

かれのちまたしのふにへずして、追ひきし時に、歌ひて曰はく、

 君がき 長くなりぬ随分日にちが過ぎた
 造木やまたづ<枕詞> むかへをかむ迎えにいきます
 待つには待たじもう待ちません

この歌・・・どこかで見たような・・・と思ったらこれでした!
君が行き 日け長くなりぬ 山尋ね
 迎へか行かむ 待ちにか待たむ  巻2-85

万葉集に載っている磐姫の歌とそっくりじゃないか!!
どうしてこんなところに!?と思って万葉集の該当箇所を見てみたら・・・
右の一首の歌は、古事記と類聚歌林るいじゅうかりんふところ同じくあらず、歌のぬしもまた異なり。
と出てました。
類聚歌林というのは、万葉集が作られた当時には存在していたと思われる歌集のひとつです。
万葉集はいろいろな歌集からも歌が集められていて、万葉集の磐姫の歌はこの類聚歌林からとられたようです。
それはともかくとして、万葉集を作った人も、ちょっと疑問に思っていたようですね。
万葉集には一応この後、日本書紀の記述を参照していました。
日本書紀では前にちょっと書いたとおり磐姫は浮気した仁徳天皇を許さずに死ぬまで山城から帰ろうとしなかったというオチになってまして、この歌もそのオチにのっとって書かれたものなので古事記には載っていません。
さらに木梨之軽王と軽大郎女の話も日本書紀では、伊予に流されたのは兄ではなく軽大郎女の方ということになってました。
兄はまがりなりにも皇太子なので流すわけにはいかない、というのが理由だったようです。
今更ですが、やっぱり古事記と日本書紀はかなり違いがありますね。
また、万葉集のこの記述が、万葉集の著者は古事記と日本書紀を読んでいたということになるわけで。(後の世の誰かによって追加されたものでないとすればですが)
このあたりも結構気持ちがたぎるポイントだったりします。
ついでにもうひとつ。
造木やまたづは「迎ふ」の枕詞です。
古事記が書かれた奈良時代ではミヤツコギ(国造くにのみやつこみやつこ)といって、ニハトコのことだそうです。(ニハトコはミヤツコが訛ったものと考えられます)
ニハトコはスイカズラ科の落葉低木で、枝葉が向かい合っているので「やまたづ」を、「迎ふ」を導く枕詞に用いたのだそうです。なるほどー!

では続き。
最後まで一気にいきます!

故、追ひいたりし時に、待ちむだきて、歌ひて曰はく、

 こも<枕詞> 泊瀬はつせの山の
 大峰おほをには大きな峰には はた旗を立て
 さ小峰ををには小さい峰には はた
 おほをにし(同じ山の)大小の峰のように 仲定なかさだめたる 思ひづまあはれ
 槻弓つくゆみの やるやりも(病で)臥している時も
 あづさ弓 てりてりも起きている時も
 のちも取り見る後々まで見取りたい 思ひ妻あはれ

又歌ひて曰はく

 こもの  泊瀬はつせかは
 かみつ瀬に くひ清めた杙を打ち
 しもつ瀬に くひ聖なる杙を打ち
 くひには 鏡を
 くひには たま立派な玉を懸け
 真玉なす いもそのような玉のように大事に思う妻
 鏡なす つま 有りと言はばこそよ
 いへにもかめ 国をもしのはめ

如此かく歌ひて、すなはち共にみづから死にき。

(山に囲まれて隠った処の)泊瀬の山
大きな峰に 旗を立て
小さな峰に 旗を立て
(そうしてひとつの山の中に寄り添いあっている)大小の峰のように 仲を思い定めたいとしい妻よ ああ
(槻弓を横に伏せて置くように)臥せている時も
(梓弓を立てかけておくように)起きている時も
行く末をずっと見守りたい いとしい妻よ ああ

