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本歌取りと万葉集~良寛と本歌取り~

拍手ありがとうございますフォオオオオオオウ!
単パチや2連パチや5連パチや10連パチなど大変ありがたいことです!!!
もしかして世の中万葉集とか本歌取りとかに関心を持っておられる方けっこうおられるんじゃないですか・・・!?(調子に乗った兼倉)
この勢いで続きです!


今回は万葉集が編まれた奈良時代からはぐっと下って江戸時代後期の僧である良寛(りょうかん)さんをご紹介したいと思います。
まず簡単に良寛さんの人となりを見てみましょう。

良寛がめざしたのは、仏法が人びとの中へと直接に柔らかい形で入っていくその現場に立とうということである。
子どもを仏さまと見て、徹底して一緒に遊ぶという態度もそうであるが、托鉢に回る家の老人に回る家の老人にお灸をすえてあげたり、マッサージをしたりと介護にも意を尽くした。
時には老婆の愚痴をも、とことん聴いて慰めるという無畏施(むいせ)(不安を解消する)の布施行もつとめている。
(角川ビギナーズ・クラシック「良寛」より)

素敵なエピソードだと思いました。
良寛さんの書は今もたくさん残されているそうです。
優れた作品性のみならず、彼の人柄がいかに愛され続けているかということを表しているように思えてなりません。

さあ、そんな良寛さんの作品を見てみましょう。
今回は先に良寛さんの歌を載せて、そのあと本歌となった万葉歌を見てみます。
それではご覧ください。

(かすみ)立つ ながき春日を
 子供らと 手まりつきつつ この日暮らしつ

歌意:うららかに霞の立つ長い春の一日、子どもたちと手まりをついて楽しく過ごしたことだなあ。

一応歌意を載せましたが、江戸時代後半ともなればその必要がないくらい現代語に近いですね。
良寛さんの人となりが非常によく表れている歌だと思います。
この前に載っている長歌も、読むと思わず頬が緩んでしまうような子どもたちへの愛情にあふれた歌です。


では、上の歌の本歌となった万葉歌を見てみましょう。
二首あるので続けて載せます。

霞立つ 長き春日を
 かざせれど いやなつかしき 梅の花かも

歌意:霞の立つ長い春の一日中、髪にさしているけれど、ますます離しがたい気持ちだ、この梅の花は。(伊藤博)

春の雨に ありけるものを
 立ち(かく)り (いも)家道(いへぢ)に この日暮らしつ

歌意:こまかく降り続く春の雨であったのに、物陰で雨やどりして、あの子の家に行く道中で、この長い春の一日を過ごしてしまった。

始めの歌は「梅花の宴」(梅の花を見ながら歌を詠みかわす宴)の最後に収録されている歌です。
宴はもう終わるというのに「なつかしき」(離しがたい)と詠んでいるところがとても心にくいですね!
宴のトリとしてはこれ以上ないくらい素晴らしい歌ではないでしょうか。

次の歌は作者未詳の歌で、大した雨でもなかったのに雨やどりなんかしてしまって、愛しいあの娘に逢いにいけなかったことを後悔している歌です。
「この日暮らしつ」の語が非常に恨めし気に聞こえてきます。

しかし良寛さんはこの「この日暮らしつ」を全く逆の大変満足した気持ちで歌い換えていて、そんなところが面白いです。
「霞立つ 長き春日を」の部分も、万葉歌の方では貴族たちの優雅な宴の情景ですが、良寛さんはどこにでもある庶民の生活の一コマとして普遍の情愛を込めて歌っています。


もう一つ良寛さんの歌。

月よみの 光を待ちて かへりませ
  山路は栗の いがの多きに

歌意:月が出て明るくなってからお帰りになったらどうですか。夜の山路は栗のイガも多くて危ないことでしょうから。

良寛さんの庵を訪れた親しい友人に、その帰りを引き留めようと詠んだ歌です。
万葉集からの本歌取りであることも去ることながら、歌で引き止めるという行為そのものがすごく万葉っぽいです!フォウ!
相手ももちろん万葉集のことは熟知している人で、二人が万葉集の世界を自由に楽しんでいるところが想像されます。(羨ましい・・・!)

この歌の本歌となった万葉集はいったいどんな歌なのかというと

月読の 光に来ませ
 あしひきの 山き(へな)りて 遠からなくに

歌意:お月様の光をたよりにおいでになって下さいませ。山が立ちはだかって遠いというわけでもないのに。(伊藤博)

詠んだのは湯原王という皇族(天智天皇の孫)です。
男性ですが、この歌は女性の立場で詠んだといわれることが多いです。
とても美しく繊細な歌が得意なお方で、この歌も月の清らかな光に恋人たちの一夜の逢瀬がなんと映えることでしょう。



いかがでしたでしょうか。
良寛さんと万葉集の親和性は何と高いのか。と私は一人でニヤニヤしています。
次回はいよいよ最後です。
大正から昭和初期に活躍した斉藤茂吉さんと、今回のシリーズのまとめというか、オマケ的な話題を書いて終わりたいと思います。

お返事です!

