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日向神話~山幸彦の綿津見の宮訪問~前編

続きです!
ここで、前回のおさらい&ちょっと飛ばしますので簡単にあらすじをご紹介いたします。

~あらすじ~
兄から借りた釣り針を無くしてしまったホヲリ(山幸彦)。
代わりの針をいくら作って謝っても、兄ホデリ(海幸彦)は頑なに「元の釣り針返せよ!!」と言って譲りません。
山「こんなに広い海であんな小さい針が見つかるはずないよ。兄さんの分からず屋。あ~あ、どうしよう・・・」
意気消沈したホヲリは、海辺で泣いていました。
するとそこへ、潮流の神であるシホツチの神が現れます。
シ「この船に乗って、海神ワタツミの宮へ行き、入り口の泉のそばの桂の木に登りなさい。海神の娘がきっと助けてくれるでしょう」
不思議な予言を聞いたホヲリは、言われたとおりに船に乗って海神ワタツミの宮へとやってきました。



それでは本文始めます!

(すなは)ち、その香木(かつら)に登りて(いま)しき。
(しか)くして、海の神の(むすめ)豊玉(とよたま)毘売(びめ)侍婢(つかひめ)玉器(たまもひ)を持ちて水を()まむとする時に、()(かげ)あり。
(あふ)ぎ見れば、(うるは)しき壮夫(おとこ)あり。

「井」というのは井戸のことではなく「泉」のことです。
「玉器」とは泉の水を酌むための「器」ことで、美称の「玉」を付けています。

ホヲリ(山幸彦)はシホツチの神に言われた通りに、宮の入口にある泉の近くの桂の木に登りました。
すると、タイミングよくトヨタマ姫(海神の娘)の侍女が水を汲みにやって来たました。
水を酌もうと泉をのぞくと・・・何とかなりイケメンの"(かげ)"が!

ここで、「光」に「カゲ」とあえてルビを振りました。
本によってはそのまま「ヒカリ」としているものもあるのですが、ここでは泉に映った姿のことをいっていると思うので「カゲ」の読みが好ましいと思うのです。
万葉集にもいくつか貴人の影を「光」と表現する歌があるので、これも同様の例とも考えられます。
私がいつも主に引用させていただいている山田永さんの本には「ヒカリ」としてありましたが、今回は西郷信綱さんなどなどが主張される「カゲ」の説を支持しようと思います。
もちろん、どちらが正しいかは分りませんし、決める必要もないと思います。

さて、侍婢のお姉さんに見つかったホヲリ。
このあとホヲリはどうするのか。
続きを見ます!

侍婢(つかひめ)は)いと異奇(あや)しと思ひき。
(しか)くして、火遠理(ほをり)命、その(つかひめ)を見て、

「水を得むと(おも)ふ」

()ひき。
(つかひめ)(すなは)ち水を酌み、玉器(たまもひ)に入れて貢進(たてまつ)りき。
(しか)くして、(ホヲリは)水を飲まずして、()(くび)の玉を解き、口に含みてその玉器(たまもひ)()き入れき。

突然現れたイケメンに動揺する侍婢のお姉さん。
私はこれを、『木に登って泉に「カゲ」を映して、訪問したのは自分であるにも関わらず始めに相手に発見させて興味を持たせているという高度な駆け引きではないかと感じました。
シホツチの神の機転です!やるなシホツチの神!こういう仕掛けが面白いぞ古事記!
ホヲリはすかさず「水がほしいんだよね」と言いました。
素直に玉器を渡すお姉さん。(イケメンにやられ気味と推測)
ホヲリは器を受け取ると、自分の首にかけていた玉を口に含んで「ぺっ」と器に吐き出しました。
感染呪術の一種でしょうか。(※感染呪術:その人の身につけていたものにはその人の魂が宿る)
ホヲリはトヨタマ姫の元へ運ばれるはずの器に自分の玉を吐きいれて、自分の分身を彼女の元へ送り込むという作戦のようです。

ここに、その玉、(もひ)につきて、(つかひめ)、玉を(はな)つことを得ず。
故、玉をつけながら、豊玉(とよたま)毘売(びめ)命に(たてまつ)りき。(略)