(山に囲まれて隠った処の)泊瀬河の
上流には わい清めた杙を打ち立て
下流には 同じ聖なる杙を打ち立て
清めの杙には 鏡を取り掛け
聖なる杙には 玉を取り掛ける
その立派で美しい玉のように 私が大事に思う妻よ
その澄んで明らかな鏡のように 私が大事に思う妻よ
おまえがそこにいると言うからこそ
家に行きもするし 国を偲びもするのに

このように歌って、共に死んでしまった。


うわああああ!
し、死んでしまった・・・!(いや、知ってたけども)
悲恋はやっぱりやり切れませんね・・・。
なまじ大碓と明姫に重ねていただけにちょっとキツイですよ・・・。
あぁぁぁ(ため息)
歌も佳境ということでかなり対比やら美麗字句やらが使われて雰囲気を盛り上げてますね。
これが人々の前で歌い踊って演じられていた場はどんな感じだったんでしょうか。(参加してみたい・・・)(無理だけど)
で。
実はここの歌はかなりいろいろな人が「場面にそぐわない」とか「意味を取りかねる」とかいっていて、訳もかなり無理やり場面に合わせているような印象です。
泊瀬は今の奈良県桜井市初瀬に比定されていて、葬送儀礼の象徴的な場所です。
四国に流された木梨之軽王が奈良の地名を歌うのは、自分たちの死を覚悟した気持ちの現れでしょうか。
ちなみに「木梨」という名前は「無し」、つまり、越えてはならない実の妹との境を越えてしまったという意味でつけられたのではないかという説もあります。(ex西郷信綱)
また、「おほをにし」ですが、「大峰おほを」と「大小おほを」をかけたもので「中」の枕詞とも、大小が並ぶ様子から「仲」の枕詞ともいわれていて、解釈は一定していません。

さて、木梨之軽王と軽大郎女(衣通郎女)の話はこれで終わりです。
次回は前回の磐姫にもどって、飛ばしてしまっていたエピソードをご紹介いたします。
磐姫の話の中では一番痛快なお話になってます。
別名「口子臣の受難編」!(勝手に命名)

(前編)木梨之軽王と軽大郎女(禁断の兄妹愛)・その3!本文ファイナル!

さて木梨之軽王と軽大郎女の話もついに結末を迎えます!
早速本文の続きへ・・・という前に、実は前回最後のところで歌を1つ忘れていたので(オイ)それから先に見ます。
島流しが決まった木梨之軽王が歌った歌。

又歌ひて曰はく

 あまむ かる嬢子をとめ
 したたにも り寝て通れ
 かる嬢子をとめども

(空を優雅に飛び廻る鳥=かりと似た音の地名の)かるの里のお嬢さん
しっかりと(私に)寄り添って眠りなさい
軽の里のお嬢さん

「したたにも」はここでは「しっかりと」と訳していますが、他にも「忍び忍んで」と訳す説もあります。
これは前の歌の「下泣きに泣く」「下」「こっそりと」「忍んで」とシタという音が響きあっていることに由来した訳です。
確かにそう訳した方が全体のバランスが取れて美しくなるような気もするし、私もはじめはその訳にしようかなぁと思っていました。
でもここは別れを前にしたシーンで実際には「寄り添って寝る」ことは出来ない状況で、それでも敢えてこう歌っているので、現実に寄り添うというよりは、心の中ではしっかりと寄り添って、という想いというか願いというか希望というか、そういうものを込めているという私の妄想により「しっかりと」の訳を採用させていただきました。
人知れずこっそり泣いている想い人に言葉だけでも「しっかりと寄り添って」と歌いかけることは、今の感覚でも切ない気持ちが高ぶるのですが、この当時は恐らく「言霊」の考え方が根強く合ったとも思われるので、単純な希望よりももっと大きな意味があったのではないでしょうか。
ちなみに「言霊(ことだま)」というのは、たまに誤解された解釈を見るので、念のため書いておきます。