一緒に大阪に行く予定だった友達から日曜日に仕事が入ってしまったと連絡がきましたぐああああああああ!
もう完全に大阪に行く気満々だったのにこれは・・・!
とりあえず代わりに土曜に一緒にカラオケに行くことになりました。
楽しんでこようと思います。

りえさん

>金閣寺、すてきですね!
>五年くらい前に行ったことを思い出しました。
>ジャパニーズテンポウ、ソービューティフル
>っておっしゃってた見知らぬ外人の方が忘れられません。


りえさんも行かれましたか!
金閣寺はやはり日本にいる人間としては一度は訪れておきたいスポットですよね!
私が行った時も外国人の方がいっぱいいらっしゃいました。
日本国内でこれほど外国人率が高い場所はそうそうないのではないかと思いました。
みなさん写真も撮りまくりで、楽しそうにしておられたのが印象に残りました。
中世の歴史はまったくわかってませんが、とりあえず一目見て「一休さん・・・」と呟いてしまいました。

>それはさておき。
>本歌取りの記事、たのしく拝見してます。
>実朝さんの「われてくだけて…」には、なんとも豪快な男らしさを感じます。+無常。


ああああありがとうございますフォオオオオオオオオウ!
本歌取りはとても楽しいです!
今の私が万葉集に浸りっぱなしなので、今回の記事では万葉集がらみばかりをご紹介しておりますが、それ以外も非常に興味深いです。
ただ歌を詠むのと違って、本歌をどんなふうにアレンジするのかという見どころが新たに加わります。
本歌のテーマをより一層深く解釈しているものや、同じフレーズで全く新たな世界を作り出す歌など。
本歌があるからこそさらに面白味が増している気がします。
広い意味では私の二次創作の楽しみ方にも共通する部分があるような気もします。
実朝さんの歌の豪快さは、実はそれとは相反する非常に真摯で繊細な観察眼によって成り立っていて、そういうところに私は胸を熱くせざるを得ないです。
無常観に対してそれを嘆くのではなくあっけらかんと言い放っているところにも好感を持ちます。

>あ、あと。
>いまさらなんですが、100分で名著の「万葉集」三回目と四回目をみて、「なんで一回目から見なかった」と自分をせめました。
>家持さんの繊細な感性に触れて、万葉集への興味がわきました。それも兼倉さんの家持プッシュのたまものです。
>ではまた!


おお、りえさんもご覧になられましたか!
私の無駄な家持プッシュが実を結ぶ日がくるとは・・・!(奇跡)
私は現在4回をまとめて編集依頼中(父に)なので、きちんと鑑賞するのは後日になりそうですが、こらえきれずにちらちら見てしまった感じでは、とても素敵な雰囲気でしたね!
壇ふみさんの美声のなんと素晴らしいことか・・・!(日めくり万葉集のナレーターの時も素敵でした)
初回のダイジェスト版?のようなものがユーチューブにUPされていたので、よければどうぞ!

家持さんも一応武人なんですが、実朝さんとはかなり毛色が違いそうですよね。
そんなところも好きなんです。(のろけ)
ぜひまたお越しください!常にお待ちしております!

折角の5月の四連休にまだ何も予定を入れていない私です。
本当は九州の西都原古墳群に行ってみたいとか、宮城の多賀城に行ってみたいとか、いろいろ思ってたんですが、決めかねていたらもうこんな直前にまで迫ってきていて動揺しています。
どうしよう。どうしよう。
もういっそまた越中国に行こうか。
でももう寒ブリ終わってしまったし・・・・あ!寒ブリ終わったということは今ホタルイカじゃないか!(ピカーン)
家持さんとホタルイカのために越中国・・・いいかもしれないなあ。うーん。

本歌取りと万葉集~源実朝と本歌取り~

2連パチと10連パチをくださった方々本当にありがとうございます!!
本歌取り面白いぜフォオオオオオオオオウ!という気持ちで進んでおります!
あ、日曜日に行ってきた金閣寺は大変すばらしかったです!
金箔はやっぱりすごく見栄えがするなあと思いつつ、奈良の大仏の在りし日の姿を妄想していたにわか古代ファンの私でした。

