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【後編その二】「藤太」でなければならなかったこと、「苑上」でなければならなかったこと

大雪にも負けずに続きです!

阿高にとって藤太でなければならなかったことについては前回書いたとおりです。
今回は『「苑上」でなければならなかったこと』を書きます。
あ、その前に、苑上が孤独を知っていたことについてかなりさらっと書いてしまったわけですが、そのあたりに言及している記事が過去にあります。
「苑上という人」にて詳細を書きなぐっておりますのでよろしければご参照ください。
この記事は今見返すと自分でもちょっとテンション高すぎてどうかと思うほどなので、いつか機会を見て書き直したいと思います。
でも今でも結論は変わってません。


阿高にとって、「苑上」でなければならなかったこととは。
それに阿高が気づいたと思われる場面はどこか。
それはやっぱり最後の戦いに挑む、あの黒馬と苑上の二人の会話をする場面だと思います。

「わたくしもつれていって。わたくしもそこへ行くから」
苑上がいうと、黒馬は首をかしげ、横目で苑上を見た。
「おまえ、死にに行くつもりでそういっていたのか」(新書p.440)


阿高はずっと、自分は独りで死んでいくのだと思っていたはずです。
こんなひどい運命を背負っているのは自分だけだと。
だからこそ、同じように物の怪になりかけている安殿のもとへ行きたかったのでしょう。
わかってやれるのは自分しかいないと考えたはずです。
それが、苑上が死ぬつもりでついてきたのだと知ったとき、阿高は苑上も自分と同じくらい辛い思いを抱えていたのだと気づいたのではないでしょうか。

「これ以上迷子になるなよ。もういいんだ」(新書p.440)

この「迷子」というのが、おそらく阿高の孤独感の象徴的な言葉だったと思います。
阿高自身もこれまでずっと迷子のような気持ちでいたのが、この言葉になっているのではないかと。
ここから先の阿高の苑上への言葉は、今までのつっけんどんな態度から一変してとても優しげで気遣いに満ちています。

「本当にもういいんだ。おまえは自分をそこまで追いこまなくていい。いろいろ大変だったな。鈴が兄弟をどれだけ大事に思っているか、よくわかるよ」(新書p.441)

今までの阿高からは考えられないくらいに優しい言葉です。
個人的に、共感を示す言葉(よくわかるよ、とか)は最上級の慈しみがこめられている言葉だと思っています。
阿高は今まで誰にも分かってもらえない思いを抱える辛さを痛感していたはずです。
そんな阿高だからこそ、「よくわかるよ」という言葉は他よりも重みを増して聞こえます。
また、苑上の

「わたくしには、ほかに行くところはないの」(新書p.441~442)

という台詞は、阿高の周りの人間は誰一人として口にすることの無かった台詞です。
そして、きっと阿高だけが理解者のいないままずっと心の中に抱いていた思いそのものなのです。
この苑上の涙ながらに思いを吐露する様は、阿高とっては自分の辛かった心を彼女が代弁してくれているように感じられたのではないでしょうか。
私の思い込みではこの台詞こそ、阿高が苑上に強い想いを抱くことになった決定打だったのではないかという気がしてしょうがないです。
阿高はこの台詞により、苑上と自分は同じ思いを抱いていたのだとはっきり悟ったでしょう。
阿高のこれに対する答えは

黒馬の柔らかな鼻先が涙にぬれたほおに感じられた。
そのなぐさめの感触につかのま身をゆだねていると、風のような阿高のささやきが聞こえた。
「そんなことはない。鈴は人を幸せにする力を持っている。その力があれば、行くところがないはずはないよ。元気を出すんだ、きっとお前が必要になる者がいる」(新書p.442)