ホヲリが吐き出した玉は何と器にくっついて離れなくなってしまったようです!
イケメンは何でもできるnホヲリにはこんな特殊能力があったのですね!
前回のホデリ(海幸彦)との話では兄の釣り針を貸してと無理にねだったあげく、それを無くして兄にこっぴどく叱られて泣いていたのに、それと同一人物(神)とは思えない知恵者ぶりです。
海という異界にやってきたせいかもしれません。
実は「異界訪問」による人格(神格)の変化は他にも例があります。
おそらく皆様真っ先に思い浮かぶのは「スサノヲ」ですよね。
高天原では大暴れで迷惑をかけまくっていたスサノヲが、出雲に天降ったら知恵を駆使してヲロチを退治する英雄になってしまいます。
また、大国主命たる「オホナムチ」も根の国訪問という異界訪問を行っています。
ここではまだ書いたことはありませんが、それまで兄たちにいいようにやられるばかりだったオホナムチが、根の国にやってくると妻の力を借りながらスサノヲの繰り出す様々な試練を見事に乗り越えて、最後はスサノヲを出し抜いてしまうのですから大したものです。
このホヲリの「綿津見の宮訪問」も含めて古事記の上巻には三つの異界訪問譚が載せられているわけですが、この三つに共通することは、三人が三人ともこの異界訪問によって妻を得ているということです。
妻を得るということは、妻の力を得るということです。
ホヲリの母親であるコノハナノサクヤ姫は大山津見という山の神様の娘でしたから、彼はすでに山の力を持っています。
そして、この海の神の娘であるトヨタマ姫と出会うことにより、海の力も併せ持つことになるのです。

少し先走って書いてしまいました。
話を戻して続きをみます。
機転を利かせて自分の訪れをトヨタマ姫に伝えたホヲリ。
トヨタマ姫の反応は?

(しか)くして、豊玉(とよたま)毘売(びめ)命、(あや)しと思ひ、()で見て、(すなは)見感(みめ)でて、目合(めくはせ)して、その父に(まを)して()ひしく、

()(かど)(うるは)しき人あり」

といひき。

豊「お父様、大変よ!ウチの門の傍にすごいイケメンがいるの!
やりました!掴みはオッケー!(古)
父親の綿(わた)津見(つみ)(海神)までトントン拍子に話が進みます!
スサノヲやニニギの時もそうでしたが、高天原の神は国つ神に歓迎されるのが特徴です。(スサノヲはアシナヅチに「アマテラスの弟」という部分を強調して名乗っているので、高天原側の立場と考えます)
それでは続きを見ます。

(しか)くして海の神、自ら出で見て()はく、

「この人は天津日高(あまつひたか)御子(みこ)虚空津日高(そらつひたか)ぞ」

といひて、(すなは)ち内に()()りて、みちの皮の(たたみ)を八重に敷き、また、きぬ畳を八重にその上に敷き、その上に(いま)せて、百取(ももとり)机代(つくえしろ)の物を(そな)へ、()(あえ)をして、(すなは)ちその(むすめ)豊玉毘売に()はしめき。
(かれ)三年(みとせ)に至るまで、その国に住みき。

ホヲリさん釣り針は?(冷静なツッコミ)
泣くほど落ち込んでいたのに、かわいい娘さんと出会ったらイチャイチャして三年も楽しく過ごしてしまったわけです。
落ち込んだホヲリを心配してくださった方もいらっしゃったかもしれませんが、彼は意外と元気みたいですよ。
・・・揚げ足取りはこのくらいにしておきましょうか(笑)
トヨタマ姫の父の海神は「この人は天津日高之御子の虚空津日高だ」と言っています。
どちらもホヲリに対する美称といわれています。
こうしてホヲリは大変な歓待を受けます。
「みちの皮」というのは「アシカの皮」のことです。
アシカの皮を何枚も敷いた上にさらに絹の敷物まで何枚も重ねてその上にホヲリを座らせ、様々なご馳走を出して、極めつけにトヨタマ姫と結婚させてくれました。

さて、これからいよいよ物語が動きます。
ホヲリとホデリのきょうだいの行く末は・・・?

また、前回更新時にコメントで「絵本で読んで山幸彦(ホヲリ)に同情してましたが、海幸彦(ホデリ)に感情移入する意見が珍しかったです」というようなご意見を複数いただきました。
そのことについて、この記事内で書こうと思っていたのですが予想外に長くなってしまったので、この次の記事で書かせて頂きます。

日向神話~海幸彦と山幸彦の仲違い~

海幸彦と山幸彦のお話です!
それではさっそく本文です!

