Entry

官能部部誌感想その四

気持ちを切り替えて感想の続きです!
ちなみに今アップルティーに生姜(粉)を入れて飲むのがマイブームなんですが、今さっき勢い余って粉を大量に入れてしまい、ものすごく辛いアップルティーになってしまいました。
どれくらい入れたかというと、マグカップに大さじ二杯くらいです。
アップル部分死滅しました。

官能部部誌感想その四@たかさわりえさん

<なよたけの鬼手姫>

題名からは、最近ジブリでも映画化された「なよ竹のかぐや姫」を連想しますね。
「なよ」とは現代語でも「なよなよしい」とか「なよなよしている」などの言葉が残っているとおり「弱い」という意味です。
「なよたけの鬼手姫」はかぐや姫のパロディー的なイメージを持ちながら、「弱い」とそれとは対照的な意味を持つ「鬼」という言葉が組み合わさったパラドクス的な二重構造の題名になっているんですね。
このあたりの言葉選びが、さすがはりえさん!と思いました。

内容に関しては、康行と紫乃はどうなったのかはもちろんかなり気になるわけですが、父上の

「片腕を見逃してやった恩を、もう忘れたか」

これに全部持っていかれた気がしますね!
なんだかすごい過去を想起させられるではないですか!
父上はお若いころ何をなさっておいでだったのですか!?
もしやすごい経歴があったのですか!?
そんなお方が、失った大事な人を思いながら年を重ねていらっしゃったわけですか!?
なんということだろう。
私のツボどストライクですね。(半分くらい勝手な妄想で盛り上がっている)
私と同じツボをお持ちの方は絶対ここは見逃せなかったはずと信じています。

かぐや姫のパロディー的な要素のお話で、そういう視点からも大変楽しく読めました。
ありがとうございました!
あと一回で感想終わります。
年内には終わりそうですね。
来年は何をしようか・・・。

官能部部誌感想その二

官能部部誌その2の感想つづきです。
相変わらずネタバレなので畳みます。

官能部部誌感想その二@糸村和奏さん

<ひとつになれない幸福>

エッセイのような、小説のような、不思議な形式の作品でした。
和奏さんのブログによると、梨木香歩さんの「沼地のある森を抜けて」という作品の影響が大きいそうですが、私はこの作品を読んだことがないのでご存知のお方は和奏さんの作品を読んでどのようにお感じになったのかぜひお聞かせいただきたいです。
私が初読で感じたのは、明確な起承転結や佳境はなくて、まるで軽くデザートを食べるような感覚で味わいながら最後の一口を飲み下した瞬間に、あれ?私いつの間に食べ終わってたの?
気づいたら夢中で貪っていたということを読み終わって初めて気づくんです。
すごく不思議な感覚です。
比較的短い作品でしたが、和奏さんの実験的な試みが大変興味深い仕上がりだったと思いました。

目に映っているのはゆっくりと蠢くつむじ。

開始二行目でこの一文。
いきなり度肝を抜かれた気がしました。
官能というか、もう、エロい(直球)
つむじが見えるってすごく近い距離なんですが、主人公の顔よりは相手の頭が下にあるということですからね。
しかもそれが蠢いている。
何てことだ…何てことだ…(落ち着け)
もうこの一文は商標登録したらいいと思いますね。
出てくる単語の一つ一つは健全そのものなのに、組み合わせるとこんなにも官能的になってしまう。
出てくる二人は大変爽やかな透明感を感じさせられましたが、二人がお互いへ抱く感情は切実な官能と愛情というのが堪りません。
ひとつになりたいと渇望しながら、一方で、別々の個体だからこそ相手から優しくされて嬉しかったり、抱きしめようとか囁き合おうとかそんな楽しみで胸を躍らせたりできるという幸福感でいっぱいになる主人公が大変可愛らしくて、この作品を読めてよかったと思いました。

続きはまた後日!