この台詞は、苑上を慰めながら、その実阿高自身が誰かに言ってほしかった台詞ではないかと思います。
・・・実は初読時、阿高がこんなに雄弁に優しい言葉を話すのはとても違和感があったんですよ。
あまりにも突然のような気がしたし、だいたい阿高はもっと喋るのが下手なイメージがあったのです。
ところがこんなに長い台詞をさらさらと言うし、やたらと察しがいいし、あれれ?という感じでした。
しかしこの台詞が、苑上に答えたものではなく、もっとずっとずっと前から阿高の中に存在していた台詞だったとすると、すごくすんなり納得できるのではないかと思いました。
もしそうだとすると、自分が言われたかった言葉を、阿高自身が誰かに言うというのは凄く重要な気がします。
阿高の中で、泣いてすがる苑上が阿高自身と一致したということなのです。
孤独な思いを抱いていたのは自分ひとりではなかったのだと気づいたのです。
竹芝ではこんな思いを抱いているのは自分ひとりだった。
でもこんなに離れた場所で、自分と同じ思いを抱いている人がいた。
それはどんなに心強かったでしょうか。
「あいつらの一人ではいられな」かった阿高ですが、代わりに同じ孤独を知る人を見つけました。
親に抱きしめられることの無かった阿高は、代わりに苑上を抱きしめることで自分も癒されていくのではないかと思います。
そうして人を慈しむことを知っていくのではないかと。
「そんなことはない~」という長年阿高の中でわだかまっていた(かもしれない)台詞を一度吐き出してしまうことは、阿高にとってはおそらく一種の満足感をもたらしたでしょう。
阿高は満たされた思いを抱いて、苑上を置いて安殿のもとへ飛び立ちます。
そんな阿高を苑上は追いすがり、

「もどってきて。もどってきて、阿高。おいていかないで」(新書p.443)

この台詞は、阿高に生きてほしいわけではなく、自分も一緒に死なせてほしくて言った台詞ですよね。
でも、阿高にとっては別の響きをもって聞こえたかもしれません。
妄想力を最大限に働かせてみます。
阿高は後にこの台詞を「誰が言ったのかわからない」と言っていました。
それは、もしかしたら過去に阿高自身が叫んだ台詞だったからではないかと考えてみました。
遠い場所で死んだという会ったこともない両親へ、幼き日の阿高が心の中で(あるいは夢の中で)泣いてすがった記憶が頭の中で声とともに交じり合って、だからこそ誰か分からなくなってしまった・・・とか。(完全妄想でスミマセン)
そうだとしたら、だからこそ阿高は無視できなかったのかもしれません。
あのときの辛さを知っていたからこそ、苑上の悲痛な叫びが、われを忘れた阿高の心に響いた(共鳴した?)のだとしたら・・・。
・・・まあ、ちょっと無理やりなはなしであることは自覚があります。
阿高はこの声を「女」と言ってましたしね。
でも、この「もどってきて」はきっと阿高が死んだ両親へ抱き続けてきた叶わぬ願いだったであろうことは、想像に難くありません。

同じ言葉でもこめられる思いが違えば、感じるものも違いますね。
藤太の言葉ではなく、苑上の言葉が阿高の心に響いたのはそれが原因だったと思います。
「一緒に生きよう」ではなく「一緒に死のう」が結果的に阿高を生かすために必要なことだったのでしょう。
藤太も阿高に「(いっしょに死んでくれと)試しにいってみろよ」(新書p.202)と言っていますが、このときの藤太は死にたいとは欠片も思っていません。
苑上は阿高と死のうとして「もどってきて」と言いました。
この違いは大きいはず。
そしてこれこそが阿高にとって「苑上」でなければならなかったことだと思います。
一緒に死のうと本気で言えるのは、苑上だけだったのです。
ここで大事なのは、二人が求めていたのは「死ぬこと」そのものではなく、そうせざるを得ないほど苦しい「孤独」から解放されることです。
「死ぬこと」はその手段です。
「もどってきて」と言われた阿高は、果たしてどこへもどろうとしたのか。
現か、故郷か、母の胎内か、それとも・・・。
このあたりを妄想するのも、伊勢阿高を楽しむにはとても有効なテーマかもしれないとにらんでいます。
また、阿高がずっと恋が出来なかった理由は、この誰とも共感できない心を抱えていたからだと思います。
それゆえ、初めて共感できる人を見つけて、その人を妻に求めたことは阿高としては当然の成り行きだったでしょう。
ということで、まとめです。

・藤太と苑上の何が阿高に己を取りもどさせたのか⇒阿高が孤独に打ち勝つための武器になったもの
・己を取りもどした阿高が得たもの。

これはそれぞれ

・苑上の孤独と共感
・他人を慈しむ余裕(優しさ)と人を恋うる心


ということで、いかがでしょうか。

結論として、藤太と苑上の役割は

藤太・・・阿高を孤独から引っ張り戻す・・・阿高が行く場所
苑上・・・孤独な阿高のそばに行く・・・阿高のいる場所

という感じのイメージです。


長々とお付き合いくださった方、もしいらっしゃったら、本当にお疲れ様でした&ありがとうございました!
しかし残念なことに兼倉の妄想はまだまだ尽きることがありません。
お暇がございましたら、まだもう少しお付き合いいただけると嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします!