(かれ)()照命(でりのみこと)は、(うみ)さち毘古(びこ)として、(はた)広物(ひろもの)(はた)()(もの)を取り、火遠理(ほをり)命は、(やま)さち毘古(びこ)として、毛のあら物・毛の柔物(にこもの)を取りき。

まず始めに人物紹介です!
<海幸彦とは>
火照(ほでり)命のことです。
ニニギ様とコノハナノサクヤ姫の第一子です。
海で漁をして幸を得ていたので海幸彦と呼ばれています。
<山幸彦とは>
火遠里(ほをり)命のことです。
ニニギ様とコノハナノサクヤ姫の第三子で、火照(ほでり)命の二人目の弟です。
山で狩りをして幸を得ていたので山幸彦と呼ばれています。

因みに第二子の火須勢理(ほすせり)命は話には登場しません。
日本書紀には名前すらない謎の存在です。

そして続いて用語解説!
(はた)広物(ひろもの)(はた)()(もの)・・・ヒレの広い魚や狭い魚
※ヒレの大きさは魚そのものの大きさにも比例します。つまり大きい魚や小さい魚という意味です
・毛のあら物・毛の柔物(にこもの)・・・毛の荒い(固い)獣や毛の柔らかい獣
※これも同様に毛が荒い(固い)獣は大きな獣(猪や熊など)で、柔らかい獣は小さい獣(兎やキツネなど)を表していると思います。つまりさまざまな獣という意味です。

対句のような表現ですね。
更に古事記の特徴として、「ものの全体を表現せずに一部のみを描写する」という特徴があります。
以前、スサノヲがクシナダ姫のために立てた宮を「垣根の立派な宮殿」という表現をしていたのを覚えておられますか?
垣根が立派な宮とは、もちろん垣根だけが立派なんてことはありませんよね。
垣根が立派な宮、その本命の宮の方はどれほど立派なことか。
古事記はそれを聞く・読む側にどうすればより内容が伝わりやすいか、とても細かな配慮(仕掛け)を行っていますね!

さて、本文ですが、兄弟は普段は海と山に分かれてそれぞれ漁と狩りをしていたようです。
そんなある日、弟の山幸彦が思いつきました。
山「兄さん!兄さん!おれいいこと思いついた!」

(しか)くして、火遠理(ほをり)命、その()()(でり)命に()はく、

(おのおの)さちを(あい)()へて(もち)ゐむと(おも)ふ」

といひて、()(たび)()へども、(ホデリは)許さず。
(しか)れども、(つひ)にわずかに(あい)()ふることを得たり。

山「兄さん、おれたちたまには獲物を交換してみたらどうだろう」
海「いやだよ。なんでおれが山に行かなきゃいけないんだ」
山「いいじゃないか、ちょっとだけ」
海「やだったら、やだ」
山「お願いお願い」
海「いいかげんしつこいぞ、おまえ」
山「一回だけでいいからさ、ね、ね、ね?」
海「あーもう!一回だけだからな!」

基本的にきょうだいは下には弱いものだよね!(そうじゃないきょうだいもあるかもしれませんが)
最初は渋っていた海幸彦でしたが、結局弟のおねだり(?)に屈してしぶしぶ交換してくれました。
兄から釣り針を借りた山幸彦は意気揚々と海へ向かいます。
山「よし!これで大物を釣りまくるぞ!」

(しか)くして、火遠理命、海さちを(もち)(うを)()るに、(かつ)て一つの(うを)も得ず。
また、その()を海に(うしな)ひき。

山「あ~あ、全然釣れないじゃん。しかも兄さんの釣り針もなくしちゃうし、最悪だな」
最悪なのはおまえだよ、このおバカ!というのは私の個人的な感情ですが。
それにしても人から借りたものを無くすなんて・・・。
山幸彦はちょっとおっちょこちょいすぎますね。

ここに、その()()(でり)命、その()()ひて()ひしく、

「山さちも(おの)がさちさち、海さちも己がさちさち。今は(おのおの)さちを(かへ)さむとおもふ」

といひし時に、その(おと)火遠理(ほをり)命の(こた)へて()ひしく、

(なむち)()は、(うを)()りしに、一つの魚も得ずして、(つひ)に海に(うしな)ひき」

といひき。

海「やっぱりおのおのの幸はおのおのの領分で得るべきだ。そろそろ元に戻そう」
山「ホントにそうだね。まったく兄さんの釣り針では小魚一匹釣れない上に、釣り針もどこかにいっちゃったし散々だよ」
海「・・・え?今、何て言った?」
山「だから、一匹も釣れなかったうえに釣り針もなくしちゃったんだよ
海「・・・な」