(誤)口に出した言葉が現実になる
(正)口に出した言葉が現実世界に影響を及ぼす

微妙な違いですが、口に出したことがそのまま現実になるわけではないということが大きな違いです。
漫画や小説では効果の狙いもあってよくこういう演出がなされているので誤った理解をする人が出てくるのだと思います。
それはそれでいいと思いますが、古代における「言霊」の概念はもっと広くて大きくて緩い感覚です。(半分「こじつけかよ」くらいの気持ちで解釈するとちょうどいいです)

さて、では続きの本文を見てみましょう。
島流しにされる直前に木梨之軽王と軽大郎女の贈答歌。

かれ、其のかるの太子おほみこは、よの(愛媛県松山市の道後温泉)に流しき。また、流さむとせし時に、歌ひてはく、

 あまぶ 鳥も使つかひ(私の)使いと思って
 たづの 聞えむ時は が名問はさね鶴の鳴き声が聞こえたら私の名を聞いてごらん

又歌ひて曰はく

 大君おほきみ(である私)を 島にはぶらば
 船余ふなあま<枕詞> いがへむぞ必ず帰ってくるぞ
 我がたたみゆめ(いつも寝起きしている)私の畳は汚すことなくいつも整えておくように
 ことをこそ 畳と言はめ言葉こそ畳と言っているが
 我が妻はゆめ(同じように寝起きを共にした)私の妻のことだよ、いつまでも変わりなくあれ

伊予の湯はちょっと前にやった大国主(オホナムチ)とスクナヒコナの伝承が残る温泉でしたね。
オホナムチの足跡が残る岩があるというあの温泉です。
それにしても、はじめの優しい慈愛に満ちた歌と、次の強烈な敵意をむき出しにした歌は好対照ですね。
後のほうの歌は私の主観的な意訳がかなり混じっていますので、念のため一般的な訳も載せておきます。
大君たるこの私を島に追放するならば
<船余り>必ず帰ってこようぞ。
それまでは私の畳は決して変わりあるな。
言葉では畳というが、
実は我が妻よ、お前こそ決して変わりあらずにいてくれよ

「ゆめ」というのは前回の大前小前宿禰臣が歌った「里人もゆめ」と同じ意味を持つ言葉です。
あの時は「騒ぐな」と訳しましたが、おおもとはみ慎め」という禁止を意味する言葉です。
余談ですが、出雲の神在月(旧暦十月)は全国から神様が集まるといわれていて、外の人たちは「この時期の出雲はきっと賑やかだろうな」という印象を持つ方が多いようですが、実際は神様の邪魔にならないように一切の歌舞音曲を控えて斎場の静粛と静浄を保ちながら、神送りの日までみ慎」みます。
この「お忌みさん」と呼ばれる期間の出雲はとても不思議な感覚です。
もちろん神在月に県外からたくさんの人たちが訪れて出雲内はかなり人で溢れ、また神社もいつもとは違う装いになり、確実に普段とは違う「非日常」の雰囲気になります。
でも静かにしているんです。
静かにしながら、どうにも抑えきれない高揚感を内に感じつつ過ごすことになります。
この所謂「ハレの日」独特の静かな高ぶりの感覚を分かっていただけるでしょうか。
経験がなくとも、同じ日本人なら何かしら響くものがあるはずと信じています!
余談が長くなってしまった・・・スミマセン。
ついでにもうひとつ、「我がたたみゆめ」について。
「畳」ですが、もちろん今の畳ではありません。
平安時代の貴族は畳を敷いて寝ていたというのをいつか書いたことがありましたが、今みたいに床一面に敷いてあるものではなく、一枚(もしかしたら数枚?)敷いて、そこだけ特別に設(しつら)えてある場所です。
畳自体も今みたいな四角くてイグサがきっちり編んであって・・・というようなものではなかったと思います。
畳はもともと筵(むしろ)を何枚も重ねたものが起源とされていますが、古事記が書かれた時代は恐らくその過渡期にあったのではないかと推測しています。(私の勝手な推測なので根拠はないのですが)
また、この時代の感覚として「旅に出ている間は家にあるその人のものをみだりにいじってはいけない」という信仰があったようです。
「旅に出た時と変わりなく無事な姿で帰ってきてほしい」という願いからでしょう。
だからこそ島送りになる木梨之軽王が「畳を汚すな(いつものように整えておくように)」と歌うわけですし、さらに「軽大郎女も変わりなく身を慎んでいてくれ」と願うのです。
「行きたくない」っていう未練たらったらな心情がビシビシ伝わってきますね。