それでは今日は鎌倉幕府第三代将軍「源実朝」さんの本歌取りを見てみたいと思います。
源実朝さんは前回取り上げた藤原定家さんに学んだ本格派の歌人です。
なお、今回から歌へのコメントを3行以内と制約して書いてみます。
少しは見やすくなっていることを祈りつつ。


まずは本歌となった万葉歌の方。

明日よりは 春菜摘まむと
  ()めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ
(巻八-1427 山部赤人)

歌意:明日からは若菜を摘もうとしめを結っておいた野に、昨日も今日も雪が降っている。(木俣修)

目の前に広がる「野」という風景を詠んでいながら「昨日」「今日」「明日」という言葉を織り交ぜて、その時間的な広がりをも表しています。
「空間的な広がり」と「時間的な広がり」を一つの歌で詠み上げているのはすごいと思いました!



それではこの歌を本歌取りした源実朝さんの歌です。

春は先ず 若菜摘まむと
 ()めおきし 野辺とも見えず 雪の降れれば

歌意:春になったら若菜を摘もうと決めておいた野原なのに、雪がこんなに降り積もって、まるで別世界のようになってしまった。

本歌と言葉の上では近い歌ですが、「野辺とも見えず」というところがこの歌のオリジナリティーの核になっているところでしょうか。
本歌の「時間的な広がり」に対して、野原が様変わりしてしまった目の前の光景への純粋な驚きが打ち出されていますね。
この潔い感じが武士という気がするのですが、どうでしょう。


次は作者不明の歌。

逢坂を うち出でて見れば
  淡海(あふみ)の海 白木綿花(しらゆふばな)に 波立ち渡る
(巻十三-3238)

歌意:逢坂の峠をうち出でて見ると、おお、近江の海、その海には、白木綿花のように波がしきりに立ちわたっている。(伊藤博)

「淡海の海」とはもちろん琵琶湖のことですね。
琵琶湖のゆったりとした波に白い花が映えて、すがすがしい光景。
この歌は奈良から近江へと旅をしていた人が詠んだ歌なので、旅の疲れを吹き飛ばす感動的な風景に写っていたことでしょう。


ではこの歌を本歌とした実朝さんの歌。

箱根路を わが越えくれば
 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

歌意:箱根路を越えて来ると、目の前に伊豆の海が大きく広がっているではないか。そして沖の小島には波の寄せるのが遥かに見える。

箱根は東海道の難所です。
苦労して山を越えてきたら、パッと目の前に広がる伊豆の海はどれほど素晴らしかったことか。
山中と違って遠くまで見晴るかせる開けた風景の解放感が遠くに見える「沖の小島に 波の寄る見ゆ」から伝わってきます。


次の歌は万葉集の中でも私がちょっと意識している歌です。

伊勢の海の 磯もとどろに 寄する波
  (かしこ)き人に 恋ひわたるかも
(巻四-600)

歌意:伊勢の海の磯をとどろかしてうち寄せる波、その波のように恐れ多いお方に私は恋い続けているのです。(伊藤博)

返事もくれない大伴家持に笠女郎が一方的に送り続けた29首の内の一首です。
家持さん、もしやわざと放置して面白い歌を贈らせたのでは・・・と勘ぐってしまいたくなるくらい彼女の歌は面白いです。
名門大伴家の嫡男で身分も気位も高い家持さんの態度を神の住まう伊勢の海の磯をとどろかせる波に例えた独創的かつ最高に的確な表現は、彼女の家持さんへの思いがもはや崇拝の域に達しているのか逆に強烈な当てつけを意味しているのか、私をいつも楽しく悩ませてくれます。


それではこれを本歌とした実朝さんの歌。

大海の 磯もとどろに 寄する波
    割れて砕けて 裂けて散るかも

歌意:大海の荒磯をとどろかせて波が打ち寄せている。激しく岩にぶつかった波は、おお、大きく割れて砕けて、裂けて最後はしぶきになって散ってゆく。

実朝さんといえばこの歌!というくらい有名な歌だそうです。
上三句はまさに本歌取りそのものなのに、その後の大波が磯に寄せる壮絶な描写が歌全体をまったく新しい印象に生まれ変わらせています。
ちなみにこの歌の本歌となっている歌は他にも巻七-1239や巻十二-2894が指摘されています。


いかがでしたでしょうか。
万葉集の素朴さや平安時代の雅さとは打って変わって、中世武士の荒々しさや潔さがとても興味深いと思いました。(次の瞬間兼倉の指はAmazonで「金槐和歌集」を検索していた)


次は江戸時代まで下って、子供好きの僧として有名な「良寛」さんの歌をご紹介します。
そのあと現代歌人「斉藤茂吉」さんをご紹介して、このシリーズを終わりにしようと思います。
あともう少し、お付き合いいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。

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