山幸彦さん、借りたものにケチを付けたあげくに堂々と「無くした」という神経はいったいどうなんだ、というツッコミはいれてもいいのでしょうか。
こうしてみると、古事記に出てくる神様や皇の方々は、なぜかツッコミどころがある方々がほとんどですね。
完全無欠のカリスマ的人物はどこを探しても見当たらないような気がします。(全体的に失礼)
人々の尊敬を集めるというよりは、人々により身近で同情や共感を得るような描かれ方が多いのは、ちょっと大事なことなんじゃないかと思っています。
ギリシャ神話に出てくる神様もちょっと間抜けだったり、ひどいことをしたり、泣いたり笑ったりが多いですよね。
神話ってどうして存在するのか。
少なくとも古事記神話を見ていると、完全に政治的に人々に天皇を賛美させるために作られたとは言い切れないという気がします。
それ以前の、もっと素朴な感性によって、神も自然も人も凄く垣根の低い場所で、英雄を尊敬するよりも友に共感するような気持ちが土台になっているように感じられます。

・・・話がそれました。
戻します。
さて、大事な釣り針をしぶしぶ弟に貸したら無くされてしまった海幸彦は、いったいどうするのか。

(しか)れども、その()(あなが)ちに()(はた)りき。
(かれ)、その(おと)御佩(みは)かせる()(つか)(つるぎ)(やぶ)り、五百(いほ)()を作り、(つぐな)へども、(ホデリは)取らず。
また、一千()()を作り、償へども、受けずして、()ひしく、

「なほ、その(まさ)しき(もと)()()むと(おも)ふ」

といひき。

山「・・・あ、あれ?兄さん?」
海「・・・・・・・・・」
山「え、えぇ…と、ご、ごめんね?」
海「・・・・・い」
山「え?何て言ったの?」
海「絶対許さない!さっさとおれの釣り針を持ってこい!」
山「えー・・・海で無くしたのに探してくるなんて無理に決まってるよ。仕方ないな、・・・ほら、おれの剣を砕いて針をこんなにたくさん作ってあげたよ。これで許してくれる?」
海「そんなクズ針で許せるわけあるか!」
山「じゃあもっとたくさん作ってあげたよ、ほら」
海「何度言わせるんだ!おれは絶対あの針じゃなきゃいやだ!絶対絶対おれの針を見つけてこい!」
山「えー・・・」

山幸彦は自業自得ですね。
海幸彦も頑なになってます。
どっちもどっち・・・とはいえ、若干海幸彦に同情してしまう私です(苦笑)
やっぱり自分が大事にしていたものを無くされてしまったらショックですよね。
しかもこの時代は前にも書いた「感染呪術」という考え方が信じられていた時代です。
「使ったものにはその人の魂が宿る」という考え方です。
古事記だけではなく、万葉集にもたくさん出てきます。
そうすると、海幸彦は自分の釣り針に愛着以上のものをもっていたとしても不思議ではありません。
そう簡単には諦めきれないのでしょう。
新しい釣り針を五百も千も持ってこられても、代わりにはならないというわけです。

さあ、窮地に追い込まれた山幸彦です。
いったい彼はどうするのか。
次回に続きます。

日向神話~海幸彦と山幸彦~前置き

海幸彦と山幸彦のお話が始まります!
イエーイ!!(毎回ノリノリでスミマセン)

今回この二人の話は少し長いので、ところどころあらすじで本文を省略しつつ、やっぱり拘りたいところは本文を載せながら進んでいきたいと思います。
よろしくお願いします。

とりあえず、このお話の概略は以下の通り。
①海幸彦と山幸彦の仲違い
②山幸彦の綿津見(わたつみ)の宮訪問
③海幸彦の服従

この中ではが一番長くなりそうです。
綿津見(わたつみ)とはその名の通り海神(わだつみ)のことです。
空色勾玉に出てくる「わだつみの神」を思い浮かべていただくといいと思います。
『孤立無援な若い神に、激励の辞を送る』
『わしは青海原の大わだつみの常波の、底なるところに住まう者』
『わしはすでに輝の支配も、闇の支配もとどかぬ彼方あるからじゃ。その意味では、そなたにもっとも近い者であるともいえる』
『わしも孤独であるがゆえに、孤独のそなたに激励を送るのじゃ』

どれも大変印象的な台詞です。
空色勾玉は「輝」と「闇」の対立が一つの軸になっていますが、世界観自体は決して「輝」と「闇」だけの二元論ではなく、それ以外の立場の存在もにおわせる非常に広い視野を持っている作品ですね。
そんな中でも、この「わだつみの神」は際立て目立っているとても不思議な存在です。
そのイメージが今回の話で少しでも掴めればいいなぁと思っています。

それでは、次から「海幸彦と山幸彦」の話を始めたいと思います。

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Re:当サイトは11歳になりました
2021/12/09 20:35 兼倉(管理人)
Re:当サイトは11歳になりました
2021/11/27 12:01 りえ
Re:お返事です!
2021/05/09 13:07 兼倉(管理人)