ここからは、今回書いた語りの私的メモです。
普段は頭の中で考えているのですが、今回はそれだけでは整理し切れなかったので書き出してみました。
これを見ながら書いていたわけですが、書いた内容と若干違うところもあったり、中途半端なままのところもあったりしています。
語っていくうちに考え方が少しずつ変わっていったためです。
何卒ご了承ください。

阿高にとっての「藤太」と「苑上」の役割

藤太と苑上の共通点

阿高を孤独から救ってくれた人



孤独の接し方

藤太
困難に立ち向かう勇気
阿高を引き戻す→阿高の行く場所
・藤太は孤独を知らない
・孤独を知らないからこそ阿高に孤独を忘れさせることが出来た
・藤太は孤独を忘れさせてくれる存在
※弱点※
・孤独を忘れさせているだけで埋めているわけではないので、ふと孤独にとらわれる瞬間はどうしても存在してしまう
・阿高の孤独は存在の根源にかかわるものなので、忘れるだけでは解決できない
・孤独から逃げるために刹那的な行動(喧嘩っ早いなど)に出てしまいがちなところがある
・困難に立ち向かう勇気→最後の戦いで死を賭してみんなを守る「勇気」という選択をしてしまった



苑上
弱さを受け入れる優しさ
阿高のそばに行く→阿高の居る場所
・苑上は残される者の辛さを知っていた
・みんなを守って誇り高く死ぬことを否定していなかったので、阿高が最後の戦いで死を賭して立ち向かうことを否定しなかった
・苑上は孤独に気づいてくれた存在
※弱点※
・そもそも始めはそばにいなかった
・受け入れるだけではいつか甘えを生むことになる
・甘えは弱さになる場合もある


藤太→阿高がそばにいることで迷惑が掛かる
苑上→阿高がそばにいることで守られる
藤太は阿高の迷惑を受け入れる度量があるが、それは阿高にとって藤太に負い目を負うことになり、対等な関係が崩れてしまう。→阿高のプライドが認めない
苑上は阿高の力が必要な明確な(利己的な?)理由がはっきりとあるので、阿高が上の立場(庇護者的な立場)となることができる。→阿高のプライドが満たされる


・藤太と苑上の何が阿高に己を取りもどさせたのか→阿高が孤独に打ち勝つための武器になったもの
・藤太の信頼と勇気
・苑上の共感

・己を取りもどした阿高が得たもの。
困難に立ち向かう勇気→象徴:藤太
他人を慈しむ余裕(優しさ)→象徴:妻

お返事です・その153&ありがとうございます!!!

糸村和奏さま

ようこそおいでくださいました和奏さま!!
お待ちしておりました!!
まずはこれをどうぞ・・・つ[レモネード]<会社では最近忘れられがちになってきているレモネード。私一人飲んでます。

>この間はわざわざご連絡いただいてありがとうございました!

こちらこそ急に変更してしまってスミマセンでした。
間に合ってよかったです。
そしてこのため日向神話語りの開始が2月くらいに早まりそうです。
勉強が追いつかない・・・!(ピンチ)

>いっそ双子だったら良かった、というのは最初の方で美郷姉さんも言ってますよね。とても印象的だったのを覚えています。
>人と自分が違うというのを認めて、その上で全て肯定するのって、実はすごく難しいことだと思うのです。家族だとか、近い存在であればこそ余計に。


実はお恥ずかしながら、この美郷の「いっそ双子だったらよかったのに」という台詞の意味が暫く全然分からなかったんです。
阿高と藤太は兄弟じゃないけど、遠子と小俱那と違って血は繋がっているわけだから、別に必要はないんじゃないのかな?とのんきに考えていたんです。
でも今回これを書くにあたって、ちゃんと腰を据えて読んでみると、こんなに大事な意味があったのかと驚きました。
双子って血縁とか兄弟とかだけの意味じゃなくて、もっと比喩的な意味も込められていたんですね!
表面的なことしかわかってなかった自分が恥ずかしくなりました。
多分ほとんどの方はこの意味がちゃんと分かっていらっしゃったと思うのですが、私みたいな一つ一つ丁寧に見てみないと分からない奴が一生懸命取り上げてみることで、改めて「そういえばそうだったね」と思い出してもらえるきっかけにでもなれていたらいいなぁと思います。
・・・学生時代に国語が鬼のように出来る友達がいましたが(今も友達です)、その人からはしょっちゅう「どうしてそんなことが気になるのか」と言われていました。
まあ質問したら丁寧に答えてくれるのでとても助かっていたのですが。(口は悪いのに態度が凄く優しい人です。明らかにツンデレ・・・!)
私は昔からたった一行で書いてあることを二十行ぐらいにしてもらってやっと理解できるという極度の国語オンチでした。
そのころからの弊害で今でも普通の人なら分かっているようなことをだらだらと書いてしまいます。
私にはこのくらい書いてないと分からないんです(涙)
軽く鼻で笑ってやってください・・・!