官能部部誌感想その一

忙しい年の瀬、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
長いことお返事関係以外で日記を書いていなかったら、日記の書き方をすっかり忘れてしまっていたようで、書き出しを考えるだけで30分くらい浪費してしまった兼倉です。(なんてこった)
書きたくなったら書けばいいなんていうのは文章作成が神レベルに慣れている人にだけあてはまることで、そうでない凡百の民たる私のような人間は、無理にでもある程度定期的に文章を書いていないと恐ろしいほど文字が出てこなくなってしまうというのを身をもって実感しました。
今後はもっと日記を書きたいと思います。

そんなわけで!
「官能部部誌その2」
の発行を記念して感想を書かせていただきます!
まだ手に入れておられない方は先に上記のリンクからどうぞ。
ネタバレ部分を含みますので、以下畳ませていただきます。

官能部部誌感想その一@渡部ひのりさん

<過ぎ去りし 猛き季節を偲ぶ夜の 君と絡める指先凍え>

部誌の巻頭に飾られていたのは渡部ひのりさんの現代和歌でした。
まず、直接夏とせずに「猛き季節」と表現しておられるところに注目しました。
ただの季節としての夏が過ぎたのではなく、夏にこの二人の間に猛るような何かが起こったことを暗示している気がしたのです。
もしかして、二人の関係(恋)が始まったのが夏だったのかも。
猛る思いが生まれた夏から季節は移り、冬、二人の関係は少しずつ縮まってきている。
寒いけど、でも相手に直接触れたくて凍えるのを承知で手袋なんかしないで素手で手をつないでいるのでしょう。
いいなあ!こういうの!初々しい必死さに私は萌え狂いました。まあ完全なる私の妄想なのですが。(知ってます)
また、和歌は言葉が少ない分、ほんのちょっと言葉を変えるだけで雰囲気がガラッと変わるのが魅力の一つであると思っています。
いくつか見てみましょう。

「過ぎ去りし 猛き季節を偲ぶ夜の 凍える指先君と絡める」
「過ぎ去りし 猛き季節を偲ぶ夜に 凍える指先君と絡めた」
「過ぎ去りし 猛き季節を偲ぶ夜 君と絡める指先凍え」
「過ぎ去った 猛る季節を偲ぶ夜は 君と絡める指が凍えた」

どうでしょう。
結構違いますよね。
実は私の祖父も和歌を嗜んでいるのですが、和歌を詠む人はあの短い言葉を編み出すのに、裏でかなりの推敲を重ねています。
松尾芭蕉なんかも弟子に何度も相談していたという記述が残ってますね。
数限りなく存在する表現の中で、詠み手の方がなぜこの言葉をこの順で選んだのか、自分でいろいろ読み替えて比べてみるとさらに和歌の味わいが増すとともに、詠み手の方のこだわりや個性が見えてきてさらに面白いのではないかと思います。
渡部ひのりさんがこの和歌を編み出すのにどのくらい推敲をされたのか、または一発でこれしかないと思い定める言葉だったのか。
ちょっと聞いてみたいですね。
私自身は歌詠みではありませんが、自分の文章でもこだわる個所はかなり推敲を重ねますし、またその作業がすごく好きです。
何度も推敲を重ねた結果結局初めに書いたものを採用することも多々ありますが(苦笑)、推敲している最中は自分の中のすごくすごく深い部分を探っているような気がして面白いんです。
みなさんはどうですか?

長くなってしまったのでいったん切ります。
続きは明日にでも!

Page

Utility

簡易メニュー

薄紅語り
(過去の日記の薄紅天女の妄想語り一覧)
古代史語り
(過去の日記の古事記とか万葉集とか他)
Web拍手
(お気軽に頂けると嬉しいです)
拍手は別窓、語りは同窓で開きます。

日記内検索

カレンダー

< 2024.11 >
S M T W T F S
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
- - - - - - -

コメント一覧