はい!ではいい加減次にいきます!
兄を見送る軽大郎女の歌。

其の衣通王そとほりのみこ=軽大郎女、歌をたてまつりき。其の歌に曰はく、

 夏草なつくさの<枕詞> 阿比泥あひねの浜の き貝に
 あしますな あかして通れ

<夏草の>あいねの浜の貝殻に、
足を踏んでお怪我をなさいますな。明るくなってからお行きなさいませ

あのですね、私はこの歌を初めて読んだ時、ちょっと冷たい印象を受けたんですよね。
だって兄の方は未練たらたらで行きたくないっていう気持ちが凄く伝わってきたんですが、それに対して軽大郎女のこの歌は、無事にいってらっしゃい、っていう感じに取れたわけですよ。
あー・・・なんかちょっとドライだなぁ・・・みたいな。
まぁひとつの説として、古事記に載せられている歌は、本人たちが歌った歌というよりは当時の人たちがよく歌っていた歌を場面に応じて当て嵌めていったという人もいるので、これがそのまま軽大郎女の心情ということは言い切れないとは思いましたが。
しかし!
しかしです!
私この歌の最後の二句「足踏ますな 明かして通れ」のフレーズに物凄く覚えがあったんです。
でもどこで聞いたか分からない・・・!どこだっけ・・・!!
と考えていて、思い出しました。
二年前に古代史にハマりだしたばかりのころに休みの度に通いまくっていた「古代出雲歴史博物館」の歌垣を題材にした映像で歌われていた歌でした!
あの映像の中に出てくる歌は「宴の陰(阿高と鈴の祭の話)」を書く時にいろいろ参考にしていたので結構熱心に見ていたんですよね。
あの歌の由来はよく分からないのですが、歌垣の歌ということはちょっと解釈が違ってきますよ!
「明かして通れ」というのは、「私のそばで夜を明かしてからお行きなさい」という(共寝を誘う)意味になります。
というわけでこの歌は「夏草の~足踏ますな」までは、最後の「明かして通れ」を伝えるための適当な理由付けというわけですね。
なんだかんだと言いながら結局そばにいてほしいという想いを歌っています。
千種か・・・!(電波受信)
「あ、あの、藤太。暗い内から出ては、先がよく見えずに怪我をするかもしれないわ。だから、その、今夜は休んでから・・・」
「・・・・・・(千種は本当にこういうところがかわいいよね)」
とか駆け巡っていきました。

・・・で、スミマセン、予想外に時間を使ってしまいました。
後半は次の記事で書きます!

木梨之軽王と軽大郎女(禁断の兄妹愛)・その2!

すごく間が空いてしまった・・・!
続きです!
前回は木梨之軽王きなしのかるのみこが妹の軽大郎女かるのおほいらつめに熱烈な歌を送っており、その内容から兄は妹と仲を深めたり泣かせたりにゃんにゃんしたりまあいろいろ赤裸々なことが分かりましたね!
しかし二人は同じ母親から生まれた兄妹。
別の母親から生まれていたのなら兄妹でも問題なかったのですが、古代において同母の兄妹(または姉弟)の婚姻は禁忌とされておりました。
父親の允恭天皇の死後、まだ位を継いでいなかった日嗣の皇子である木梨之軽王は、何とその禁忌を犯していたのです。