>阿高はもちろん、藤太も内心それを認められなくて、だからましろの存在をずっと隠していたのかな、と。

!!!!!!
新見解!これは新見解です!なるほどー!!!!!!
そういう可能性も大いにありますね!
心のメモ帳に太字で書き込んでおきます。
貴重なご意見誠にありがとうございます。
薄紅理解がこれでさらに深まりました。

>そして前編にあった「存在を知らなければ見る(認識する)ことは出来ない」とのお言葉、とても深いですね。人と自分の違いに気づくというのも、この言葉につながっていると感じます。

この辺りが苑上と藤太の一番の違いかな、と思っています。
ずっと一心同体だと思っていた藤太と阿高は実はまったく別の人間だった。
ずっとまったく違うものを見てきたはずの阿高と苑上は実は同じ痛みを知っていた。
違う人間だからこそ、お互いがお互いに刺激しあい、尊重しあうこともできる。
同じ痛みを知っているからこそ、傷を見つけて手を伸ばすことができる。
どちらもかけがえのない大事な存在だと思います。

>藤太は阿高と離れ離れになったことで、今まで認識していなかったものが存在していたことに気づき(抽象的ですみません)、丸ごと受け入れたのでしょう。それが阿高にとって大きな救いになった。
>阿高はこのお話を通じて大きく成長したけれど、それは藤太も同じだったのだな、と兼倉さまの考察を読んで思いました。


藤太は今まで阿高のことは何でも知っていると思っていたけれど、藤太が見ていた阿高はきっと見えない壁の先の阿高で、藤太は今回阿高との間にそういう壁が存在していたことを知ったと思います。
そしてその壁は越えることができない種類のものであり、その上で、その壁があっても自分と阿高との友情にはいささかの障害にもならないと考えたのではないでしょうか。
「たとえおまえがおれのことを見限っても、ほかのどんなものになっても、おれは願うのをやめないだろう」という藤太の台詞は、阿高との違いを思い知って、それでもそれを受け入れてこれからも一緒にいたいという決意がとても伝わってきます。
今回の考察もどきを通してとても好きになった台詞の一つです。
また、今回は阿高を中心にして阿高との関わりで書いていますが、広梨や茂里や千種も、それぞれが今回の試練で大きなものを得たのだろうと想像します。
読めば読むほどいろんなことが深まります。
薄紅天女は本当に素晴らしい物語ですね!(いつもの結論)

>苑上編も楽しみにしておりますが、ご無理はなさらないようにしてくださいね。お互い、社会人にとっては辛いところですよね(苦笑)
>それでは乱文失礼いたしました。


ありがとうございます!!
そのお言葉が励みになります!!
昨日は早く寝て朝起きようかと思ったらそのまま朝まで爆睡してしまいました・・・。
やはり私は夜型人間のようです。
身体と相談しながら、好きなものを長く続けられるようにしたいと思います。

コメントありがとうございました!!
和奏さまのまたのお越しを心よりお待ちしております!!
25日の22時台と本日7時台と14時台に拍手を下さった方ありがとうございます!!!
後少しで今回の話題はけりがつきそうです。
次の「阿高の心の死と再生」についてはもっと簡潔に書けるように頑張りますので、ぜひそちらもよろしくお願いします!
拍手ありがとうございました!!!

【後編その一】「藤太」でなければならなかったこと、「苑上」でなければならなかったこと

まとまりのない呟きみたいになってきててすみません。
続きです。

藤太はずっと阿高に孤独を忘れさせることで救っていましたが、それも限界がきてしまいます。
それは藤太の秘密がきっかけでした。
阿高はずっと藤太と一緒にいることで、孤独であることを忘れていましたが、それは自分と藤太がまったく違う人間ということに阿高自身が目を逸らして、自分と藤太は一心同体であるかのように錯覚していたからこそ、出来たことではないかと思います。(孤独を知らないで朗らかに生きる藤太に阿高は自分を重ねていた?)
しかし、藤太は阿高の知らない秘密を知っていました。
阿高は今までずっと自分は藤太のことは何でも分かると思っていました。
しかしこれにより、藤太は阿高とはまったく違う人間だった(よく考えれば当たり前のことですが)と思い知らされました。
・・・ちょっととっぴな考え方でしょうか。
もう少し詳しく書いてみます。
原作中、阿高は何度か藤太と自分が違うことを気にしている箇所があります。
恋が出来ないこと、容姿が違うことなど。
けれど、そういうことを気にしても、あまり深く考えようとはしていません。
そういう考え(「心にしこりがある」状態?)に陥るたびに、藤太が気づいてひっぱり戻してくれたからではないかと思います。
衾にもぐりこむころには、阿高の胸のつかえは消え去っていた。
今までどおり、藤太のすることについていこうとしみじみ思った。(新書p.25)