ここもちて、百官ももつかさあめの下のひとと、かるの太子おほみこそむきて、穴穂あなほの御子みこりき。しかくして、軽太子、かしこみて、大前小前宿禰大臣おほまへおまへのすくねのおほおみが家に逃げ入りて、兵器つはものを備へ作りき。穴穂王子みこも、また、兵器を作りき。

おおお・・・一気に人気が落ちてしまいましたね。
百官の百は実際の数ではなく、多いという意味で使われている例です。
八百万の神とかびきの岩とかと同じ話ですね。
神様が全部で八百万柱いるという意味ではないし、岩を実際に千人で引っ張るわけでもないです。
で。
官吏や一般の民草の多くが「さすがに近親相姦の王はちょっと・・・」ということで、次の皇位継承権のある穴穂御子の方へ味方についてしまいます。
身の危険(?)を察した木梨之軽王は大前小前宿禰大臣の家に逃げて戦準備のため武装します。
同じく穴穂御子も武装。
いざ全面対決か!?

ここに、穴穂御子、いくさおこして、大前小前宿禰が家をかこみき。しかくして、其のかどに到りし時に、おほさめりき。かれ、歌ひて曰はく

 大前 小前宿禰が かなかげ金で装飾された戸の陰に
 く寄り寄って来い 雨ち止めむ立ったまま雨が止むのを待とう

爾くして、其の大前小前宿禰、手を挙げ膝を打ち、ひかなで、歌ひてたり。其の歌に曰はく、

 宮人みやひと足結あゆひ小鈴こすず 落ちにきと足結の鈴が落ちてしまったと
 宮人とよ騒いでる 里人さとびともゆめ民草は騒ぐ必要ないぞ

戦勃発!
っていうか、ここまでいく前に誰か木梨之軽王を止めようとする人はいなかったのかと私は問いたい。
もしくは二人の仲を引き離そうとするとか。
だって前代の允恭天皇によって定められた正当な日嗣の皇子ですよ?
そんなに簡単に切り捨てられるものなのでしょうか?
このあたりがどうしても私は納得いきません。
それとも近親相姦とは知れた瞬間一発アウトになるほど重大な禁忌だったのでしょうか・・・?
さて、本文ですが、二人とも争いの準備はしていましたが、先手を取ったのは弟の穴穂御子でした!
兄が頼った豪族大前小前宿禰臣の屋形の前で挑発するような歌を歌います。

>大前~
 大前小前宿禰臣の屋形の戸の陰に、
 こんなふうに寄って来い。雨を立ったまま止ませよう。(=雨宿りして待つ)


「金戸」というのは一般的には金属で装飾した戸とか堅い戸という意味でとられているのですが、カナトという音が単にその家の門(入り口)の戸、という意味で使われることも多いので、私はそう読みます。
まぁ日嗣の皇子が頼る豪族ですから、かなり豪華で立派な門には違いないかもしれませんが。
そして、そんな立派な門の「蔭」に寄って来い、と歌っていますが、この「蔭」という言葉。
個人的にはここにはかなりの皮肉というか嘲りの意図がこめられているような気がします。
みなさまはどうですか?
天皇はもともと太陽神の子孫ということにもなっているし、次代を継ぐ皇子を「日嗣ぎ」と表現しますから、仮にもその「日嗣の皇子」に対して「蔭」という言葉を使うのはかなり痛烈に感じます。
・・・まああくまでも私の深読みで、特にどの本に書いてあったことでもないのですが。
で。
歌を聞いた大前小前宿禰臣は手を挙げて膝を打ち、さらに舞まで踊りながらやってきました。
敵意がないことを大仰に示したのでしょうか?
臣が歌うには

>宮人~
 宮仕えの方が足結の紐につけていた鈴を落としたと騒いでいるのだ。民草は騒ぐな。

足結は古代史(特に古墳時代)スキーならトップクラスの萌えアイテムですね!
膝の下でキュっと結んでいるあのスタイルは鬟(ミズラ)と共に大変たぎらずにはいられない!
足結の紐に鈴なんてついてたら歩くたびにリンリン鳴って邪魔なんじゃ?とか思うのですが、西郷信綱さんによると「これは宮仕えのためのもの」とのことなので、宮廷に出仕する人間の制服の一部と考えればいいのでしょうか。※新情報※足結の鈴は「立ち聞き防止のため」という説があるとの情報をいただきました。Rieさま情報ありがとうございました!
となれば、足結あゆひ小鈴こすず 落ちにき」というのは、現代でいうならセーラー服にスカーフがない状態とか、ブレザーにリボンやタイがない状態とか、スーツにネクタイがない状態とかと似たようなものかもしれません。
確かに様にならないですね。
よりにもよって神聖な御所の中でそれでは問題があるでしょう。
とはいえお分かりのとおり、これは臣の喩えです。
実際は次代の王位を賭けた兄弟の殺し合い。
で、ですね。
それを加味した上で、私はこの歌の解釈をどうとればいいのか、実は分かりません。(ホントすみません・汗)
「官人の騒ぎに民草は口を挟むな」と言っているのか「官人様が大変なのだ。民草も心しておれ(気を引き締めろ)」と言っているのか、それとも別の意味なのか・・・。
うーむ・・・。
穿って考えて「ただ鈴がないだけのことだから、民草は気にする必要はない」といっている・・・とか?(いやしかしこれはちょっとどうかな)
これをご覧になった方の中で何か案があったら是非お気軽に教えて下さい!
では、続きを見てみます。

如此かく歌ひて、参ゐりて、まをししく、

「我が天皇おほきみ御子みこ、いろみこいくさることかれ。し兵を及らば、必ず人、わらはむ。やつかれ、(木梨之軽王を)とらへて貢進たてまつらむ」

とまをしき。爾くして、兵を解きて、退きしき。
 故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、て参るでて、貢進りき。其の太子おほみこ、捕へられて歌ひて曰はく、

 あまむ かる嬢子をとめ いたかば 人知りぬべし
 波佐はさ山の はとの した泣きに泣く

「穴穂御子様、兄弟同士で戦をしては、民草に笑われてしまいますぞ。私が(木梨之軽王を)捕らえて差し上げます(のでお引き下さい)」
裏切った・・・!
・・・と、よくいわれるシーンです。
私としては、ここで直接木梨之軽王を差し出さなかったのは何か意味があるのでは?とか思ってしまうのですが、どうでしょうか。
顔を布か何かで隠せば民の目は簡単に誤魔化せそうですし、この場で殺すという選択肢もなくもない気もしますし。
皇子の血で穢れるのを嫌った?(しかしこの後の「穴穂@安康天皇」の条では「ワカタケル@後の雄略天皇」が兄弟殺しまくってますが)
何かの時間稼ぎとか?
深読みしようと思えばどんどんドツボにはまりそうです。(まあそれが楽しくもありますが)
結局、木梨之軽王は捕らえられて差し出されてしまいます。
その時に歌った歌の概要は以下のとおりです。
 天を優雅に飛び廻る鳥(=かり) (その素晴しい鳥と音が似た地名の)軽の里のお嬢さん
 ひどく泣いたら 人に知れてしまうだろう
 波佐の山の鳩のように く、くと忍び泣いているのだよ

実は「軽」というのは地名です。
木梨之「軽」王も「軽」大郎女も、きっと軽の里で生まれ育ったか、軽の里出身の乳母に育てられたかしたのでしょう(※私の完全な思い込み予測なので不確かです)。
木梨之軽王は捕まってもまだ妹への想いを持ち続けているようです。
ここまでくるともういっそ清々しいですね。
さて、次回で最後になります。
捕まってしまった兄・木梨之軽王と妹・軽大郎女(衣通郎女)の運命は・・・!?

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