こういうことが、きっとそれまで飽きるほど繰り返されてきていたのだろうと想像します。
考えてみれば、阿高にとっては藤太や父親と同じであること(似ていること)は竹芝(武蔵)人と同じであること、そして母親似であることはそうではないこと(=武蔵では孤独)に繋がっていたかもしれません。
一生懸命、自分はここの仲間であると信じたかった阿高の心を思うと胸が締め付けられる気がします。
ちなみに藤太の方についても少し。
藤太は阿高と違って大勢の人に囲まれて孤独を知らずに生きてきました。
でも孤独を知らずに恵まれすぎていたからこそ、失うことに対する恐怖心は人一倍だったのではないかと推測しています。
藤太が阿高といることは、一方的に阿高を救うだけではないと思います。
藤太もまた、阿高が必要としてくれることで、そういう恐怖心から縁遠くいられた。
それが、ふとしたきっかけで離れていってしまった。
誰かを失うという体験したことのない恐怖に、藤太はきっと耐えられなかった。
藤太も阿高とは別の理由で、阿高を自分と同じに思っていたはずなんです。
無条件に一生一緒にいられると信じて疑わなかった。
そういう阿高が離れていってしまったことで、このとき藤太も阿高が自分とは別の人間であり、失う可能性があるのだと自覚してしまったことでしょう。
二人は陸奥の地で再会します。
その時の藤太が阿高に言った台詞を見てみます。
「阿高。それがおまえのためになのかどうか、正直にいえばわからないよ」(新書p.193)
この言葉はきっと武蔵にいたころの藤太には言えなかった、思いもしなかった言葉だと思います。
自分と阿高が別の人間だと初めて自覚して、それに戸惑いながら一生懸命に語りかけているのでしょう。
「だけどおれは、追ってこないではいられなかった。おまえにいてほしいんだ。おれたち武蔵の仲間の中に、竹芝のおれたちの家にいてほしい。たとえおまえがおれのことを見限っても、ほかのどんなものになっても、おれは願うのをやめないだろう。今までおれが気づかなかったのは、おれたちはけっして双子じゃないということだ。生まれついてひとつのように、当然の顔をしてそばにいてはならなかったんだ。だから今からたのむよ。おまえの思いをおれに分けてくれ」(新書p.193)
藤太はお互いにお互いが「双子」ではなく、ただの他人であり、ともに居られることの奇跡に感謝することと、これからもともに居るためには努力が必要だということを学びました。
阿高としては、お互いが別の人間であっても、仲間として求められることはどんなに嬉しかったことでしょうか。
違っていても、それでも一緒にいたいと望んでも許されることを、藤太は命を賭けて阿高に伝えてくれたと思います。(よかったね阿高!)
これは苑上のように阿高と本質的なところで同じ部分を持っている人間では意味がなかったことです。
藤太だったからこそ、阿高と本質的に違う人間が、「違っていてもいいんだよ」と言ってくれることが大きな意味を持っているわけです。
ここで、阿高は自分が一人の人間であるという自覚を持つとともに、自分のために命を賭けてくれた藤太の勇気に応えたいと思ったのではないでしょうか。
雷の力という巨大なものへ立ち向かう強い意志と勇気は、きっとこのときの藤太のお陰で持つことが出来たと思います。
前編で書いていた
・藤太と苑上の何が阿高に己を取りもどさせたのか⇒阿高が孤独に打ち勝つための武器になったもの
・己を取りもどした阿高が得たもの。

は、それぞれ
・藤太の信頼と勇気
・一人の人間としての自覚と困難に立ち向かう勇気

ということになると思います。

これが、阿高にとって『「藤太」でなければならなかったこと』のとりあえずの結論とさせてください。
この後苑上の方も書きます。
後編なのに「その一」とか書いててホントスミマセン・・・。
行き当たりばったりなのがバレバレですね。

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